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第51話:世界の歌姫、遠藤アオと出会う

会ってみたい。本人の口から、どうして世界中に数え切れないほど歌手がいる中で自分なのか、その理由を聞いてみたい。


確かにそう言った。間違いなく、自分で言った。


だから、その結果として。


「…………」


遠藤アオは現在、会議室の前で死にかけていた。


「……帰っていいですか」


「早い早い早い」


隣にいた姫野が、即座にアオの肩を掴んだ。


「まだ会ってすらねぇだろ」


「もう十分頑張った気がします……」


「何をだよ」


「ここまで来ました……」


「会社の廊下歩いただけだろうが」


「私にとっては大冒険です……」


姫野は盛大にため息を吐いた。


もっとも、アオの顔色を見る限り、本当に本人としては大冒険なのだろう。先ほどから会議室の扉を見つめては視線を逸らし、また見ては逸らすという行動を繰り返している。


なぜなら、この扉の向こうにはアリエラ・グレイスがいる。


世界の歌姫。数え切れないほどの人間がその歌声を知り、音楽に詳しくなくても名前くらいは聞いたことがある、そんな人間が今、扉1枚隔てた向こうで自分を待っている。


「…………無理です」


「だからまだ何もしてねぇって」


「存在が無理です……」


「本人に聞かれたらどうすんだよ」


「…………」


アオが黙り、そのままゆっくり後ずさる。


「逃げんな」


襟首を掴まれた。

捕獲。


「ひぃ……」


「ったく」


姫野は呆れながらも、手を離さなかった。


「遠藤」


「……はい」


「昨日言っただろ。無理なら途中でやめていい」


アオが顔を上げる。


「会ってみたいって言ったのはお前だ。でも、会ってみてやっぱ無理だったら、それで終わり。誰もお前に、ここで何か決めろなんて言わねぇよ」


その横から九が顔を出した。


「英語も気にしなくていいっすよ」


「……九さん」


「アオちゃんは日本語で喋ってください。ウチが全部訳すんで。言葉詰まったら待ちますし、言い直したくなったら言い直せばいい。訳した後に『やっぱ今のナシ』でも全然いいっす」


清白も柔らかく笑う。


「すぐ答えなくても大丈夫ですよ。アリエラさんも、そのことは分かってくれていますから」


「……はい」


「あとですねぇ、怖くなったら私たちの方を見てもいいですからね」


「…………」


アオは、会議室の前にいる面々を見た。


姫野。清白。九。大澄。

そして。


「……蓮見さんも、いるんですね」


「います」


いつもの無表情で、蓮見が答えた。


今回、前回の会談にはいなかった蓮見も、本人の希望で参加することになっていた。


今後、本当に企画が動くのであれば、映像、ビジュアル、3D。その制作面で蓮見が大きく関わる可能性は高い。ならば人伝にアリエラの意図を聞くより、本人の言葉を自分の耳で聞いておきたい。それが蓮見の希望だった。


