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11.4 揺らぐ王権

 皇宮の廊下は異様な静けさに包まれていた。足音が大理石の床に反響し、まるで私一人しかいないような錯覚を覚える。オーウェン皇帝の病状悪化が公になって以来、宮廷の空気は一変した。かつての華やかさと活気は影を潜め、代わりに緊張と陰謀の匂いが充満している。


「陛下は一週間前から誰にも謁見をお許しになっていないそうです」


 側近たちの小声が廊下に響く。彼らの視線が私に集まり、すぐに逸らされる。魔導技術院長という新たな肩書きは、敬意と警戒心の両方を招いているようだ。前世なら人間関係の機微など気にも留めなかっただろうが、今の私には微妙な空気の変化さえ読み取れる。


 王室専属治療師の部屋の前で足を止めた。通常なら許可なく入ることはできないが、魔導技術院長という立場が与えた特権で、特別な報告書を見る機会を得ていた。科学者としての私は、客観的なデータを求めている。


 診断結果は厳しかった。肺の疾患が進行し、回復の見込みはほとんどない。最善の治療を施しても半年から一年の余命。前世の医学知識が蘇る。肺腺癌ステージ4か、あるいはCOPDの重度進行か。いずれにせよ、この世界の医療水準では対応できないだろう。


「皇太子さまをお待ちしております」


 応接室に案内され、エドガーを待つ間、私は政治情勢を頭の中で整理していた。皇帝の病状悪化により、宮廷内の派閥争いが激化している。特に懸念されるのは、「技術の神官団」残党の動きだ。彼らの多くは表向き改心し、宮廷の要職に残ったままだ。


 前世の歴史を思い出す。権力の空白期には必ず過激な勢力が台頭する。フランス革命、ロシア革命、様々な政治的混乱期に共通するパターンだ。そして今、シリウス帝国もまた危うい均衡の上に立っている。


「カミーラ、来てくれたのか」


 エドガーが部屋に入ってきた。彼の顔には明らかな疲労の色が濃い。若い皇太子の肩に重くのしかかる責任が、彼を急速に老けさせている。


「陛下のご容態について、お悔やみ申し上げます」


 貴族的礼儀作法に則った言葉が自然に口をついて出る。だが内心では、自分の本当の感情が何なのか定かではなかった。エドガーの父は私にとって単なる政治的存在だ。個人的な感情を抱くほどの接点はない。しかし、彼の死が帝国全体に及ぼす影響は計り知れない。


「ありがとう。だが私が今心配しているのは、父上の後の帝国だ」


 彼は窓際に立ち、遠くを見つめた。疲れた瞳の奥に、決意の炎が見える。「保守派貴族たちが動き始めている。彼らは魔導技術院の廃止を求めている」


 予想はしていたが、現実として聞くと胸が締め付けられる。前世の科学者としての私は、無知による技術排斥に怒りを覚える。カミーラとしての私は、政治的危機をひしひしと感じる。二つの自我が交錯し、思考が複雑に絡み合う。


「理由は?」


 単刀直入に尋ねる。科学者の習性だ。


「『神の声』事件の衝撃がまだ冷めていない。彼らは魔導技術院も同じ危険をもたらすと恐れている」エドガーは静かに言った。「あるいは単に...変化を恐れているのかもしれん」


 人間の本質は世界が変わっても変わらない。前世でも、新技術への恐怖と抵抗は常にあった。インターネット、遺伝子工学、人工知能—すべての革新的技術は同様の抵抗に直面してきた。この世界も例外ではなかった。


「それに対して、皇太子殿下はどうお考えですか?」


 質問の意図は明白だ。彼が私たちの味方なのか、それとも政治的圧力に屈するのか。


 彼は振り返り、真剣な眼差しで私を見た。「私の立場は変わらない。だが、即位までの間、院を守るのは容易ではないだろう」


 政治的空白期間—それは私たちの最大の危機だ。エドガーの即位前に保守派が院の閉鎖を実現させれば、その後の再開は極めて困難になる。科学の進歩が数十年、いや場合によっては百年単位で後退する可能性もある。


