第5話:パイセン、裏方新人について振り返る
――翌朝。
収録スタジオへ向かう廊下を歩きながら、アタシはポケットの中でエナドリを転がしていた。
本日三本目。流石に身体に悪い。カフェインの過剰摂取でZONEに入りそう。
「……ったく」
アタシは小さく息を吐いた。
「なんなんだよ、あの新人」
頭に浮かんだのは、昨日隣の席でカフェオレを両手で抱えていた遠藤アオの顔だった。
目は合わせない。
声は小さい。
すぐ謝る。
褒めると処理落ちする。
そして、鳴き声がおかしい。
「『ひゃい』、『ひょっ』、『ミ゛っ』……」
アタシは思い出して、口元を押さえた。
「……ふははっ」
ダメだった。
廊下のど真ん中で吹いた。
通りすがりのスタッフがちらっとこちらを見る。
あの新人は、変だ。
控えめに言って、かなりの変態だ。
最初に見たときは、正直、面倒なタイプが来たと思った。
あの清白メイカにスカウトされたと聞いたから、どんな変人か、どんな天才かと思ったら、出てきたのは根暗なキョド女。
声は確かに一級品。
けど、人と目も合わせられない。
挨拶ひとつで様子がおかしい。
オフィスに来ただけで、すでに一仕事終えた顔をしている。
――あれで本当にVSPの現場に耐えられるのか。
この事務所は、甘くない。
タレントの人気が大きい分、動く金も人も多い。
確認漏れ一つで炎上する。
言葉選び一つで誤解を生む。
資料の扱い一つで、タレント本人の安全に関わる。
Vtuberの活動名の裏にある本名や住所、生活圏、そういうものは絶対に外へ出してはいけない。
本人たちが画面の前で笑っていられるように、その見えない境界線を死守するのがこっちの仕事だ。
だからこそ、ぼんやりした奴は怖い。
気持ちだけで来た奴も危うい。
憧れだけで来た奴は、だいたい現実の速度に轢かれる。
「……まぁ、アイツも最初は轢かれかけてたけどな」
けれど、遠藤は逃げなかった。
あれだけ顔を青くして、あれだけ毎秒帰りたそうにして、それでも資料を見ていた。
メモを取っていた。
分からないことを、震えながらも聞いてきた。
それに、止まる場所が少し変だった。
告知サムネへの素材転用。
タレント本人が確認する前の言い回し。
新人なら、日付や誤字のような分かりやすい間違いを探すだけで精いっぱいになる。
遠藤が引っかかったのは、間違いとは言い切れない場所だった。
そのまま進めても、たぶん誰かに怒られるわけではない。
けれど、あとから面倒になりそうな場所。
昨日出してきた告知文の叩き台も、そのまま外へ出せる出来ではなかった。
言葉は硬い。
必要な情報も足りない。
結局、アタシがかなり手を入れた。
ただ、本人の言葉を置き去りにしたくないという方向だけは見えていた。
そして、あの声。
防音ブースで一度読んだだけで、止まっていた動画編集が動いた。
尺が決まり、テロップの位置が決まり、映像をどこまで残せるかも見えた。
本人コメントと告知文が噛み合っていないことも、声へ出した瞬間にはっきりした。
間違いなく、仕事にはなった。
けれど、もう一度を求めた途端、声は出なくなった。
「一度仕事になった」と「次も仕事として任せられる」は、全く別だ。
次回も同じ条件で出る保証はない。
声を使う前提で予定を組むこともできない。
告知文だって、一人では完成させられなかった。
「……すげぇものは持ってる。昨日は役にも立った」
アタシはエナドリを一口飲んだ。
「今分かってんのは、そこまでだな」
声以外の部分も、まだ分からない。
素材の空欄に止まった。
告知文の違和感にも止まった。
だが、怖がりすぎて何でも気にしているだけかもしれない。
一度いい方向へ働いた癖が、次は仕事を遅らせる原因になる可能性もある。
「スズちゃんの勘が当たったって決めるには、まだ早ぇな」
甘い。不味くはない。ただ、そろそろ舌がエナドリの味と融和してきた。
「っつーか」
アタシは眉を寄せた。
「何でアタシ、何マジになってあいつのこと考えてんだ?」
保護者か。先輩か。いや、先輩ではある。
でも、入社二日目の新人をここまで気にしてやる義理があるかと言われると、まあ、あるような、ないような。
「……いや、流石にそれはあるか。面倒見るって言ったしな」
自分で言った。今日から隣の席な、と。逃げんなよ、と。面倒見る、と。
「はぁ……」
アタシはため息をついた。
「アタシ、意外とチョロいな」
面倒見がいい、とよく言われる。
自覚はある。
ただし、本人としては少し不本意だった。