アリエラ側へその旨を伝えると、返答は驚くほど早かった。


快諾。

むしろ、向こうも会いたがっていた。


例の、Green Peasの歌声を世界へ広げるきっかけになった公式動画。その編集を手掛けた人間について、アリエラ側も当然その存在に気づいていた。


「……ちなみに」


アオが蓮見を見る。


「緊張とか……しないんですか?」


「しています」


「…………」


絶対嘘だ。

いつもと何1つ変わっていない。


「心拍数は平常時より上昇しています」


「そこまで聞いてません……」


「そうですか」


いつもの蓮見だった。

少し、安心した。


その時、大澄が時計を見る。


「そろそろ行こっか」


アオの顔から再び血の気が引いた。


「…………」


「遠藤?」


「…………」


「おーい」


「……帰っていいですか」


「2回目」


姫野が即座に捕まえた。


「ほら行くぞ」


「ひぃぃ……」


大丈夫。

まだ、決めなくていい。


ただ聞くだけ。どうして自分なのか、本人の言葉で。

それだけを知りたい。


アオは何度も心の中で繰り返した。それでも、扉へ近づくほど足が重くなった。


大澄が扉を開けた。


「お待たせしました」


その瞬間、アオの視界に1人の女性が入った。


「…………」


足が止まった。


画面の中でなら何度も見た。


ライブ映像。ミュージックビデオ。インタビュー。ここ最近は楽曲を聴く機会も増え、関連映像もいくつか見た。


だから、顔は知っている。そのはずだった。


でも。

全然違った。


本人は、映像で見るよりずっと、そこにいた。


当たり前のことなのに、それ以外に表現する言葉が出てこない。


派手な衣装ではない。ステージの上でもない。照明もなければ、歓声もない。ごく普通の会議室で、ごく普通の椅子に座っているだけ。


それなのに、目が勝手にそこへ引かれる。


何か特別なことをしているわけではない。ただ座り、こちらを見ている。それだけなのに、まるでその人のいる場所だけ空気の密度が違った。


――あ。

アオはようやく理解した。


この人、本当にアリエラ・グレイスだ。


世界の頂点にいる人。

そのアリエラが、こちらを見た。


そして、アリエラの方も僅かに動きを止めた。


「…………」


視線がアオの頭から足元まで1度だけゆっくり動き、もう1度顔へ戻る。


アリエラの眉が僅かに上がった。


その横で、リチャード・ヘイルマンも珍しく1度だけ瞬きをした。


アオには、その理由が分からない。


当然である。


2人がこれまで知っていたGreen Peasは、あの歌枠で豊臣ツバサの隣に立ち、1曲の途中からまるで別人のような歌声を響かせた存在だった。


歌っている本人だけではなく、隣の歌手まで変えてしまった正体不明の歌声。


その声の主として目の前へ現れたのは、姫野の半歩後ろへ隠れ、肩を縮め、アリエラと目が合った瞬間に露骨に視線を逸らした1人の少女だった。


「…………」


アリエラはもう1度アオを見る。


そして。


「You are Green Peas?(あなたが、Green Peas?)」


「ひゃいっ!」


アオの声が盛大に裏返った。


「…………」


アリエラ、停止。

リチャード、停止。


九が顔を覆いかけた。

姫野は。


「……遠藤」


「す、すみません……!」


「今謝るとこじゃねぇ」


「すみませ――」


「だから謝んな」


「はい……」


アリエラの視線が、アオと姫野の間を行き来した。

ほんの少し、困惑している。


それは無理もなかった。


「……はい」


アオは今度こそ、小さく答えた。


「わ、私が……その……Green Peasです……」


九が英語へ訳す。


アリエラはしばらくアオを見ていた。


「I see.(そう)」


短い。

それだけ。


しかし、どう見てもまだ少し面食らっている。


アオはもう帰りたくなった。


――やっぱり。

――絶対がっかりしてる。


そう思った。


当然だ。

あの歌声を聞いて、どんな人間を想像していたのかは知らない。でも少なくとも、自分ではなかったはずだ。


こんな、人の顔すらまともに見られない、ただの会社員。


世界の歌姫がわざわざ日本まで会いに来るような人間ではない。


「アオちゃん」


清白が、ごく小さな声で呼んだ。


アオが横を見る。


清白は何も言わない。ただ、いつものように柔らかく笑っていた。


大丈夫。

そう言われた気がした。


アオはほんの少しだけ息を吐いた。


全員が席についた。


VSP側は、大澄、清白、姫野、九、蓮見、そしてアオ。


対するアリエラ側には、アリエラ、リチャード、前回と同じ通訳担当が座る。もっとも今回は、アオの言葉については九が中心となって訳すことになっている。


そして席につくなり、アリエラが蓮見を見た。


「Before we begin.(始める前に)」


「?」


「You made the video, didn't you?(あの動画を作ったのは、あなたでしょう?)」


その場の視線が一斉に蓮見へ集まった。


蓮見は1度だけ瞬きをした。


「はい」


九が訳す。


アリエラの表情が、ほんの少しだけ変わった。


「I watched it several times.(何度も見たわ)」


蓮見は黙って聞く。


「You knew exactly where her voice changed.(彼女の声がどこで変わったのか、正確に分かっていた)」


「…………」


「And you didn't ruin it by trying to make it dramatic.(それを大げさに見せようとして、台無しにもしなかった)」


