第52話 交わる思い、竜は蘇る
「賤竜……!」
賤竜は。この騒ぎのなかでもピクリとも動かずに、首を項垂れさせていた。だが、呼ばれてようやく反応を見せた。
は、と大儀そうに息をこぼす。緩慢に首をもたげて、閉じていた双眸を開いた。
『……冽…………花……』
重たげに伏せた目の奥から、見返してきたのであった。
その気だるげな様子には覚えがあった。出会った時と同じだ。どうにか稼働している、渇いて、弱りきった状態だった。
そうして、弱りはてた賤竜の身には、冷たく硬い鎖が幾重にも巻かれていた。
冽花は――改めて見て、言葉を失くした。
あまりの仕打ちと憔悴ぶりに胸がつぶれそうになり、おもわず声もなく駆け寄っては、膝をついて抱きしめていた。
わななく唇を開きつつ、彼を抱く腕に力をこめたのであった。
「……っ、対不起、賤竜! こんな……苦しい思いさせちまって……っ」
絞りだす声に滲むのは、痛みであった。
あんなにも泰然と、威風堂々と構えていた彼が、こんなにも――冽花を救うために。
見ていられなくて。
押し殺した悲鳴めく声をあげたのであった。
そうして、耳朶を打つそれに賤竜の瞳が動いた。ゆっくりと流し見て、今にも泣きだしそうな歪んだ顔を映すや、かすかに睫毛を揺らした。静かに口を開いた。
『……問題、は……な……ぃ』
「……っ!」
冽花は息を飲んだ。実直な、馬鹿正直と言っても過言ではない賤竜が紡いだ、消え入るような『嘘』、『強がり』を聞いて、かえって瞳を潤ませたのだった。
顔を上げるなり、その肩を拳でたたいた。
「笨蛋ッ! 我慢すんじゃねえよっ! ……そんな気遣い要らねえ!」
噛みつくように吼えた後、後からあとから涙があふれて止まらなくなる。そんな冽花を見て、賤竜は目を細めて、瞼を一段おろした。そっと囁き返した。
『…………対不、起』
「真是个笨蛋……っ。こんなに弱ってまで……あたしのこと気にするなんざ」
ずるりと拳を滑りおろし、冽花は彼の肩に顔を埋める。額を擦りつけて、すすり泣いた。
「対不起、賤竜……っ」
『……是』
「でも……多謝……ッ」
『…………是』
律儀に応えてくれる声に、涙がこみ上げてやまなかった。
ずっとこのやり取りが恋しかった。呼べば必ず応えてくれる、当たり前のように傍らに彼がいる時間が、『日常』が、恋しくて仕方がなかった。
真面目で不器用で、その実は優しい僵尸のことが、恋しくて堪らなかったのであった。
冽花の大切な好友であり伙伴が、戻ってきたと感じられた瞬間だった。
そうして、冽花は――わななく口を開けた。けれど、緩くなってきた鼻をすするのと、しゃくりあげるのとで、その声は潰れてしまう。
会えたら話したいことがたくさんあったのだけれど、この分だと伝えるのは難しそうだ。
何度も口を開こうとした挙句に失敗し、ぐ、と唇を噛んだ。
「……っ、賤……竜……ッ」
『是』
それでも。冽花は諦めなかった。
どうしても――どうしても伝えたくて。
胸のなかにある思いを、欠けらでもいいから伝えようとした。
だから、ぎゅっと賤竜の服の背を掴んだのである。すう、と息を吸った。
「謝、謝……っ」
そうして押しだした。送りだした。何度もなんども、涙まじりの礼の言葉を。
そこに主語はなく、賤竜にしてみたら、わけの分からない状況にも思えたかもしれない。
けれど、冽花は懸命に思いのたけを、ただ一言に込めたのであった。
切れ切れでところどころに鼻をすする音が混じり、顔すら上げられない。ついには咳きこみだす始末である。
そんな冽花を見て、賤竜は緩やかに瞬きを落とした。
「非常、感謝……ッ、賤、竜……っ」
泣きながら彼へと、一心に礼を告げる――やはり不器用な姿を見て。賤竜はふ、と目を細めては俯いた。
