プロローグ①
——遠藤アオは、極度の人見知りである。
どれくらいかと言うと、コンビニで店員さんに「袋いりますか?」と聞かれただけで目が泳ぎ、そのままレジ横のホットスナックケースに視線が吸い寄せられ、唐揚げ棒と魂の交信を始めてしまうほどだった。
「……あ、え、えっと……だ、大丈夫、デス……」
声は出る。
一応、出る。
ただし、相手の目を見た瞬間、喉の奥に住んでいる小さな門番が「本日の営業は終了しました」と札を下げる。
——閉店ガラガラ。
結果として、アオの言葉はだいたい半分くらい消える。
消えた半分は、たぶん異世界にでも転生している。
「お姉ちゃんさぁ」
家に帰るなり、妹の遠藤妹が呆れた顔で言った。
「またレジでフリーズしたでしょ」
「し、してない」
「じゃあなんで袋もらってないのに、商品を腕で抱えて帰ってきてるの」
「……レジ袋代、もったいないなって……」
「いや、そんなん3円とかでしょ。毎回余計なもん買ってくるくせに何言ってんだか」
「ぐふっ」
妹は容赦がなかった。
妹という生き物は、姉の尊厳を節約対象に含めない。
必要なときに必要なだけ削りとる。
——いや、誰がケバブやねん。
けれど、アオはそんな妹を嫌いではなかった。
というより、家族以外とまともに会話できないアオにとって、妹は数少ない安全圏だった。
「でもさ」
私は地面を拭きながら、ふと顔を上げた。
「お姉ちゃん、声だけはほんと一級品なんだけどね」
「……声、だけ」
「そこ拗ねるとこじゃないよ。褒めてるから。ちゃんとしてれば声優とか目指せたんじゃない?」
「ちゃんとしてればって……」
——声だけは。
昔から、そう言われることがあった。
家族には。
妹には。
けれど、学校でも、バイト先でも、誰かの前に立った瞬間、その声はどこかへ逃げていった。
本当の声は、いつも自分の中にだけ響いていた。
誰にも届かない場所で、ひっそりと。
だからアオは、自分の声を武器だと思ったことがなかった。
武器というより、抜けない剣だった。
伝説の剣。
ただし台座から1ミリも動かない。
——持ち主がコミュ障すぎるせいで。
◇
その夜、アオは何となくネットを眺めていた。
おすすめ欄に流れてきた動画を、ぼんやりと見ていた。
ゲーム実況。
歌ってみた。
切り抜き。
動物動画。
猫が箱に突撃して失敗する動画。
そして、その中に、一つだけ妙に目を引く配信があった。
画面の中で、ひとりのVtuberが笑っていた。
透き通った声だった。
水面に月明かりが落ちるみたいに、静かなのに、すっと胸の奥まで届く声。
それでいて、リスナーとのやり取りは軽やかで、コメント欄は恐ろしい速さで流れている。
『えー? それはさすがに私悪くなくない? 今のはゲーム側が空気読んでなかっただけでしょ!』
コメント欄が笑いで埋まる。
『ちょ、待って待って! みんな今の見た!? 見たよね!? 私だけが悪いみたいな空気やめよ!?』
また笑いが流れる。
アオは画面を見つめたまま、息をするのを忘れていた。
すごい、と思った。
この人は、何万人もの視線を浴びながら、ちゃんと笑っている。
ちゃんと喋っている。
ちゃんと、そこにいる。
アオなら、三人に見られた時点で心臓が退職届を出す。
十人なら内臓が労働組合を結成する。
なのに、彼女は。
画面の向こうの彼女は、とても眩しかった。
「……私も」
思わず、声が漏れた。
「私も、あんなふうに……なれたら」
その瞬間、自分で自分の言葉に驚いた。
——あんなふうになれたら。
今まで、そんなことを本気で考えたことはなかった。
変わりたいとは、ずっと思っていた。
でも、それは雨が止んでほしいとか、朝起きたら人類が全員ちょっと優しくなっていてほしいとか、そういう現実味の薄い願望に近かった。
けれど、画面の向こうにいる彼女を見ていると、その願いに形ができてしまった。
——VTuber。
姿を出さなくてもいい。
本名を出さなくてもいい。
顔も、住んでいる場所も、現実の自分も、すべて表に出す必要はない。
だからこそ、アオは思ってしまった。
それなら。
こんな自分でも、声だけなら。
中身の自分を隠したままなら。
——もしかしたら、誰かに届くかもしれない。
◇
数日後。
アオは、大手Vtuber事務所のオーディション応募フォームを前に、マウスを握りしめていた。
手汗でマウスがしっとりしている。
マウスからしたら迷惑な話である。
「……送る。送るだけ。送るだけだから。応募ボタンは爆発しない。多分。いや、もしかしたらメンタルは暴発するかもだけど、物理的にはしない」
独り言が止まらない。
壁打ちだけは得意だった。
相手がいない会話なら、アオはわりと饒舌だった。
人類さえいなければ、私はそこそこ喋れる。
それは果たしてコミュニケーション能力と言えるのか。
——んなわけない。
うん、残当。
「お姉ちゃん、まだ押してないの?」
背後から妹の声がした。
「ぴょっ」
アオは飛び上がった。
「ノック!ノックして!」
「したよ。三回も。返事なかったじゃん」
「ビックリしすぎてに死にかけたんだけど……!」
「いや、こんなところで死なないでよ。まだ何も成し遂げてないじゃん」
「『死せる孔明、生ける仲達を走らす』……ってコト!?」
「じゃかあしいわボケ」
妹は呆れながら画面を覗き込んだ。
そして、応募フォームの一番下にある送信ボタンを見て、にやりと笑った。
「押しなよ」
「無理」
「判断が早い」
「だって、送った瞬間、世界が変わるかもしれないし」
「……変えたいんじゃないの?」
「それは……そうだけど……」
妹はアオの肩に手を置いた。
珍しく、からかうような声ではなかった。
「声は、本当にいいんだからさ。出してみなよ。外に」
アオは画面を見た。
応募ボタンが、そこにある。
小さな四角。
でも、今のアオには、断崖絶壁の向こう側にある橋みたいに見えた。
怖い。
怖すぎる。
でも。
画面の向こうで笑っていた、あのVtuberの声が頭をよぎった。
あんなふうに、誰かを笑わせられたら。
あんなふうに、誰かの時間を少しだけ明るくできたら。
アオは目をぎゅっと閉じて、クリックした。
送信完了。
その四文字が表示された瞬間、アオは椅子の上で固まった。
「……送っちゃった」
「送ったね」
「……世界、変わるかな」
「まずはお姉ちゃんが風呂入るところから変えようか」
「いや厳しいって」
「厳しいんだ……」
それでも、アオはほんの少しだけ笑った。
笑えたことに、自分で少し驚いた。
怖い。
不安。
後悔もちょっとある。
いや、ちょっとどころではない。
すでに胃が会議を開いている。
だが、それでも。
送信ボタンは、確かに押せた。
遠藤アオの人生にしては、それはなかなかの大事件だった。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
少しでも面白いと思っていただけましたら、ブックマークや評価で応援していただけると、とても励みになります。




