第14話 猫娘、怒りの救出劇。だが……
怒れる雌猫が牙を研いでいるとも知らずに、水夫は扉を開けた。
その瞬間である。素早い転化が巻き起こった。
燃え煌めく蜂蜜色が瞳孔を肥大・縮小させる。頬から始まり首筋へ、そうして全身へと、艶やかな『杏の花』の痣が咲きほこった。
甘き花風のなか生じる、活発婉麗な猫娘。
だが変化は終わらない。その身が黒き炎で燃え上がった。
漲る力を四肢にこめ、鈍い音をたてて縄を引きちぎる。
水夫は泡をくって驚き、手のものを取り落としていた。
遅い。異変を報せることも退くことも、どちらももうできなかった。
檻から伸びるしなやかな腕が、水夫の胸倉を掴みにいった。ぐいと引き寄せ、鼻っ柱に一発。飛び散る鼻血を袖で受けとめて、よろめく身へ下段回し蹴りを叩きこんでいた。
陰気を消し、倒れた身へと飛びついていく。その身から鍵束を取るなり、遅れてあがる怒号に首を巡らせた。
敵はしめて七人である。
総じて体格のいい男であるが、この番狂わせは想定していない。
手にした得物は小刀のみだ。丸腰に近い。
――我把殴打。
怒り狂う雌猫は上唇を舐める。
転げていた皿をも手にし、一瞬で風と化した。
獣のように身を低くし駆ける。人の身が得た猫の身体能力を遺憾なく発揮した。
加えて、人の知恵も。
勢い皿を投じる。水夫の一人の小刀を弾き落とし、そいつを最初の標的に選ぶ。
その首を回し蹴りで刈りにいく。驚くべき疾さでもって。
あっという間に打ち倒される一人。
その事実に慌てた手が後ろから伸びてくるのに、くるりと反転し、裏拳! ――からの、鳩尾への肘打ち。攻防一体の攻撃に、成すすべもなく二人めが崩れ落ちる。
瞬く間に倒された仲間に、水夫らは歯噛みし騒ぎだす。
三人めに冽花はまた挑みかかっていった。
「生身じゃあ駄目だ! もっと大きな武器を持ってこい! 武器を――ぐふっ!」
胴間声をあげる水夫へ飛びかかるなり、振るわれた拳をいなし、頬に一発。だが、脳を揺らそうと、その水夫は闘争心に満ちていた。
鼻血が出るのも構わずに、冽花を抱えこみ――。
「あにすんだよ、色鬼!」
「ぐひゅゥ……ッ!?」
股間に膝蹴りが飛ぶ。緩む腕と前のめりになる体。その後頭部へと肘が落とされた。
ここでようやく棍や刃を潰した月牙鏟(三日月状の刃と槍の穂先がついた棒状武器)をもつ二人が駆けつける。
一人減ったな、と脳内でごちつつ冽花は迎え撃った。
腰を低く落とし――突きだされてくる穂をひと跳びでかわし、くるりと宙で反転。水夫らの後ろをとる。降り立ちざま地を這うように迫る。
一人の膝裏を蹴り、首根っこ掴んでの背負い投げ。これで五人目。
喪神する身から手を離し、続けざまのひと薙ぎをしゃがんで躱した。
トトン、と数歩で距離をつめて下段回し蹴りを見舞う。足払いをうけ、水夫の体が傾ぐ。頽れる身と反対に飛びあがり、頭を抱えての顔面に膝を打ちこんだ。
これで六人目。
これで――その場の面々は動かなくなった。
ふぅっ、と息をもらし、周りを見回す冽花。動く者は見受けられない。
――よし。今のうちに。
水夫たちからさらに鍵束を奪い、冽花は真っすぐに明鈴のもとに向かう。
明鈴は未だに伏しており意識を朦朧とさせていた。駆け寄る冽花の足音にも反応しない。
胸がつぶれる思いがして、冽花は息せき切って口を開いていた。
「明鈴、しっかりしろッ! もう大丈夫だからな! 一緒に帰ろう、妈妈のところに!」
「妈、妈……?」
