22.傍にいたいから
袴田さんをのみこんだ光の渦の表面には、東京の景色がまだ消えずに映っている。
『サヨナラー』
『モウ来ナイデネー』
『アー、コワカッター』
渦に向かって、やけに嬉しそうに妖精ちゃんたちが手を振っている。
ゆらゆら揺れる水面を見下ろし、ひとまず私も胸を撫でおろした。
「よかった……ちゃんと帰れたよね、袴田さん」
そう呟いた、私の耳に。
ぽつりと、イオが問いかける声が聞こえた。
「お前も帰るか?」
「……いま、なんて言ったの?」
聞き間違い。あるいは、冗談。
でも、イオは真剣な瞳で見つめ、もう一度、私に向かって尋ねてきた。
「だから。帰るか? 元いた世界に」
「どうして……そんなこと言うの、イオ」
思いがけない彼の言葉に、思いがけないほど動揺している自分に気づく。
『エエー! イオ、ナニ言ッテンノ!?』
『頭オカシクナッチャッタノ!?』
『行ッチャヤダヨ、チカー!』
妖精ちゃんたちがイオの髪の毛を引っ張って喚く。
うるせえな、と呟きながら妖精ちゃんたちをやんわり引き剥がし、イオは無表情で言葉を継いだ。
「チカも帰りたくなったんじゃないかと思ってさ。トーキョーは便利で清潔で刺激的で楽園みたいな世界、なんだよな。たしかに、やたら楽しそうな景色だ。明るすぎて昼か夜かもわかんねえ」
そう言って、光の渦へ視線を向ける。
水面に揺れる映像は、クリスマスが近づく東京の夜の風景を映し出していた。
まるで太陽みたいに眩い光を放つ百貨店のショーウインドー。
ホテルの窓やファッションビルのネオンの輝き。
着飾って楽しそうに行き交う人々。
街路樹を彩るイルミネーション。キラキラときらめく、幻のように美しい街。
「ねえ、聞いて」
「あの小娘は、いろいろ言ってたけど」
イオが私の言葉を遮った。淡々と続ける。
「俺から見たチカは冴えない女なんかじゃねえよ。賢くて優しくて、勇気もある。そのぶん強情だけど、それでいい。他人がどう言おうと気にするな。お前なら、どんな場所でだってやっていける。自信持って生きろ」
「イオ……」
「お前といて楽しかったよ、チカ。もう充分だ。お前は充分、俺を幸せにしてくれた。今ならトーキョーに帰れる。ちょっとめんどくさそうな感じの世界だけどな、あの小娘は喜んで帰って行ったし、良いところなんじゃねえの。ま、俺みたいなのといるよりはマシだろ」
『イオー』
『我慢シテル……!』
『イッショニ、イタイクセニ……』
妖精ちゃんたちが泣いている。
どこか苦しそうにも見える表情で、イオは続けた。
「俺に悪いとか思うな。頼むから、幸せになってくれ。それが俺の一番の望みだ」
「……ありがとう。イオは優しいね」
「気づくの遅えよ」
イオが苦笑いを浮かべた。
光の渦の淵に立ち、水面を見下ろしてみる。
映しだされる都会の景色は、次第に薄くなりつつあった。
自分の気持ちを整理するように、言葉を口に出してみる。
「……東京は。私の生まれ育った日本はね、便利で清潔で刺激的な楽園。それは本当のことだよ。楽しい場所がたくさんあって、美味しい食べ物も溢れてるの」
「へえ。だから、お前のつくる飯は美味かったんだな」
腕を組み、唇の片端を上げてイオが言う。美味かった。過去形だ。
「あの世界で私、前は上手に生きられなかった。袴田さんが言ってた通りよ。でも、今なら何とかなりそうな気がする。イオと出会って、自信をもらったから」
「そうか。そりゃ、よかった」
イオが頷いた。手をひらりと振って、城のほうへと歩き出そうとする。
「じゃあな。早く行け、門が閉じちまう」
「私、帰らない」
今度は私が、イオの言葉を遮っていた。
驚いたように目を開き、イオが私を見る。
自分の心臓の音が太鼓のように響いてる。
深呼吸をして、ぎゅっと拳を握った。
「ここにいたい。残りたい。理由が、あるの」
「何だよ、理由って」
続きを語るには、勇気が必要だった。
「一緒に、いたいから。イオと」
イオが息を呑む気配がした。
彼が何かを言う前に、続ける。
「もう会えないなんて嫌。どんなに便利な世界でも、自信を持って生きられたとしても――イオがいないと意味ないの。私、あなたみたいに長生きじゃないから迷惑かけるかもしれないけど……でも、お願い。そばにいさせて」
振り絞るように、言い切った。
「チカ……」
私の名前を呼んだきり、イオは黙ってしまう。
顔を見て、また目を逸らし、眉間に皺を寄せて。
『チカ、ココニイテ!』
『ナンカ言エー、イオー!』
イオの足もとで妖精ちゃんたちが騒ぐ。
「うるせえって、静かにしてろよ」
照れ隠しのように妖精ちゃんたちに言い、イオはもう一度、私を正面から見つめた。
「自分がなにを言ってるか、わかってるか?」
「うん。わかってる」
「……後悔するぞ。俺はバケモノだ」
「バケモノなんかじゃないよ。イオはイオだよ」
強く言い返す。
イオの唇が歪んだ。
「それだけじゃない。俺は口が悪い」
「知ってるってば」
「あと、めちゃくちゃ執念深い。今を逃したら、お前は永遠に元の世界に帰れないし、俺から離れられないぞ。それでもいいのか」
澄んだ紫色の瞳を見つめかえし、頷く。
「いい。後悔なんて、一生しない」
振り向いて、光の渦を見た。
水面には、もう何も映っていない。小さくなって消えていく。
(そう、後悔なんてしない)
私は、ここに残る。
一緒にいたい人がいる世界こそが、私の楽園。やっとたどり着いた、「帰りたい場所」なんだ。まさかそれが、こんな異世界だとは思ってなかったけど。
イオが呆れたように息を吐いた。
「さっき賢いって言ったけど、あれ撤回するわ。バカだな、お前」
「なっ……ちょっと、何よそれ!?」
「可愛いって意味だ、バーカ!」
憎まれ口を重ねて、イオが顔を歪める。泣き出す直前の小さな子供みたいに。
それから満面の笑顔になって――いきなり私を抱きしめた。
「い、イオ!?」
慌てる私の耳元でイオが囁く。
「充分なんて嘘だ。俺、もっと幸せになりたい。もっともっと……ずっと、お前と一緒にいたい。チカ、俺の……に、なってくれ」
「え……イオ、何て言ったの?」
突然の抱擁にビックリして、彼の言葉の一部が聞き取れなかった。
「だから、俺の」
イオが繰り返そうとした台詞は、次もやっぱり聞くことができなかった。
彼の声を掻き消して、大音響が轟いたのだ。
まるで爆弾が炸裂したみたいな、激しい轟音が。




