第38話 風水僵尸・抱水の実情
いつも、この部屋に通される時の抱水は最悪な心もちになる。
きっと鳥肌が立つとはこのような思いを指すのだろうし、吐き気をもよおされるとは、恐らくこんな心情であるのに違いない。
豊富な言語野が――あくまで胸の内に留めるものの、低俗な罵声で埋め尽くされるのは、この部屋と部屋の主にたいしてだけである。今のところ。
あらゆる不快を耐え忍びながら、抱水は跪いて拱手をしていた。
場所は福峰における中枢を担う、喜水城――の、最上階に位置する寝室である。
薄暗く明かりを落とされた室内はうっすら靄がかって見える。肌身に纏わりつくような甘ったるい薫香がつねに焚かれているためだ。
『その効き目がきかない』抱水にしても、視覚的に不快感をあおられてやまない。
――嗅ぐ者の思考を鈍らせるのだったか。死东西。
そう胸の内で毒つかずにはおられぬほどには、目も当てられない惨状が広がっていた。
床や牀にあられもない姿で転げている、女、女、女、女、女の群れ。否、もはや、遊び飽きた玩具のように打ち捨てられている。
抱水は、傍らの床にある女を見下ろす。
仰向けに仰臥する女の瞳には――理性の光が灯っていない。
涎を垂らし、目の焦点を甘くし、人間としての尊厳を削ぎ落されていた。
こんな女が部屋中に転げているのである。抱水は不快かつ、暗澹たる心もちになった。
これが今の福峰を象徴しているのだ、というように。
そうして、首をたれた先を伏し目がちに見上げる。
……こちらもこちらで、正視に堪えがたい不快をもたらされるのだが。それでも堪えて、黙して唸るような物言いに耳を傾けるのだった。
丸々と肥えた香豚のような指が折り重なる顎を擦る。空いた片手で抱えた女の胸を揉みしだきつつ、その男はとぼけた口ぶりで告げた。
「ふぅむ。すると……この福峰に他の風水僵尸と、契約者が紛れこんでいるというのか、抱水よ」
『は、然様にございます』
「して此度、邪魔立てしてきたのだと。ふぅむ……厄介なことだ」
言いつつ女の口を吸い、体をまさぐることをやめない。聞きたくもない嬌声を耳にするはめになり、抱水は目を閉じる。
胸の中にありったけの罵詈雑言を浮かべる。主に『色鬼老头子』といった類のものを。
この見るからに低俗な男の名は、懶漢。
福峰知府、范瑟郎に代わり、『署理知府』の肩書をもつ男であった。
名が体を表すとはこのことに違いない。懒汉――『怠惰』を絵に描いたような性根と、すこぶる醜いなりをしていた。
まず『肉塊』と言って差し支えないほどの贅肉を蓄えた巨漢であった。
はだけた衣からは、ふくよかな胸と太鼓腹を露わにしており――今日は下は履いているようだ。こんなことで喜ぶ自分に、また反吐がでる思いのする抱水である。
――貴様がこの場に存在すること以上に、厄介なことがあって堪るか。
胸の内でこう毒づいているわけだが。表面上は大人しく会話に応じていた。そうしつつ、胸の内を煮えたたせていた。ぐつぐつと。
元はといえばあの笨蛋が悪いのだと――まず責任の所在は、あの傷を負わせた恶棍へと向かう。
懶漢の権勢を笠に着た、典型的な肉头である。そして、お喋りな狼藉者だ。
昼餉ひとつ喰うのにも忙しい抱水を案内役にし、あまつさえ給仕に言い寄り、大暴れである。弟弟にまで無体を働こうとして……手痛い仕打ちを喰らわせて、少しは留飲を下げられたかと思った。そうしたらこの有様である。報告だけは早かった。
否……あれは致し方ないか、と矛先は別にも向かっていく。
考えなしな同胞とその契約者のせいでもある。『助けの手を入れる』にせよ、あそこまで事を大きくしたのだから、懶漢の耳に入るのも仕方なかった。
かように抱水は苛立ちつつ、どうじに一抹の不安――嫌な予感を覚えてもいた。
この肉塊、醜く色鬼で人渣ではあるものの、ただの呆子でもない。厄介なことに。
案の定、話をさらに進めてきた。手慰みに弄くっていた女から手を離し、傍らの棚から酒杯を取り上げた。縋ってくる女を邪険に押しやりつつ口火を切る。
「その風水僵尸の名は?」
『賤竜と申します』
「賤竜……ははあ、あの一夜にして灰燼に帰したという、賤竜廟の。あそこに風水僵尸が封されていたとは思いもよらなんだ」
女が牀から蹴り落とされ悲鳴をあげる。だが、ほどなく香が回ったに違いない。他の女たち同様にすぐ動かなくなった。
肉に埋もれた茫洋たる目は一瞥すらしない。舐めるように酒を傾けつつ、いかにも口惜しげに唸った。
「残念だ。知っておれば、お前のように我が収蔵に加えたというのになあ」
いけしゃあしゃあとのたまうその言葉に、抱水は俯くまま、組んだ手をみしりと軋ませた。だが、鼻から息を吸って――必然的に吸ってしまう甘ったるい香りに閉口するも――静かに震わせる息を落とした。
その呟きには応じずに、うっすら唇に笑みをうかべて訊ね返す。
秘技・主語のすり替えだ。
『して、きゃつめら、如何いたしましょう』
この屈辱の時間の要因ともなった奴らである。犠牲にするのに躊躇いはなかった。
肉塊もすぐに興味を向けてきた。
