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第3話:コミュ障、謝罪警察に検挙される


翌朝。

アオは、目覚まし時計が鳴る三分前に目を覚ました。


偉い。

社会人として素晴らしい。

前向きなスタートである。


……と言いたいところだが、実際には違った。

緊張でほとんど眠れなかっただけだった。


「……今日も、会社……」


布団の中で、アオは天井を見つめた。

昨日の記憶が脳内で再生される。


VSPのきれいなオフィス。

大量の資料。

高速で飛び交う会話。

姫野ミカンの鋭い目つき。

清白メイカのふわふわした狂気。

そして、自分の「ひゃい」。


「ひゃい」。

初対面の先輩に対して「ひゃい」。


なぜ人類は、緊張すると母音と子音を勝手に合体事故させるのだろう。

いや、人類ではなく私だけかもしれない。


「お姉ちゃん、朝から顔が死んでる」


部屋のドアから、妹が顔を出した。


「……まだ始まってもないのに」


「会社二日目でその顔は厳しいって」


「私のメンタルは、昨日すでに定年退職したから……」


「ハロワいけや」


妹は容赦がない。

朝から現実を突きつけてくる。

しかも正論なので、防御できない。


「でも行くしかないんでしょ?」


「……行く」


アオは布団をぎゅっと握った。

逃げたい。

正直、ものすごく逃げたい。

このまま布団と一体化して、新種の寝具として暮らしたい。


遠藤アオ。

分類、布団科コミュ障属。

特徴、人前に出すとしおれる。


でも。

昨日、姫野に言われた言葉が残っていた。


『そこ気づいたのか』

『余計じゃねぇって』


それは、ほんの少しだけだったけれど。

確かに、自分が何かを見つけた瞬間だった。

自分でも役に立てるかもしれない。

そう思えた瞬間だった。


「……行ってくる」


「うん。いってら。今日も人類に負けないようにね」


「人間様、強すぎるよぉ……」


アオは鞄を持って、家を出た。


VSPの二日目は、初日よりもさらに速かった。

初日は、まだ説明が中心だった。

新人だからと、周りも少しだけ歩幅を合わせてくれていた。


しかし二日目。

現実は、遠慮なく本性を現した。


「遠藤さん、この議事録テンプレに移しておいて」


「りょ、了解です……」


「遠藤、こっちの確認終わったら、次この表見といて」


「あ、は、はい……!」


「アオちゃん、ふぁいと~」


「!?えっ、清白さ……」


「なっ……!?テメェ、サボってんじゃねー!」


「おーこわ」


右から資料。

左からチャット通知。

前方から姫野。

後方から清白。


情報の四面楚歌だった。

アオはパソコンの前で、必死にメモを取りながら作業を進める。


メール。

チャット。

スプレッドシート。

共有フォルダ。

権利確認表。

スケジュール表。

タレント別企画管理表。


どこを見ても表。

表。

表。


世界は表でできているのかもしれない。

いや、裏方だから表を扱うのか。

頭おかしくなりそう。


「遠藤、手止まってる」


「ひゃっ、す、すみま――」


「謝罪禁止」


「あっ、え、えっと……確認します……!」


「よし」


姫野が短く頷いた。

昨日から、姫野はアオの「すみません」をやたらと取り締まるようになっていた。


まるで謝罪を取り締まっているお巡りさんみたいだ。

速度違反ならぬ、謝罪違反。

言われてみれば姫野さんって白バイ結構似合うかも?


「遠藤」


「は、はい……!」


「この共有フォルダ、外部リンク切ってあるか確認した?」


「えっ、あっ……今、確認します……」


アオは慌てて画面を切り替えた。


共有設定。

閲覧権限。

リンクの公開範囲。

社内のみ。

個別権限。

外部共有なし。


大丈夫。

……のはず。


いや、本当に大丈夫?

