第30話:コミュ障、天下人の独裁に物申す
豊臣ツバサさんとの顔合わせから、三日後。
私のタレントマネージャー補助としてのOJTが始まった。
最初の仕事は、豊臣さんが午後に参加する企業案件の打ち合わせ資料を確認し、必要な情報を整理すること。
判断は姫野さん。
私は資料を読み、気になったことを報告する。
それだけだった。
それだけのはずだった。
「……姫野さん」
「何だ」
私は、共有フォルダに並んだファイルを見つめた。
【案件配信台本_初稿】
【案件配信台本_修正版】
【案件配信台本_再修正版】
【案件配信台本_豊臣確認】
【案件配信台本_豊臣修正済】
【案件配信台本_豊臣修正済最終】
【案件配信台本_豊臣修正済最終2】
最終が二つある。
最終とは何なのだろう。
人類は、いつから最終を複数作るようになったのだろう。
「ファイルが……繁殖しています」
「は?」
姫野さんが私のモニターを覗き込んだ。
一秒後、眉間に深いしわが刻まれた。
「何だこれ」
「私も今、見つけたところです……」
更新履歴を確認する。
最初の台本が共有されたのは、昨日の午後六時。
豊臣さんが最初に編集したのが、午後十一時四十三分。
最後のファイルが保存されたのは、午前三時十二分。
「午前三時……」
嫌な時間だった。
健康的な会社員が、業務ファイルへ触れる時間ではない。
私はそれぞれの内容を開いた。
元の台本には、企業の商品を紹介する文章が並んでいる。
その中の一文に、赤い線が引かれていた。
【この商品を使えば、誰でも必ず効果を実感できます】
その下には、豊臣さんのコメントが残されている。
【商品資料には個人差があると記載されています。この表現では事実と異なるため、使用できません】
そこまでは分かる。
問題は、その先だった。
豊臣さんは問題の一文だけではなく、台本全体を修正していた。
商品の紹介順。
言葉遣い。
注意事項。
配信中のやり取り。
想定される視聴者からの質問。
ほとんど別の台本である。
「……これ、豊臣さんが全部書き直したんでしょうか」
「履歴を見る限り、そうだな」
姫野さんの声が低くなる。
「聞いてねぇぞ」
その瞬間、背後から柔らかな声が届いた。
「何をでしょうかぁ?」
私は肩を跳ねさせた。
振り返ると、豊臣さんが立っていた。
今日も穏やかな笑顔。
片手には、午後の打ち合わせで使うらしい資料。
昨夜午前三時まで台本を直していた人には見えない。
「豊臣」
姫野さんが手招きする。
「このファイルは何だ」
「ああ、それですねぇ」
豊臣さんは画面を見て、納得したように頷いた。
「台本に事実と異なる表現がありましたので、修正しておきましたぁ」
軽い。
あまりにも軽い。
机の位置を少し動かしました、くらいの報告だった。
「何で報告しなかった」
「夜も遅かったですし、皆さんへご連絡するのは申し訳ないかと思いましてぇ」
「はいぃ」
「何時間かかった」
「正確には覚えていませんがぁ……五時間ほどでしょうか」
「寝たのは?」
「四時頃ですぅ」
姫野さんが、ゆっくり天井を仰いだ。
豊臣さんは首を傾げる。
「ですが、台本は直りましたよぉ?」
「そういう話じゃねぇ」
「でも、誤った内容を配信で読むわけにはいきません」
声は変わらず柔らかい。
けれど、その一言だけで空気が変わった。
「効果には個人差があります。それを、誰にでも必ず効果があると伝えるのは嘘ですぅ」
豊臣さんは微笑んでいた。
怒ってはいない。
声を荒らげてもいない。
それなのに、一歩も退く気がないことだけは伝わってきた。
「先方が用意した文章であっても、私は嘘を読みません」
穏やかな声のまま、言葉が硬い。
これが、豊臣ツバサという人の本性なのだろう。
おっとりしている。
マイペース。
いつも柔らかく笑っている。