「うんっ。明鈴のこと探してたんだ、一生懸命に。すごく心配してる。帰ろう!」
「か……かえ……る……っ、妈妈に、会いたい!」
つぶらな目に光が灯った。冽花を見返し、しかと頷くその姿を見て、涙を溢れさせるのだった。身を震わせて小さく啜り泣きをしだす。
冽花は解錠に急いだ。
だが。ここで待ったをかけてくる者たちがいた。誰あろう、他の蟲人たちだった。
「ちょっと。そんな小子なんかよりも、わたしの鍵を開けておくれ!」
「えっ」
冽花は面食らって動きを止めた。この反応がまずかった。
押せばいけると踏んだのか、我も我もと蟲人らは救いを求める声をあげだしたのである。
彼らとて非道を尽くされていたのだ。そこに来て、ただ一人の幼子だけが目の前で救いだされんとしているのだ。声をあげないはずがなかった。
が、冽花とて急ぐ理由があった。
先ほど一人見えなくなった。恐らく増援を呼びに行ったのだろう。時間がない。
だが、救いを求める声は増すばかり。
「姐姐……?」
「う、うん」
「早くしてくれよ! あいつらが来る前に俺のことも出してくれ!」
「わたしも! わたしのことも早く!」
「そんな子どもより、大人を先に出すべきじゃないのか!?」
切羽詰まりむけられる声は、じょじょに非難と怒号に変わってゆく。
冽花の心は震えてしぼんでいく。なんとか明鈴の鍵を見つけだし、抱えこんだ際には、どうしようもないほどに揺れて委縮していた。
瞳は揺れ、ドキドキと胸が早鐘をうち跳ね続ける。頭は真っ白である。
明鈴も人々の剣幕におびえて、冽花に抱きついている。そんな彼女をかばうように腕の力を強めるしかできない。
どうしよう、と繰り返し胸のなかで煩悶していた。
どうしよう。どうしたらいいのか分かりはしない。どうやって。誰から。どうしよう。
どうしよう。
っ、……誰か。
「やめないか、嘈」
そうして。
その声が響いたのだった。
掠れてはいたものの、その声は不思議とよく通り、その場ぜんいんの耳を震わせた。
ハッとし冽花は首を振り向ける。それまで静かだったので気付かなかったが、一番奥に置かれている檻、そこから声は聞こえていた。
「確かに、この場で一番先に子どもを助けるのは非効率的だ。だが、その子は女であり、子どもも知り合いの子なのだろう。察するに余りある心情だ」
滔々(とうとう)と滑らかに、世の道理を説くかのごとき物言いだった。
冽花は見た。その声は、手足に太い鎖をつけられ、満足に体を伸ばすことも難しそうな狭い檻に囚われた男から発せられていた。
遠目から見ても、その身は薄汚れており、髭も髪も伸び放題。元の風貌が分からない。が、その声色ばかりは柔らかく通って静かである。そんな男であった。
だが、すぐに我に返った蟲人らは怒りの矛先を彼へとむける。
いわく、抵抗する気も失くした呆子は黙っていろ、と。
新参者のくせに、と。
くちぐちに投げつけられる心ない声。
男は――口をつぐんで俯くなり、黙ってその罵倒を受け入れた。二言口を挟んだだけで、気力を使い果たしたように見えた。
冽花はその様子を見て、むかっ腹がたった。多勢に無勢である。なにより男は、自身の様子を見かねて口を出してくれたのである。
噛みつくように吼えようとした、その時であった。
部屋の扉の外から、大挙して押し寄せてくる足音が聞こえてきたのだ。
ついに訪れた時間切れであった。
明鈴を抱く腕の力を強め、冽花は扉を睨んだ。




