その13:2回目の二階子ちゃん
落ちる、落ちる、落ちる。
スカイダイビングの落下速度は時速200キロから300キロくらいだったか。いつかやってみたいと思っていたが、これはただの飛び降りだ。
広大な青空からの雄大な光景など何処にもなく、校舎と校庭を間近にした圧迫感と体感速度の中で延々と落下し続けるのは、ただただ地獄だ。
俺、このまま死ぬのかな。
15年足らずの短い走馬灯を、絶望に辿り着く前の茫洋の中で眺めていた塚井馳夫の腕が、いきなり引かれた。
へ?
カラカラに乾いた口から声を出すことも出来ず、塚井は慣性の法則を無視して廊下に転がった。
「御陵様!」
女の子の声。
聞き覚えも新しい、あの不可解で恐ろしい少女の声が誰かを呼んだ。意味は分からなかったが、途方もない畏敬が込められた呼び方だと言うことはなんとなく分かった。
見上げれば、四方木礼祀がそこにいた。
その足元に、あの少女が三つ指をついている。
「あ、あの、差し出がましいことでしたか? 何か、私に至らぬところが有りましたでしょうか……」
少女が四方木に平伏した。塚井を好き放題に翻弄し、生き地獄に叩き落としたあの少女が、クラスで寝たフリしてる陰キャに膝を折っている……
つまり、そう言うことなのだろう。塚井は自分の直感が正しかったことを実感する。
「いや、俺は別にいいんだが…… その力はこんなことに使いたかったワケじゃねーだろ? こんなことに使ってる間に、他の誰かが落ちでもしたら、後悔するのはお前じゃねーかな」
あ、と。
女の子が小さく呟いて、拳を握り締め……項垂れた。
「俺のために怒ってくれたことを嬉しくないとは言わんがなぁ。お前は自分の手を汚さない方がいいぜ。そう言うの、ホント向いてないから」
飽きるほど怨霊を見てきた礼祀は、そう思う。憎しみの果てに冷静さを奪われて判断力を鈍らせ、己を見失って自滅する末路。
復讐は万人が果たせるものではない。復讐とは犯罪者との戦いであり、成し遂げるには適性が必要だ。そして、悪党が目を付け獲物にするのは、概ね適性の低い人なのだ。
「あぁ…… そうでした。あの時もそうでした。申し訳ありません! 何度も同じ過ちを…… 繰り返し御面倒をお掛けして……」
「あー、まぁ、あの時も痛い目見る前に俺が手ぇ出しちまったからな。憶えられないのはしょうがない」
そう言って苦笑する礼祀の表情は、驚くほど優し気で。
その隣で、天野手鞠が童女のように無邪気な笑顔を浮かべている。
塚井はその光景を呆然と見ていた。まるで、ある種の理想郷でも見たように感じた。
「有り難う御座いました、御陵様」
少女がそう言って、顔を上げる。穏やかな顔だった。
「君」
少女がその顔を塚井の方に向けた。不意に声を掛けられた塚井は、やはり声も出せないまま、廊下に座り込んで少女を見る。
「君は、あんな風にならないでね」
少女が教室へと顔を向けた。
制服を着たおっさんおばさん達を思い出し、塚井は身震いした。何か返事をしようとしたが、やっぱり声は出ないし、なんと答えたら良いかも分からない。
ただ、馬鹿みたいに頷いた。
少女が再び、塚井に振り向く…… その表情が見える前に、少女は消えた。
放課後の喧騒が、急に降り注いでくる。塚井は何が何だか分からないまま、いつの間にか廊下を行き交い始めた生徒たちに視線を彷徨わせる。
「ここはこんなとこか。サキ、学校出るぞ」
「こんびにすいーつー」
四方木礼祀と天野手鞠は消えなかった。塚井に背を向けて廊下を歩き去っていく。
え、なんであいつら一緒にいるの? あれから教室で何があったの?
「よ…… 四方木!」
ワケが分からない。分からないが、とにかくこれだけは言わなければならない。
足を止めた礼祀の背中に、塚井馳夫は枯れた声を振り絞った。
「すまん! 俺、何も知らなくて! 悪かった!」
意志に反して殆ど声は出なかったが、余程の地獄耳なのか、足を止めた礼祀は塚井へと振り返った。
「許さねーよ」
修羅の顔をしていた。
「知らなかったとかそう言う問題じゃねーだろ。証拠も無しに人を犯罪者扱いしやがって。何も分かってねーな。次は俺じゃない誰かを犯人扱いする気か?」
塚井は恐怖に凍りついた。
「許されねーまま、許されねーなりに生きていけ。いつまで生きられるか知らんがな」
世の中には、腹八分目に人を喰らい、穏やかに生を謳歌する物の怪達がそれなりにいる。人間が増え過ぎて生態系を壊すのを防ぐ程度には。
礼祀は去った。
あれ? なんかあったの? という周囲の視線を置き去りにして。
塚井馳夫は腰を抜かしたまま、結局立ち上がることはなかった。




