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第39話 奔る赤錆

 死にかけの獣が、緑豊かな川べりを歩いていた。


 その歩みは遅々として進まない。

 四つ足がもつれて、今にも倒れそうになっている。


 さもありなん、彼は全身に幾条もの矢を浴びている。動くつどに刺さった矢が、唸りをあげたくなるほどの痛みを発していた。


 が、獣は唸りもせず、歩くこともやめない。


 なぜならば、声をあげたが最後、立ち止まった時が最後だからだ。

 力尽きて動けなくなったが最後、追手が来て、とどめを刺されるのは確実だと、本能で知っていたのであった。


 獣は生きながらに死に瀕していた。歩くごとに血が滴り、地面を濡らす。逃げようと、命は風前の灯火にあるのだと知っていた。


 だが、それでもなお逃げるのはなぜか。

 単純な話である。彼は『死ぬのが恐ろしい』からに他ならない。


『……っ』


 普通、獣は『先のことなど考えない』ものである。だが彼は考える。思考し、恐怖してしまう。

 他ならぬ、半端に持ち得ている『人の思考』が存在するために。


 獣は『蟲獣』と呼ばれる存在であった。

 虎である。人面虎(じんめんこ)とでもいうべき異形の虎であった。


 虎の頭の一部に、唇をひん曲げて涙を流す、男の顔が()け合っている。肌は汚らしい灰白色(かいはくしょく)であり、うっすらと『梅の花の絵図』が頬にうかんでいた。


 人面虎は、男は、恐ろしくてたまらなかった。

 自分はもうすぐ死んでしまう。他ならぬ――武器を幾つも携えている人の手で殺されてしまう。


 自分が一体、何をしたのだ。ただ生きていただけ。生まれただけだというのに。


 懸命に足を動かす。少しでも遠くに、追手から逃れるために。少しでも長く、生き永らえるために。

 だが、死に物狂いで歩き続ける彼の鼻に、ふいと触れる『香り』があった。


 嗅いだ途端に彼は歩みを止めてしまった。

 それは奇妙な香りであると同時に――気配であったために。


 血と膿と、薬草の匂いが入り混じる強烈な香りが、風上から匂ってきていた。

 嗅ぐ者の顔を歪めてしまいかねぬほどの不快な香りであり。獣である人面虎からすれば、『弱った者が纏う』はずのものであると、容易く判別することができた。


 ――弱者、のはずである。おのれと同じぐらいに傷つき、死が近い者のはずだ。


 だが。体が動かないのはなぜだろう。


 心臓が早鐘を打つかのように脈打ちだしている。自分のなかのどこかが、『逃げろ』と警鐘を発していた。だが、蛇に睨まれた蛙のごとくに動くことができない。


 得体の知れない香りの主は、もうすぐそこまで迫っている。


 きぃ、と軋み音があがった。人が言い表すに、車輪が草を潰し、回る音が聞こえてきた。


 目の前、三丈(9メートル)先の茂みからである。

 そして人面虎は、その場に広がる『新たな血臭』を感じ取った。

 香りの主は怪我をしたようだ。だが、ちっとも安心できはしない。


 人面虎はなおも近づく音が聞こえるため、ようやく後足を一歩だけ下げることができた。

 が、その時であった。彼は自分以上に奇妙なものを見つけた。


 それは『ぬめぬめと濡れ光る赤錆色をした』、『蛇に近い軟体』だった。

 素早く地面を蛇行し進んでくるのだが、顔がない。無頭の蛇もどきであった。


 蛇もどきはどうやってか真っすぐに、人面虎を目指し進んでくるのである。


 逃げなければ。逃げなければ……! 気持ちばかりは逸るものの、人面虎は。

 茂みの向こう側から現れた姿をみた瞬間に釘付けになってしまった。なぜだかはついぞ、分からなかった。


「ひゃひゃひゃ」


 ひどく意地の悪い嗤い声が耳を打った。


 それとどうじに、這い進んでいた蛇もどきが距離を縮めて助走をする。そうして、ひと跳び! 人面虎へと跳びかかっていた。


『がぁう……!?』


 人面虎は吼えた。吼えざるを得なかった。


 さすがに硬直が解けて、反射的に前足で叩き落してやろうとした折に、ずぶりと。足に蛇もどきが食い込み、そのまま体内に沈みこんでいったためだ。


 意味が分からなかった。体を振りたて、跳ね飛んで、血を滴り落としても、体のなかを這い進む蛇もどきは追いだすことができない。


 やがて蛇もどきは人面虎の(はらわた)へと到達する。柔らかい肉を食い破って、背へと身を突きだした。血しぶきがあがった。


『がぁうッ! ぎゃぁああ!』


 人面虎はもう恐慌状態に陥っている。痛い。痛い痛い痛い痛い!

 体を内部から食い荒らされている。あまりの痛みに視界が明滅した。


 蛇もどきの進撃は速さを増す一方だ。腸を食い破っては突きでて、また沈んで、を繰り返す。その度におびただしい血しぶきがあがる。


 人面虎はさんざん跳ね、暴れて躍らされた挙句、地面へと倒れ伏した。


 ついに頭に到達した蛇もどきが人面虎の片目を突き破って生える。くぐもった呻き声を発する。

 まだ、まだ死ぬことはできない。なぜなら蟲獣もまた、蟲人と同じく強い体と回復力をもつ存在だからである。強靭なる肉体が苦しみに彼を繋ぎとめていた。


 力なく四肢をばたつかせて痙攣させていると、香りの主はより近づいてくる。

 車輪の回る音が聞こえて、隻眼になった人面虎はどうにか顔をそちらへと向けた。


『ゃえお……ゃえて、くで……!』


 弱々しく懇願する。これも半端に前世から持ち込んだ拙い人の言葉を使い、命乞いを図った。だが、その人物は静かに嗤い、人面虎を指さした。


 血の滴る、包帯を巻かれた手で。


「ひゃひゃひゃ。許せよ。お前の命は有益に使わせてもらうでな」


 その無情な言葉ののちに、人面虎の首筋から蛇もどきが顔を出した。


 蛇もどきが次に鎌首をむけるのは、人面虎の『人のがわの顔』である。風を切って奔り抜けていく。

 その頭蓋が貫かれ、砕ける音を聞く。だが、まだ死ねないのである。まだ。


 血と脳漿(のうしょう)にまみれながら、人面虎は絶望にまみれた咆哮(ほうこう)をあげた。

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