第31話 猫娘、陰竜へと命じる
賤竜が武器に纏わせていた炎を――自身の体ぜんたいに広げる。
すると同時に、冽花は自分の心臓が、妙な打ち方をするのに気づいたのだった。
――……っえ?
そうして、その体の異常に呼応したかのごとく、泡を食って妹妹が姿を現した。
『っ、り、冽花……っ、ダメ!! この体の反応はダメ。あなたはダメよ、やめて!!』
「ッ、う、ぁ……? ぁッ、ぁああッ、ああ!?」
冽花は目を見開いた。激変はみるみるうちに全身へと派生していった。
心臓がみるみる鼓動を強めて、どんどん血流が増える。どっと汗が噴き出てきた。
熱い。熱い熱い熱い! 否、寒い! 熱が上がり、体がどんどん冷えていく!
耳元の拍動がうるさい。息が、苦しい。息を吸っても吸ってもどんどん足りなくなってくる!!
冽花は見た。急激にもよおす冷感から少しでも体を暖めようとし、背中を丸め、自身に腕を巻きつけたことで見た。体が黒き炎で燃えあがっていることを。
そして、燃ゆる冽花を起点として呼び水としているかのごとく、足元から『灰色の水』めく気が噴き出し……冽花の気と混ざりあい攪拌されて、途中から黒き気に変わっている。
「っな……」
冽花はその現象に絶句した。
まずもって、自分は陰気を使おうなんて、これっぽっちも考えてはおらず。
これは。
――強制的に引きずりだされてんのか!?
だが、愕然としているところに聞こえてくる声があった。
『……なんか、哥哥の契約者、おかしくねえ? なに、知らなかったとか?』
『…………』
『えー、やだぜ、ここでやめんの。ここまで暖まってきてんのにさあ。なあ?』
振り返るさきで、笑顔で拳を振るって鼓舞してくる宝保の姿がある。少し瞳を動かし、貴竜は肩をすくめた。
『せっかく思いっきりやり合えると思ってたのによォ……そりゃないぜ。ったく』
声が聞こえてくる。貴竜の声だけが。
賤竜が喋らなくなった。さっきまであれだけ――楽しそうに。生き生きとしていたのに。
――あたしの、せいで!!
冽花は呼吸苦でせばまる視界と思考のなか、煩悶する。
確かに。しいて挙げるとするのならば、彼女の何が悪かったかというと。
『運』と『玉環の記憶に頼りすぎていたこと』が言えるに違いない。
こんなに早く、思ってもみなかった風水僵尸どうしの戦いに立ち会ったことに加えて、玉環の記憶から得た知識に頼りきりであった。
さもありなん。だが、仕方のないことでもあった。
生まれてから何百何千回と、玉環の記憶を夢見て、ある意味では刷り込まれていたのだ。賤竜の為人も、その力の一端についても。
半端に知っていたのが仇となったのであった。
そして、それが呼び水となり、賤竜じしんには彼の機能について訊ねることがなかった。彼について訊くことがなかった。
それこそが冽花の過ちであり落ち度である。
遅ればせながら、冽花はその結論に至った。
そうして――ならばどうするかというと。奥歯をすり減らし、わずかに靴底を擦らせた。脂汗を流しつつ、緩慢に首をもたげていった。
こんな時に。否、こんな時だからこそ、頭だけは冷静に、かつての記憶を反芻していた。
それはわずか二日前の記憶である。あの穏やかな部屋での、探路との会話だ。
「情報がなんっもない。足りない。『奉納の舞』まであと二日しかないっつーのにさ。あたしらは、お腹を空かせた虎の口のなかに飛びこもうとしてる。正気の沙汰じゃあない」
「でも、君は行くんだ。賤竜と妹妹を連れてね」
確とした口ぶりで告げる探路に、冽花は。眉を浮かせて彼を見返したのである。
「……その通りだから否定はしないけども。なんなの? お前のその、あたしへの断言」
「ある意味、信頼と言ってもいいかな」
「信頼?」
「君ならやるに違いないっていうね。昔から言うだろう? 不入虎穴,焉得虎子ってね。君なら躊躇いなくやるだろうから」
――……っ、ああ。やってやるとも!!
自身の心臓の鼓動がうるさい。あらぐ息がうるさい。
だが、それでも。
『っ、冽花ッ……もうダメ……やめてちょうだい、冽花!!』
すがりつく妹妹が叫んでも。その瞳に大粒の涙が浮かんでいるのだけれど。
それでも。冽花は真っ直ぐに。
「賤、竜……っ」
彼を見つめるのだった。
その言葉におうじて賤竜が振り返った。その身に、いまだ黒き炎を纏わせるまま。
透徹とした瞳で冽花を見返してきた。
ここで冽花が諦めたなら、恐らくあの炎は消えるに違いない。賤竜の胸に灯った炎も。思いの火も、かき消えるのだろう。
本能で分かる。
表に出さない彼だけれど。ここまで表出化させた思いだ。叶えてやりたい。
何よりも。
――……っ、ここで……ッ。
ここで退いたならば。もう二度と、この瞳と向き合うことはできなくなるだろう。
そう予感がした。
だから、冽花は。
「っ……やっ……ち、まえぇぇ――!!」
力のかぎりに吼えたのである。
喉が破れんほど、魂消る叫び声をあげて……身から腕をもぎ離した。両の拳を固く握りしめて、より身を燃えあがらせる陰気の量を増やした。
その声に、賤竜はかすかに瞼を浮かせた後に――顎をひいて。
『知道』
確かに、そう応じて頷くなり、棍をふるい挑みかかった。
貴竜は目を丸めた。けれども、しらけた風であった顔に笑みを浮かべ直し。
『へえ。……ちょっとどうかとは思ったけどさァ。やるじゃん? あんたの契約者も』
『……是』
その、小さくも確かな肯定を、聞くことはなく。
最後の一合を認めることもできずに、冽花は。
妹妹の悲鳴めく呼び声を聞きながら、その場に崩れ落ちたのだった。