21.楽園への帰還
「ちょっと! 東京に帰してくれるんじゃなかったの!? 邪竜サマの嘘つき!!」
「黙れ」
イオが冷たく言い放った。
整った顔には、静かな怒りの色が滲んでいる。
それまで喚いていた袴田さんが、ビクッと肩を震わせた。
そっと私を地面に立たせ、イオが一歩、前に出る。
気圧されたのか、袴田さんは地面に尻餅をついた格好で後退りをした。
「チカを貶めるつもりで言ってるのか知らねえけど、ババアだの負け組だのうるせえよ。お前こそ他人をバカにすんな」
「だ……だって、センパイがオバサンなのは本当のことだもん。邪竜サマ、その人の年齢知ってるの? もうすぐ三十だよ? 可愛くもないアラサーが異世界でお姫様気取りなんて、みっともないったらありゃしない」
震えながらも袴田さんが気丈に言い返す。自分の考えは間違っていない、そう確信している顔だ。
おそるおそるイオのほうを見上げた。
彼がどんな顔で若い後輩の話を聞いているのか、斜め後ろの立ち位置からは、よく見えない。
そういえば、イオと年齢の話をしたことは一度もなかった。
たぶん私のほうがちょっと年上かな、とは思ってたけど。二人でいれば、そんなことは一切、気にならなかったから。
……そう。
それは、あくまで「二人でいた」世界でのこと。
ここにはイオと私の他に、ヒトの姿をしているものは誰もいない。誰とも比べられない。私も、イオも。
袴田さんに言われたことが、毒のように胸を蝕んでいく。
たしかに、東京での私はアラサーの冴えない会社員で。
人目をひくほどの美人でもないし、可愛くもない。
ここでは自然にできていることが、元いた世界ではできなかった。思うように話すことも、笑うことさえも。
自分以外の誰かの視線や、世間体。そんなものに囚われて……。
「チカ」
イオが私のほうへと振り向いた。そして、
「あらさー、ってなんだ?」
「……え?」
まっすぐな瞳で、急に現代スラングの説明を求められ、思わず目が点になる。
私の答えを待たずに、イオが呆れたような仕草で首の後ろに手をまわした。
「ま、いいや。あんまりいい言葉じゃなさそうだな。おい小娘、そんな口をきくんだから、お前は生まれて二十年そこそこってとこか。ずいぶんアタマが軽いみたいだけど、そこまでガキなら仕方ないな」
「ガキとは何よ、あんただって大して変わらないでしょ」
袴田さんの口調が尖る。
たしかにイオの外見は、せいぜい二十台半ばの若者だ。
イオが、つんと顎を上げた。
「聞いて驚け、小娘。俺様は二百八十歳だ。お前の物差しで計れば立派なジジイだな」
「……えええええ!?」
袴田さんが叫んだ。一緒に私も。
「に、二百八十歳!? あんたが?」
「あー、ちゃんと数えてないから何年かズレはあるかもな。二百八十一か、それとも二百七十九だったか……ま、その程度の誤差はいいだろ」
「冗談でしょ、イオ? 私、あなたは年下だと思ってたよ?」
「冗談じゃねえよ。竜人は長生きなんだ。人間と同じに思うなよ」
私のほうへと歩み寄って、イオが尋ねた。
「チカは俺が嫌になったか? ジジイだから。長く生きてて……お前たちとは違うから」
問いかける眼差しは、真剣だった。そして、悲しそうに見えた。
怯えているんだ。私が、なんて答えるか。
「そんなわけないじゃない。イオはイオだもの」
「……そうか。そうだよな!」
私の言葉に、イオがようやく笑った。ほっとしたような笑顔だった。
そして再び袴田さんに目を向け、言い放つ。
「てわけで、俺にとってもチカはチカだ。何年生きてようが何処で生まれてようが関係ない、たったひとりの、かけがえのない存在だ。そんな大事な女を侮辱したお前を――俺は許さない」
じりっ、とイオが一歩、前へ踏み出した。
袴田さんが恐怖で目を見開き、逃げ道を探すように左右に視線を泳がせる。
「や……やだ! 許して、東京に帰らせて!」
袴田さんへとにじり寄るイオの背中に慌てて縋りついた。
彼とロニーが遭遇してしまったときの悲劇が脳裏に甦る。
「待ってイオ、落ち着いて! 袴田さんをどうするつもり!?」
「お前はどうしたい、チカ? こんなクソ生意気な小娘でも殺すのは嫌なんだろ。国王とやらに突き返すか、それとも氷の谷にでも捨ててくるか?」
「可哀想な言わないで、そんなの望んでない!」
「お人好しも大概にしろ、チカ。ここは怒っていいところだぞ」
「やだ……動物やだ……帰りたい。ごめんなさい、センパイを悪く言ったこと、謝りますからぁ……!」
地面にへたりこんで号泣する袴田さんを見ていたら、また可哀想になってしまった。
イオの言うように、私ってお人好しなんだろうか?
何にせよ、過剰なお仕置きはいけない。
「もういいよ。袴田さん泣いてるじゃない。彼女、帰りたいって言ってるんだから叶えてあげて。お願い」
「ほんっとーに、底抜けのお人好しだな、チカは」
イオは一旦、空を見上げ、片目を瞑って頷いた。
「……けど、お前がそこまで言うなら仕方ない」
イオのブーツの踵が地面を蹴り、私たちの前に再び、あの光の渦が出現した。
ぐるぐると激しく波立つ水面の中心に、東京の景色が映し出される。
袴田さんが跳ね起きた。
髪を振り乱し、無言で光の渦へとダッシュする。
その背中に、イオが声をかけた。
「お帰りか。トーキョーってところで生きるのは大変そうだな、小娘」
袴田さんの足が、渦の淵で止まる。
振り向きざまにキッとイオを睨みつけ、彼女は叫んだ。
「そんなことないわよ。東京はね、便利で清潔で刺激的で欲しいものは何でも買えて、すごーく楽しいところなの! みりあみたいに可愛く生まれた女の子にとっては楽園なの! あんたみたいなバケモノもいないしねっ!」
「けど、ちょっと長く生きたやつは貶めてもいい世界なんだろ? お前もすぐにババアって呼ばれるようになるな。ま、頑張れよ」
ハッとしたように袴田さんが目を見開いた。
イオを、次に私を睨みつけ、唇を噛む。
そして両手の拳を握り――彼女は光の渦へと飛び込んでいった。
「楽園」へ、帰るために。
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