大丈夫という言葉は信用できない。

自分の「大丈夫」は、たいてい大丈夫ではない。


アオはもう一度確認した。

さらにもう一度確認した。

そして、恐る恐る姫野に報告する。


「あ、あの……外部リンクは切れていて、閲覧権限は社内メンバーのみです。ただ、前回の資料からコピーしたタブに、不要なメモ欄が残っていたので、そこだけ削除してから共有します……」


姫野は画面を覗き込んだ。


「……おう。そうしとけ」


「は、はい」


「今の確認、悪くない」


「あ……ありがとうございます……」


また言えた。

すみませんではなく、ありがとうございます。

少しは成長できてるのかな。



昼休み。

アオは休憩スペースの端で、コンビニのおにぎりを両手で持っていた。


――シャケ。

安全な味。

実家のような安心感。

シャケナベイべーってね。


周囲では、スタッフたちが雑談している。

昨日の配信の話。

今度のコラボ企画の話。

タレントの収録スケジュールの話。


どれも聞いているだけで面白い。

いいなぁ、楽しそう。

あの輪に混ざりたいなぁ。


――だが、私の能力がそれを許さない。

悲しい。


「何してんの」


「ひゃっ」


突然、隣に姫野が座った。

アオはおにぎりを落としかけた。


危ない。

シャケが床を泳ぐところだった。


「お、お疲れ様です……」


「昼休みにまでそんな固くならなくていいだろ。チルしとけって」


「ち、チル……?」


「あーまぁ何つうか……ゆっくりするとか、くつろぐっていう意味だったかな、確か」

「配信内でも結構よく使われてるから、その辺も把握しておいた方がいいぞ」


「な、なるほど……」


私が他のスタッフたちの輪に入れないのを気遣ってくれたのだろうか。

やはり清白さんが言っていた通り、姫野さんは世話焼きさん太郎なのかもしれない。


「で、お前さ」


「は、はい」


「……おにぎり両手で持って何してんの?」


「えっ」


アオは自分の手元を見た。

確かに、両手でおにぎりを包み込んでいた。

まるで小鳥を保護している人みたいだった。


「シャケが逃げたら困るので……」


「逃げねぇよ」


「で、でも、昨日からいろんなものが私の手から逃げていくので……自信が……」


「ぶっ」


姫野が吹いた。


「おにぎりに逃げられる女、初めて見たわ」


「まだ逃げられてはいないです……!」


「そこ主張すんのかよ」


姫野はけらけら笑った。


笑いの沸点が低い。

本当に低い。

この人の近くでは、ちょっとした言葉がすぐに爆発する。

だが、不思議と嫌ではなかった。


笑われているのに、馬鹿にされている感じがしない。

……いや、少しは馬鹿にされているかもしれない。

でも、嫌な感じではない。


たぶん。

たぶんで生きている。


「で、どうよ。二日目」


姫野が聞いた。

アオはおにぎりを見つめた。

鮭は答えてくれない。

仕方なく、自分で答える。


「……すごく、速いです」


「だろうな」


「皆さん、当たり前みたいにいろんなことを同時に進めてて……私は、ひとつ確認するだけで精一杯で……」


アオは小さく息を吸った。


「でも……昨日よりは、ほんの少しだけ、何を見ればいいか分かるようになった気がします」


「ふーん」


姫野は缶コーヒーを揺らした。


「なら上等だろ」


「上等、ですか……?」


「二日目で全部できたら逆に怖ぇよ。新人がいきなり完璧だったら、こっちが失職するわ」


「あっ……それは、困ります……姫野さんが失職したら、私が誰に謝罪を検挙されれば……」


「そこ心配すんの?」


「え、えっと……」


「ぶはっ」


また笑われた。

アオはおにぎりを握りしめる。

シャケが圧縮されていく。


「おい、握力で具を殺すな」


「す、すみま――あっ」


「ダウト」


「うう……」


この人は怖い。

でも、少しだけ面白い。

そして少しだけ、優しい。



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