別に誰にでも優しいわけじゃない。
手のかかる奴が視界に入ると、気になるだけだ。
危なっかしい奴が転びそうになっていると、つい手を出してしまうだけだ。
つまり、優しいのではなく、見ていられない。
そして遠藤アオは、過去最高レベルで見ていられない。
放っておいたらコピー機の前でフリーズしそうだし、会議室の予約システムに負けそうだし、チャットの通知音に謝罪しそうだ。
何なら、社内の観葉植物にも会釈してそうである。
「……アイツならやりかねないな」
想像した。観葉植物に向かって、
『あ、あの……今日から、お世話に……なりましゅ……』
と萎縮しているアオ。
「ぶはっ」
また吹いた。
ダメだ。
あの新人、いない場所でも面白い。
ある意味才能だ。
震えながらも、聞く。
固まりながらも、考える。
怖がりながらも、叩き台を出す。
昨日の告知文の修正案も、二日目の新人が出したものとは思えないほど悪くなかった。
「……スズちゃんが気に入るわけだわ」
そう呟いたところで、休憩スペースのソファから、気の抜けた声が飛んできた。
「おーい、姫野ー」
見ると、VSPが誇る狂人・清白メイカがクッションを抱えてだらしなく伸びていた。
「おいーす。こんなとこで何してんだよ、スズちゃん」
「溶けてた~」
「姫野、冷たいなぁ」
スズちゃんはくすくす笑いながら、姫野を見上げる。
「で、どうだった?」
「何が」
「アオちゃん」
アタシは足を止めた。
「……正直、最初は無理だと思った」
「うん」
「目も合わせねぇし、声は虫より小さいし、何かあるたび謝るし。あのまま現場へ放り込んだら、一週間で蒸発すると思った」
「でも?」
アタシは少しだけ黙った。
「声は、やばかった」
「お」
「一級品って言い方でも足りねぇ。仮音声が一本入っただけで、止まってた編集が進んだ」
スズちゃんが、分かりやすく口元を緩める。
「でしょ?」
「その顔やめろ。まだ続きがある」
「はーい」
「声に出したことで、告知文のズレも分かった。だから、運営の仕事に声が役立たないとは言わねぇ」
「うん」
「でも、二回目は出なかった」
アタシはエナドリ缶を軽く振った。
「次も出る前提じゃ、仕事を振れねぇ。あの声が必要な案件の頭数にも入れられない」
「厳しいねぇ」
「当たり前だろ。出るか分からない声を待って、現場を止めるわけにいくか」
スズちゃんは反論せず、クッションへ顎を乗せた。
「それに、告知文も一人じゃ完成させられなかった。最初の二案はそのまま使えねぇし、報告も遅い。処理も会話も遅い」
「よく見てるねぇ」
「教育係だからな」
自信があるから止まったわけではない。
自信がなさすぎて、納得できないまま先へ進めなかっただけだ。
今回は、その怖がり方がいい方向へ働いた。
次回は、ただ仕事を遅らせるかもしれない。
「声は本物。昨日の仕事も、ちゃんと成果だ」
「うん」
「ただ、声も普段の仕事ぶりも、まだ使い方が分かってねぇ」
「なるほど」
「アンタの見る目が正しかったかどうかは、まだ保留」
「おお~」
スズちゃんが、わざとらしく手を叩いた。
「ミカンちゃんから“保留”いただきました~」
「うぜぇ」
「私の勝ちだね」
「いや、別に勝ち負けの話じゃ……」
「ねぇ姫野」
「……んだよ」
「GGEZ」
「こ、こいつ……!」
「ふぉっふぉっふぉっ」
スズちゃんは謎の高笑いをしながら、クッションを抱き直した。
アタシの口から、つい舌打ちが出た。
遠藤を認めたわけじゃない。
少なくとも、まだ。
ただ、即戦力じゃないからといって、放っておいていい新人でもなさそうだった。
「……アオちゃん、面白いでしょ」
「あぁ、まぁ……面白いな」
「心の声が表情にぜーんぶ出るでしょ」
「全部出るな」
「変な鳴き声も出るでしょ」
「おもろい音がな」
「それで、ちゃんと頑張るでしょ」
アタシは黙った。スズちゃんの声は、変わらず軽い。
けれど、その言葉には、妙な確信があった。
「……あぁ」
アタシは短く答えた。
「頑張ってはいるな。見てて不安になるくらいには」
「それ、かなり見てる人の感想だねぇ」
「うるせぇ」
スズちゃんはにこにこと笑っている。
アタシはエナドリをもう一口飲んだ。
甘い。
やっぱり甘い。
けれど、妙に気分は悪くなかった。
「で、姫野」
「何だよ」
「アオちゃんのこと、よろしくね」
「言われなくても見るよ」
その返事は、自分で思ったより早く出た。アタシの口から、再び舌打ちが出る。
――ああ、やっぱり。自分は意外とチョロいらしい。