「そうだなあ。此度のように邪魔をされても面倒だ。消すか。……いや、待て。ううん。契約者の顔が見てみたいな」
『契約者の顔……と申しますと?』
やつあたりのツケはすぐに来た。抱水は胸へこみ上げる苦いものを飲みくだす。
厄介ごとの気配である。
やっぱり表には出さぬ彼に、肉塊は肩を揺らして体を波打たせる。さも楽しげになおも告げてきたのであった。
「男か女か、美しいか丑三八かだ。男なら懐柔し、契約者ごと賤竜を抱きこめばよかろう。歯向かうようなら捕らえて引き離して構わん。どうせ、お前たちは契約者の血さえあれば事足りるのだからな。美しい女ならば……ふふふふっ」
――真的狗屎。
顎に手を添え、舌なめずりする。そんな肉塊に心底、怖気と嫌悪感を覚え、やはり胸のうちで抱水は毒づくのだった。
だが。そんな表裏を綺麗に使い分ける抱水を知ってか知らずか、肉塊は、何気なく手を傍らの棚へと伸ばす。酒杯を置きつつ結論をだす。
「いいように取り計らえ、抱水よ。必ずや我がもとに賤竜を……その契約者を連れてくるのだ。人員はどれだけ動かしても構わない。許す」
「……は。承知しました」
抱水はその手の動きを目で追いながら、内心で溜息をついていた。
この広い福峰の町から、賤竜と、名すら知らない契約者をあぶり出して捕らえ、引きずってこなければならない。
母なる龍涎大湖から子蟹一匹浚うのにも似た苦行である。閉口しつつ、だが応じるより他はなかった。
なぜならば。
抱水は目を眇める。肉塊は――摘まみ上げた銅鐸をおもむろに鳴らしたからである。
抱水は、予期していながらもその後の展開に抗えなかった。
澄んだ音が場に響きわたった後に、奥の間から使いが扉をあけ現れた。
予想通りのモノを携えて。
『……っ』
途端に抱水は息を詰まらせ、身を凍りつかせていた。明晰にまわっていた頭脳が回転を鈍くし、ただ一つの事柄へと収束していくのを感じる。
それは。
明確な『飢え』であり『渇き』への衝動によるものだった。
ごくりと喉仏を上下させて眉尻を垂らし、潤みだす目を固く閉じる。
「ふふ。辛かろうな。そろそろ獣らの血にも飽いた頃だろう、抱水」
『……ッ』
「働き次第では、その功績に免じて……許してやらなくもないぞ? この契約者の血をな」
使いの者が盆にのせて持ってきたものとは。
杯に入った、契約者・范瑟郎の血だったのである。
きつく歯噛みし、小さく震わせるほどに強く組んだ手を握りしめて、耐える。その場に留まり続ける。そんな抱水のさまを見て、肉塊――懶漢はせせら笑った。
懸命に求めてやまない本能に抗い、目を閉ざすまま、抱水はより深く首をたれる。
『……っ、仰せのままに、懶漢さま』
「宜しい。下がってよいぞ」
心底、悔しい。心底、矜持を傷つけられる恭順だったが、抱水は躊躇わなかった。
風水僵尸ならば、誰でも、おのが主人のそれを見誤りはしない。
その血をこうして都合することができる懶漢。
自分の本当の主人である范瑟郎を、奪ったであろう人物。
脳裏にうかんだ面影を振り払う。抱水は低く応じるとともにその場を辞したのであった。
抱水が階層をくだり、執務室へ戻ると、香りの良いお茶が供された。
福峰は茶の産地でもある。抱水も飲むことはできぬながらも、その芳醇な香りを楽しむことを好んでいた。出したのは、直属の部下であった。
言わずとも自身の内心を慮ってくれる部下に感謝を述べつつ、抱水は茶器を手にする。鼻先に寄せて、くゆる湯気の香りを嗅ぐ。そうしつつ低く呟いた。
『……まだ掴めぬか、あれの行方は』
「はい。……力及ばず申し訳ございません」
『よい。引きつづき捜索にあたれ』
短いやり取りの後、小さく溜息で琥珀色の水面も揺らしてしまうのは否めない。
卓上の書類――蟲獣発見の報と討伐についての書簡も、すぐ目を通す気にはなれない。
これまた憂鬱な案件である。
抱水も消耗していた。いくら、頭を使うことが得意とはいえど。
先のごとく腹芸をし、時にしたくもない命令に応じながら水面下でことを進めているのだから。
それに――抱水は伏し目がちに見下ろす手が、小刻みに震えているのを認めていた。
心因的なものではないと分かっていた。そのため、落ち着いて、手から滑り落ちそうになる茶器にもう片手を宛がっていた。
「抱水さま」
気遣わしげに声をかけてくる部下へと目をつぶると、唸るように低く告げる。
『ああ。……“手配”を頼む』
そうして後に窓を見やり、福峰の街並みを眺めるのであった。
遠目から見れば、いぜんとして変わることのない水の都を。けれども、その実は、刻一刻と変化を強いられ続けている。そんな……愛すべき、守るべき場所を。
主が不在となり、幾ばくと経つ執務室から眺めていた。
もうすぐ陽が暮れる。空をみそなわす大龍も、太陰の輝きを瞳にやどす時間である。
暮れなずむ街並みを眺めながら呟く。
『……瑟郎……』
それは、ことのほか弱々しい響きをもって押しだされて消えた。
聞く者は部下ただ一人である。その部下も抱水の横顔を見ていられぬとばかりに、瞳を逸らしたのである。
今は知る者は数少ない。
大切ものを守るために戦いつづける、一人の風水僵尸の姿がそこにはあった。