冽花が気付かぬぐらいにごく軽くながら、その肩へと顎を触れさせる。あるかなしかに唇に弧をひいて、目を閉じた。
穏やかで、どこか噛みしめるような表情を浮かべたのであった。
が、それもつかの間のことであった。
ふと再び瞼を浮かせる。瞳を動かし、やおら柵のほうを見た。
――同じ風水僵尸である賤竜には分かった。傍らの水中における気の胎動が。
『……冽、花』
「ん……」
『抱水が……戻る』
「……っ!!」
弾かれたように顔を浮かせる冽花に、元の真顔に戻った賤竜は続けた。
『血が、足りない。……力が……足り、ない』
「ああ……分かってる。今――」
すぐさま頷いて、襟の釦へと手をかけ外し始める。
そんな冽花を見て、賤竜は――目を伏せて、おもむろに口を少しばかり開いては閉じた。なにやら言いよどむらしい仕草をしたが、冽花は気付かなかった。
賤竜はもう一度試みた。息を吸っては小さく口を開き、
『お前、の……協力が必要、だ』
その言葉を、どこかぎこちなくも唱えたのだった。
冽花の手が止まった。
「…………へ?」
襟を寛げた状態で、ゆっくりと顔を持ち上げる。ポカンと口をも開け放し、見返す。
そんな冽花をなおも見て、賤竜は幽かに目を細めてみせた。
どこか可笑しげに。そうして、口を開いた。
『……好友、なのだろう? ……此は』
「へ、ぁ……」
『先に、そう告げていた、故』
だから告げたのだ、と言いたいのだろう。冽花は完全に絶句し、瞬きを繰り返した。
本当に、何が起きているのだという気持ちでいっぱいだったが。
そういえば妹妹が言っていた。
『哥哥は楽しそうだった』と。実はこちらの方が素であるのかもしれない。
そうして、遅ればせながら、もう一つ気付いた。
今告げてくれたのは、他ならぬ賤竜の『内情』だということに。
あれだけ頑なに口をつぐみ続けた『自分の気持ち』について教えてくれたのである。
「あ……」
おもわずと口をついて出た言葉に、賤竜は柔らかい面差しで見返す。
『分かったか』とでも言いたげな眼差しをしていた。
気が付いたと同時に、胸に広がる暖かいものがあった。目頭が熱くなった。
冽花は口を開いては閉じる。やはり、上手く今の気持ちを言い表すことができない。
そんな冽花を、賤竜はやはり温かく見守ってくれた。
冽花が選んだのは結局、ただ一つの単純な答えであった。
「……っ、うん……!」
歓喜の涙を目尻に滲ませながら、強く頷いては飛びついていく。それだけ。
柔らかく白い首筋を晒し、賤竜へと身を委ねていった。
賤竜はその身を受け止めて、首に顔を埋めた。躊躇いなく剥きだす牙を立てる。
びくりと冽花の体は強張るものの、退かない。賤竜もまた、なおも牙を食いこませて、唇を被せて血をすすりだした。冽花は唇を真横に結んで耐えていた。
『……っふ』
賤竜は目を伏せた。契約者の甘美な血液を吸って、満ちてくる力を感じた。そうして、ふと、あえかな微笑にもならぬ弧を、再び唇へと引いた。
その気色は確かな『喜び』をあらわすものであった。
そうして、ここでだしぬけに二人にむけて、水の槍が無数に投じられてくる。
抱水である。ついに彼は与えられた痛みを乗り越え、帰還した。池の水を渦巻かせて、水底にしゃがんでは、冽花らをねめつけていた。
カッと賤竜は目を見開いた。その円く瞳孔のひらいた眼が炯々と輝きを帯び、水の槍を、抱水を見つめた。
そして、彼はおのが契約者を呼ぶ。契約者もまた、打てば響くように。後ろを振り返ることなく、風水僵尸へと応じた。
『冽花』
「ああ。基本武装の解禁、それに――」
「『水滴石穿』を許可する!! ぶっ飛ばせ、賤竜!」
『知道』
声高な命令――そして激励に、黒き炎が燃えあがる。
轟々と燃えさかる陰気が。そして、千々に砕ける鎖があり、風水僵尸・賤竜が雄々しく立ち上がったのだった。