でも、本人が正しくないと判断したものには、絶対に従わない。
相手が企業でも。
仕事が増えても。
自分の睡眠時間が消えても。
「表現を止めた判断は正しい」
姫野さんが言った。
「だが、お前が全部書き直す必要はない」
「私が気づいたことですのでぇ」
「気づいたやつが全部処理する決まりはねぇ」
「ですが、他の方へお願いすれば、その方のお仕事が増えてしまいます」
「その調整をするのがアタシらの仕事だ」
「姫野さんのお仕事も増えてしまいますぅ」
豊臣さんは、少し困ったように眉を下げた。
困っている。
たぶん。
でも、納得はしていない。
姫野さんの言葉は理解している。
理解した上で、それでも自分でやった方がいいと思っている。
「遠藤」
不意に名前を呼ばれた。
「はいっ」
「OJTだ。これを整理しろ」
姫野さんが、画面を指す。
「豊臣が自分で判断する部分と、他部署へ戻す部分を分けろ」
いきなり実戦だった。
「わ、私がですか?」
「アタシが確認する」
「分かりました……」
私は修正履歴を開いた。
赤字になった箇所を、一つずつ確認する。
商品の効果に関する表現。
注意事項。
配信内での見せ方。
画像を表示する時間。
読み上げる順番。
想定質問への回答。
豊臣さんは、その全てを一人で直していた。
正しくないものを見つけた。
だから正しくした。
とても単純な理屈だった。
けれど、仕事は一人では完結しない。
「……豊臣さん」
「はいぃ」
「この中で、豊臣さんにしか判断できないことは、どれでしょうか」
「私にしか、ですかぁ?」
「はい」
私は画面を見ながら言葉を探した。
「この表現を、ご自身が読めるかどうか。それは豊臣さんにしか決められないと思います」
「そうですねぇ」
「でも、商品の効果が正しいかを確認するのは、企業の担当者さんにもできます」
「はいぃ」
「法的に問題がないかは、九さんたち法務の仕事です」
「そうですねぇ」
「台本全体を整えるのは、制作スタッフさんにもできます」
豊臣さんが黙る。
「豊臣さんが全部直してしまったら……他の人が、自分の仕事をする場所までなくなってしまいます」
言い切ってから、不安になった。
責めるつもりはない。
豊臣さんは、周囲を信用していないわけでもない。
むしろ、迷惑をかけたくないと思っている。
でも。
「任せてもらえなかった人は、自分は信用されていないのかなって、思うかもしれません」
「……信用」
豊臣さんが、小さく繰り返した。
「す、すみません。豊臣さんが、皆さんを信用していないという意味では……」
「いいえぇ」
豊臣さんは、穏やかに私を止めた。
笑顔が消えていた。
怒っているわけではない。
ただ、本気で考えている顔だった。
「私は、ご迷惑をかけないようにしたつもりでした」
「はい……」
「ですが、お願いしないことが、信頼していないように見えることもあるのですねぇ」
「私も……よく分かってはいないです」
人に頼るのが苦手なのは、私も同じだ。
私の場合は、断られるのが怖い。
迷惑だと思われるのが怖い。
豊臣さんは、おそらく違う。
誰かに負担を渡すくらいなら、自分が引き受けた方が正しいと思っている。
理由は違っても、抱え込むところは同じだった。
「難しいですねぇ」
豊臣さんが呟く。
「難しいです……」
姫野さんが私たちを見比べた。
「二人で納得し合って終わるな。仕事に戻すぞ」
「はい……!」
「では、まず効果表現は法務と営業へ回す。先方への窓口は営業に統一」
私は急いで項目を分ける。
「注意事項は法務。画像の見せ方は制作。豊臣は、自分が読めない表現と、その理由だけを書き出せ」
「私が直すのではなく?」
「直さない」
「少しだけでも?」
「値切るな」
豊臣さんが、ほんの少し残念そうな顔をした。
この人。