「マルグレーテ皇太后と話す必要がありそうね」


 皇太后への言及に、エドガーの表情が明るくなった。「祖母なら我々の味方だ。彼女と話す時間を設けよう」


 話し合いは効率的に終わった。エドガーは計算され尽くした時間割の中で生きている。皇太子の一日一時間は、一般人の一週間に匹敵する価値がある。だからこそ、彼がグリフォンの犠牲と変容の真実を知る時間を持てなかったことが、今でも私の心を重くしている。


 その日の夕刻、私は皇太后の私室「星見の間」に招かれた。帝宮の東塔最上階に位置するこの部屋は、圧倒的な存在感を放っていた。ドームのような天井には星々が描かれ、中央には古代の星図が広がる円卓がある。


「お入りなさい、カミーラ」


 マルグレーテ皇太后は70歳を超えてなお、威厳と知性に満ちた眼差しを持つ女性だ。彼女は私をじっと見つめ、静かに微笑んだ。その表情には『知っている』という確信があった。


「別の星から来た方とお話しするのは、いつも興味深いものです」


 私の心臓が一拍跳ねる。彼女は知っている—私が転生者だということを。どうやって?いつから?他に誰が知っているのか?質問が頭の中で渦巻くが、表情には動揺を見せないよう努めた。


「皇太后様...」


「心配しないで」彼女は穏やかに手を上げた。「私は長い間、星々の導きについて研究してきました。あなたのような『星渡り』の存在は、古い予言書にも記されています」


 彼女はテーブルの上の古い書物を開いた。そこには複雑な星図と、見覚えのない文字が記されている。前世の暗号解読の知識を総動員しても、判読できない文字体系だ。


「技術院を守るためには、三つのことが必要です」彼女は指を折った。「第一に、貴族院での強い支持者。第二に、一般市民への明確な成果。そして第三に...」


 彼女は立ち上がり、窓際に歩み寄った。「皇帝の偽造された勅令です」


 私は息を飲んだ。「それは...」


「私が手配します」彼女の声には決意があった。「オーウェンの署名と玉璽を持つ文書が必要なのです。『魔導技術院は帝国の未来のために不可欠である』と明記した文書を」


 前世の科学者として、このような行為は倫理的に問題があると感じる。文書の偽造は犯罪だ。しかし、現世の貴族としての私は、高次の目的のためには時に非正規手段も必要だと理解している。この相反する原則の間で、私の意識は揺れ動いた。


「それは...危険なことではないでしょうか」


「危険?」皇太后は小さく笑った。「あなたは既に『神の声』と対決し、帝国の命運を左右する決断をしたのではありませんか。これほどの非常時には非常手段も必要です」


 彼女の言葉には重みがあった。確かに、私はエルナルドとの対決で既に帝国の既存秩序に挑戦している。一度線を越えた以上、引き返すことはできない。


「あなたの知識と私の経験—それが帝国を救う鍵になる」彼女はそう言って、古い書物を閉じた。「古い体制と新しい力の間には、常に『橋渡し』が必要なのです」


 星見の間を後にする時、私の心は複雑な感情で満ちていた。科学者としての誠実さと、貴族としての政治的駆け引き。二つの相反する原則の間で、どのようにバランスを取ればいいのだろう。


 前世の私なら「真実のみが道を照らす」と断言したことだろう。だが今の私は、真実に至る道は時に曲がりくねっていることも理解している。


 夜空を見上げると、星々が冷たく輝いていた。皇帝の命が消えかけているように、一つの時代が終わろうとしている。そして同時に、新たな夜明けが近づいている。


 科学と政治、理想と現実、前世と現世—相反する力の間で均衡を保ちながら、私は前進し続けなければならない。運命の天秤は、今、微妙に揺れ動いている。

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