リチャードも続けた。


「It was an unusually disciplined edit.(非常に節度のある編集だった)」


「…………」


蓮見はほんの少し姿勢を正した。


「ありがとうございます」


アオは隣で蓮見を見た。


褒められた。

世界的歌姫に。

あの蓮見さんが。


しかし、表情はほとんど変わらない。

ただ、アオには分かった。


ほんの少しだけ耳が赤い。


「…………」


アオは見なかったことにした。

本人の名誉のために。


それからアリエラは、再びアオへ視線を戻した。


「Ao.(アオ)」


「っ、はい!」


また肩が跳ねた。


アリエラは少しだけ目を細める。


「You are very nervous.(とても緊張しているのね)」


「…………」


逃げたい。

今すぐ。


「……はい」


九が訳す。


「……すごく……緊張してます」


「I can see that.(見れば分かるわ)」


「…………」


即答だった。

アオの心が死んだ。


姫野が口元を押さえた。

九も少しだけ肩が震えている。

清白だけは、いつもの笑顔。


アリエラはそんなアオを見て、少し考えた。


「Are you afraid of me?(私が怖い?)」


「…………」


究極の質問が来た。


どうする。

怖い。

めちゃくちゃ怖い。


でも、本人を前に「あなたが怖いです」なんて言えるわけがない。


「…………」


アオは姫野を見る。


姫野は無言で頷いた。


言いたいことを言え。

そんな顔だった。


アオは震える指を膝の上で握った。


「……怖い、です」


九が訳した。


一瞬、部屋が静かになった。


アリエラが僅かに目を見開く。


「……すみません」


「謝るな」


姫野が即座に止めた。


「あ」


またやった。

しかし、アリエラは怒っていなかった。


むしろ、少しだけ興味深そうにアオを見ている。


「Why?(なぜ?)」


「…………」


なぜと言われても困る。


世界的歌姫だから。有名だから。オーラがすごいから。


全部、理由である。


「……すごい人、だから……」


アオは何とか言葉を探した。


「……私みたいなのが……こうやって、お話ししていい人なのかなって……」


九が訳す。


アリエラは黙った。


「……それに、私、こういうの……本当に苦手で……」


これは説明するまでもなかった。

全員、既に理解していた。


アリエラは数秒、アオを見つめた。


そして。


「Did they make you come here?(彼女たちに、無理やりここへ来させられたの?)」


その瞬間、VSP側の空気が少しだけ変わった。


大澄も、清白も、姫野も、九も、蓮見も答えない。


これは、アオが答える質問だった。


「…………」


アオは1度迷った。


そして。

首を横へ振った。


「……違います」


九が訳す。


アリエラの眉が僅かに動く。


「私が……会いたいって、言いました」


今度ははっきりと、そう答えた。


「…………」


アリエラがアオを見る。


先ほどまでと、少しだけ視線が変わった。


「You did?(あなたが?)」


「……はい」


「Why?(どうして?)」


「…………」


それが今日、ここへ来た理由。


アオは言葉を探した。

でも、まだ上手く出てこない。

少しだけ時間が必要だった。


だから大澄が会話を繋いだ。


「今日は、遠藤に決断させるための場じゃありません」


九が英語へ訳す。


「遠藤自身が、アリエラさんの話を聞いてみたいと言ったので、そのために設定しました」


リチャードが大澄を見る。


「Understood. No decision today.(承知した。今日は決断を求めない)」


「ありがとうございます」


大澄は頷いた。


アリエラも特に異論はないらしい。

むしろ先ほどから、ずっとアオを見ている。


アオには、それが死ぬほど怖い。


「…………」


視線を逸らす。

しかし、また少しだけ戻す。


すると、まだ見ている。


逸らす。

戻す。

まだいる。


当たり前である。

帰ってはいない。


「……アオちゃん」


九が小声で呼んだ。


「大丈夫?」


「……ギリギリです……」


「ギリギリかぁ」


「かなり……」


九が苦笑した。


そのやり取りを、アリエラは不思議そうに見ていた。


そして、アリエラの方からいくつか簡単な質問をした。


普段から歌うのか。


「……1人カラオケには、よく……」


プロとして活動した経験は。


「ないです……」


音楽教育は。


「ちゃんと習ったことは……ないです」


歌手になりたいのか。


「…………」