仕事を減らされて残念そうにしている。
普通は喜ぶところではないだろうか。
「遠藤、共有文を作れ」
「はい」
私は関係部署へ送る文章を作り始めた。
問題となる表現。
確認してほしい内容。
現時点で豊臣さんが懸念している点。
誰に何を判断してもらうのか。
姫野さんの確認を受け、共有する。
ほどなく、営業担当から返信が来た。
【確認します。先方にもこちらから連絡します】
制作スタッフからも届く。
【修正箇所を確認しました。台本調整はこちらで引き取ります】
法務からは、九さんらしい短い返事だった。
【その表現ガチで危ない。止めて正解。こっちで見る】
一つずつ、仕事が他の人へ渡っていく。
豊臣さんは、流れてくる返信を黙って見ていた。
「皆さん、すぐに対応してくださるのですねぇ」
「仕事ですから」
姫野さんが答える。
「豊臣が頼んだから増えた仕事じゃない。最初から、それぞれが確認すべき仕事だ」
「そうでしたかぁ」
豊臣さんは、しばらく画面を見つめる。
「では……お願いいたします、とお伝えしてもよろしいでしょうか」
「自分で送れ」
姫野さんが言う。
豊臣さんは少し迷ったあと、社内チャットへ文章を入力した。
【皆様、お手数をおかけします。ご確認をお願いいたします】
送信。
たったそれだけ。
けれど、豊臣さんは大きな決断をしたような顔をしていた。
「送れましたぁ」
「見りゃ分かる」
「お願いしてしまいましたぁ」
「心が少し落ち着きませんねぇ」
「慣れろ」
姫野さんの返答は厳しい。
でも、口元は少しだけ緩んでいた。
「豊臣さん」
私は声をかけた。
「何でしょうかぁ」
「皆さん、迷惑そうではありませんでした」
豊臣さんは、届いた返信をもう一度見る。
「そうですねぇ」
ほんの少しだけ、笑った。
いつもの柔らかな笑顔。
ただ、今度はどこか力が抜けているように見えた。
「ありがとうございました、遠藤さん」
「い、いえ。私は整理しただけで……」
「私一人では、お願いするという考えには至らなかったと思いますぅ」
その言葉に、胸が小さく揺れた。
役に立てた。
そう思っていいのだろうか。
いや。
調子に乗ってはいけない。
初日のOJT。
一つ整理しただけ。
姫野さんに呼ばれる。
「はい」
「今ので終わりじゃねぇぞ」
「えっ」
「豊臣。今日の予定を出せ」
「台本の件は、皆さんへお願いしましたよぉ?」
「それとこれとは別だ。昨夜四時まで起きてた人間を、そのまま全部働かせるわけねぇだろ」
「ですがぁ、予定はすでに組んでありますので」
出た。
穏やかな反抗。
表情も口調も柔らかいまま、退く気がまったくない。
「十六時の歌収録は延期。二十時の配信も休止」
「できません」
空気が止まった。
これまでの「ですがぁ」とは違った。
声は大きくない。
けれど、迷いのない即答だった。
「配信を待ってくださっている方がいます」
豊臣さんは、姫野さんを真っ直ぐ見る。
「私の都合で、約束を破ることはできません」
そこにいたのは、先ほどまでのおっとりした女性と同じ人だった。
同じ柔らかな声。
同じ穏やかな顔。
なのに、まるで岩のように動かない。
豊臣ツバサの本性が、初めてはっきりと姿を現した。
正しいと決めたことは、絶対に曲げない。
たとえ、そのために自分が壊れるとしても。
姫野さんが、ゆっくり息を吐く。
「遠藤」
「は、はい」
「OJT、第二問だ」
姫野さんは、豊臣さんから一度も目を逸らさなかった。
「この頑固者を、どうやって休ませる?」
「初日に難易度が高すぎませんか……?」
「アタシらも、ずっと手を焼いてんだよ」
豊臣さんは、何の話でしょうかと言いたげに首を傾げている。
その顔を見ながら、私は悟った。
タレントマネージャー補助。
想像していたより、ずっと大変な仕事だった。




