11.6 辺境からの警告
朝食のトレイが運ばれてきたとき、私は小さな封筒に気づいた。朝の郵便だ。無意識に手を伸ばし、差出人の名を見た途端、指先から血の気が引くのを感じた。
「エルナルド・トルマリン」
辺境地域に追放されたはずの彼からの手紙。皿から落ちたナイフがカーペットの上で鈍い音を立てる。それを拾い上げる間にも、私の思考は無秩序に暴走していた。彼から連絡が来るとは—しかも公式の郵便で。なぜ今?彼は何を企んでいる?
封を開く手が震える。前世の科学者の習慣で、呼吸を整え、心拍数を意識的に下げようとする。しかし効果は薄い。エルナルドという存在が喚起する感情があまりに複雑だからだ。同じ転生者として理解できる部分と、その狂気的イデオロギーへの恐怖が入り混じる。
封筒から一枚の紙が滑り出た。それは古風な様式の手紙ではなく、謎めいた図式と短い文章だけが記されていた。
「選別は必ず来る。北を見よ。—E.T.」
額に冷や汗が浮かぶのを感じる。「選別」—それはエルナルドの偏執的な哲学の核心だ。人間を「適合者」と「不適合者」に分ける思想。彼の前世でのトラウマから生まれた歪んだ世界観。
図式は古代魔法のようだが、私の知る限りでは見たことのない形態だ。渦巻く線が複雑に絡み合い、中心には七つの点が星形に配置されている。前世の暗号解読の知識を総動員しても、即座の理解は難しい。
私は反射的にペンダントに手を当てた。「アルギウス、これをどう思う?」
ペンダントが温かくなり、アルギウスの声が響いた。「非常に興味深い図式です。古代の『結界崩壊』魔法に似ていますが、いくつかの重要な変更点がある」
「結界崩壊?」
「防御魔法を解除する古代技術です。この図式のパターンと配置から判断すると、特定の場所を指し示している可能性があります。北方の...」
「北方防壁?」言葉が勝手に口から飛び出した。
北方防壁—帝国北辺を守る巨大魔法障壁。異民族の侵入を防ぐ重要な防衛線だ。そこになぜ結界崩壊魔法が?これは警告なのか、それとも脅迫なのか?
科学者の思考回路が自動的に作動し、仮説を構築し始める。エルナルドが辺境で何か発見した可能性。あるいは彼自身が結界崩壊を計画している可能性。いずれにせよ、彼が何らかの行動を起こす前兆だ。
「北方異民族の動向を調べます」
アルギウスが帝国の情報ネットワークにアクセスしている間、私は窓際に立ち、北方を見つめた。雲が低く垂れ込め、遠くの山脈はかすんでいる。前世の記憶が蘇る—敵対国家の動向分析、地政学的リスク評価、そして何より、科学技術の軍事転用という倫理的課題。別の世界、別の問題。しかし本質は変わらない。
「北方地域で不穏な動きを検出しました」アルギウスの報告が届いた。「過去三ヶ月で、アンバー公国との境界付近での異民族の活動が143%増加。また、北方防壁の魔力レベルが5.2%低下しています」
数字を聞いて思考が整理される。143%の活動増加—統計的に有意な変化だ。通常の季節変動では説明できない。5.2%の魔力低下—緩やかだが確実な減少。単なる経年劣化よりはるかに急速だ。
「破壊工作?」
「可能性は高いです。特に懸念されるのは、三日前に報告された『青い火』の目撃情報です」
青い火—それは古代魔法の一種だ。しかし、北方異民族がそのような高度な魔法を使えるとは考えにくい。誰かが彼らに技術提供をしているとすれば...
「エルナルドが関わっているのかしら?」
質問は科学的というより感情的だった。彼への警戒心と恐怖が、客観的判断を曇らせている。これが前世の私なら決して許さなかった思考の歪みだ。
「断定はできませんが、彼の専門知識と時期的一致を考えると、可能性は排除できません」
客観的な評価。アルギウスは感情に左右されない。それがAIの強みだ。だが同時に、彼にはグリフォンから受け継いだ共感能力もある。彼は私の不安を理解している。
私は手紙を握りしめた。かつての敵が何を企んでいるのか。単なる警告なのか、それとも脅しなのか。あるいは別の目的があるのか。頭では冷静に分析しようとしても、胸の内では怒りと恐怖が渦巻いている。
前世では感情を科学の外に置くことを誇りとしていた。だが今の私には、純粋な客観性など維持できない。エルナルドの狂気とグリフォンの喪失—この二つの出来事が、私の感情を根本から変えてしまった。
「アンバー公国に特使を派遣する必要があるわ。北方防壁の調査を」
「第三調査部隊の準備が整っています。また、皇太子への報告書も作成済みです」
アルギウスの効率に感謝しつつも、私の心は複雑な感情で揺れていた。手紙に記された「選別は必ず来る」という言葉が、頭から離れない。
「彼は変わっていないのね。『選別は必ず来る』...その信念は捨てていない」
静かに呟いた言葉に、アルギウスが応える。
「人間の信念は容易に変わりません。特に深いトラウマに根ざしたものは」
そう、エルナルドの信念はトラウマから生まれた。前世でAI特異点による人類滅亡を目撃した彼の恐怖と確信。「制御できないならば崇拝せよ」という歪んだ哲学。それは簡単に消えるものではない。
私は自分の両手を見つめた。この手でグリフォンを創り出し、そして結果的に失った。創造と喪失。私もまた、自分なりのトラウマを抱えている。そしてそれが私の判断にどう影響しているのか、完全には理解できていない。
「私たちは客観的であろうとすればするほど、無自覚な主観に囚われる」—前世の科学哲学の講義で聞いた言葉だ。今、その意味を身をもって理解している。
窓の外で、雲が北方の山々を覆い始めていた。新たな危機の予兆のように。太陽は雲間から差し込み、研究室の床に鋭い光の帯を作る。光と影の境界線—それはまるで私たちの置かれた状況を象徴しているようだった。
「エルナルド、あなたは今何を見ているの?」
返事のない問いかけが、静かな空間に吸い込まれていった。