ここで、アオは少し長く黙った。


「……分からないです」


九が訳す。


「今は……VSPで働くの、好きなので……」


アリエラの表情が、また少し変わった。


「You don't want to become a singer?(歌手になりたいわけではない?)」


「……今は……そういうの、考えてなくて……」


「…………」


アリエラが椅子へ深く座り直した。


何かを考えているようだった。


歌手ではない。歌手になりたいとも言わない。自分の才能を誇る様子もない。


それどころか、世界的スターである自分を前にしただけで、未だに指先が震えている。


「…………」


アリエラは1度、リチャードを見た。

リチャードもほんの僅かに目を細めた。


2人が何を考えているのか、アオには分からない。


ただ1つだけ感じた。


――やっぱり。

――想像と違ったんだ。


そのことだけは、なんとなく分かってしまった。


それは当然だった。


アリエラ・グレイスが、わざわざ海を越えて会いに来たGreen Peas。


世界中で話題になった、あの歌声の主。

そんな相手として見れば、目の前の自分はあまりにも頼りない。


臆病で、自信がなくて、人の目もまともに見られない。


「…………」


アオは膝の上の手を見る。


やっぱり、自分じゃない方がいいんじゃないか。

そんな考えが頭を掠めた。


世界には、もっとすごい歌手がいる。


アリエラの隣に立っても堂々としていられる人。実力も、経験も、覚悟も、自分とは比べものにならない人。


その人の方が、きっと。


「…………」


でもそこで、昨日聞いた話を思い出した。


アリエラは、あの歌枠を見た。

自分と豊臣が歌った、あの1曲を。

そして、自分の曲が完成していないと言った。


ずっと何かが足りないと思っていた曲。


その曲を、自分と歌ってみたいと。

本人が、そう言った。


だから日本まで来た。


「…………」


アオの指がゆっくり握られる。


怖い。

まだ、怖い。

それは何1つ変わっていない。


目の前にいる人がアリエラ・グレイスであることも、世界中の人間が知る大スターであることも変わらない。


それでも、この人は自分に何かを求めている。


自分には、その理由がまだ分からない。

だったら、知りたい。


ここへ来たのは、そのためだった。


アオは1度、息を吸った。


「…………」


声が出ない。

喉が固まっている。


それでも、もう1度息を吸う。


姫野が隣で何も言わずにいる。

清白も、大澄も、九も、蓮見も、誰も代わりに話さない。


ただ待っている。

アオが自分の言葉を出すまで。


「……あの」


小さな声だった。

しかし、部屋の中でははっきり聞こえた。


アリエラがアオを見る。


「Yes?(なに?)」


「…………」


アオの視線が反射的に逸れそうになる。


止めた。

無理に止めた。


怖い。

心臓が痛いくらい鳴っている。


それでも、一瞬だけアリエラの目を見る。


世界の歌姫。

その目が今、自分だけを見ている。


「……1つ」


声が震えた。


「……聞いても、いいですか……?」


九が訳す。


アリエラはゆっくり頷いた。


「Of course.(もちろん)」


「…………」


アオは膝の上で両手を強く握った。


「……私」


言葉が詰まる。

でも、今度は逃げなかった。


「……私には……まだ、分からないんです」


九が1つずつ、丁寧に訳していく。


「アリエラさんみたいな人が……どうして、私なんかと歌いたいって思ったのか」


アリエラの目が僅かに細くなる。


アオは、その視線に耐えた。


「私より歌が上手い人なんて……世界には、いっぱいいます」


1度、息を吸う。


「私……歌手でもないですし……」


もう1度。


「人前だと……今みたいになっちゃいますし……」


姫野が横でほんの少しだけ口元を緩めた。


それでも、アオは続けた。


「それでも……」


震える声で。


「日本まで来て……」


目を逸らさず。


「私に会って……」


そして今日、ここへ来た理由を、とうとう本人へ問いかけた。


「……どうして、そこまでして……私と歌いたいと思ったんですか?」


九が最後まで訳し終える。


その瞬間、会議室が静かになった。


アリエラは何も答えず、ただ目の前にいる少女を見ていた。


世界中を騒がせた歌声の主。

Green Peasではなく。


手を震わせ、声を震わせ、今にも逃げ出しそうな顔をしながら、それでも自分の願いを知ろうとしてここまで来た。


遠藤アオという、1人の人間を。

初めて真正面から見ていた。


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