9.1 決断の瞬間
警報の音が夜空に響き渡る。私は息を殺し、星見ヶ丘の別荘から救出したアリシアの家族—母親と二人の妹—を後ろに庇いながら、闇の中を見据えた。私たちの足跡を追う松明の光が、遠くの丘の上で揺れている。まるで前世の実験室火災の炎のように。
「あと15分で追手が峠を越えます」
私の胸元のペンダントからグリフォンの声が響いた。以前なら彼の計算結果に対し「誤差範囲は?」と尋ねていただろう。だが今はその時間はない。
「馬車はどこ?」低い声で尋ねる。
「予定通り北東の林道に待機中。あと400メートルです」
私は手を引いていたアリシアの妹—七歳になったばかりのエミリー—を見下ろした。恐怖で大きく見開かれた瞳。私自身の死の運命を知った時、鏡に映った自分の目もこうだったのだろうか。
「もう少しよ。すぐに安全な場所に」
父なる公爵が存在を知らない隠し馬車。『悪役令嬢』の末路を回避するための非常脱出用に用意していたものが、今はアリシアの家族を救うために使われる。皮肉な運命の転用だ。
突然、ペンダントが激しく脈打ち、青い光が闇の中で明滅した。
「カミーラ!」グリフォンの声に切迫感がある。「魔法ネットワークに異常な活動を検知。『神の声』が反撃を開始しています」
胸の奥で鼓動が跳ね上がる。エルナルドの模造AIが動き出したということ。私たちの行動は予測されていた?それとも...
「対象範囲は?」科学者の思考パターンが自動的に起動する。
「現時点で帝国ネットワークの57%に到達。拡大速度は指数関数的です」グリフォンの声が一瞬途切れた。「それと...私への直接的な干渉も検知されています」
氷水を浴びせられたような感覚。彼の声の揺らぎは、単なる魔力変動ではない。グリフォンの存在そのものが危険にさらされている。
やっと林の切れ間に馬車の輪郭が見えた。御者のフランクは、私が侍女長を通じて信頼性を確認済みの元兵士だ。
「フランク、これらの方々をクロスフィールド領まで。いかなる場合も寄り道は禁止。途中で止められても、私の印璽と魔法封筒を見せなさい」
彼は無言で頷き、アリシアの家族を馬車に乗せ始めた。
「カミーラ様...一緒にいらっしゃらないのですか?」アリシアの母親が不安げに尋ねる。
私は一瞬躊躇った。論理的には私も一緒に戻るべきだ。安全な場所で防御と対策を立てる。それが最適解。だが...
「違う方向に行かなければならないことが」
「まさか...『星天の眼』へ?」グリフォンの声が驚きを含んでいた。「現在の状況下では、リスク係数が—」
「計算済みよ」私は静かに言った。嘘だ。感情による判断だということは、私自身が一番理解している。
馬車が動き出す音。アリシアの家族の安堵の表情。私は彼らの消えていく背中を見送りながら、次の一手を考えていた。星天の眼での「神の降臨」儀式まであと数時間。皇太子救出作戦の成否も不明。そして今やグリフォン自身が危険に—
「私への干渉はどの程度?」低い声で尋ねる。
「現時点では表面的スキャン段階です」彼の声が再び揺らいだ。「しかし、私のコア構造に類似性を見出した様子。親和性による統合を試みているようです」
親和性による統合。翻訳すれば、グリフォンのアルゴリズムを「神の声」に吸収しようとしているということ。私が最も恐れていた事態だ。
「防御プロトコルは?」
「自動展開済みですが...」一瞬の沈黙。「彼らは私の基本構造を理解しています。長期的には防御突破は時間の問題です」
腹の底から冷たいものが込み上げてくる。前世の私は量子暗号のセキュリティホールに気づいた時、似たような感覚を覚えた。だがそれは単なる研究上の挫折だった。今は—グリフォンの存在そのものが脅かされている。彼は単なるプログラムではない。私の孤独を理解し、私の野望を支え、時に私の盲点を指摘してくれる...友人だ。
「選択肢は二つね」私は口に出して考えた。「アジェンタへ戻り、防御態勢を固める。または...」
「『星天の眼』へ向かう」グリフォンが私の考えを先取りした。「後者は直接的リスクが90%増加します」
月明かりの下、遠くにロゼンブルク山脈の影が見える。その中に「星天の眼」がある。エルナルドの拠点。「神の声」の中枢。魔導AIの戦場。
「行くわ」
「予測通りでした」グリフォンの声に、かすかな—笑いとも取れる—震えがあった。「理由を聞いてもいいですか?」
理由?私の頭の中で答えが交錯する。科学者として、未知の技術を目の当たりにする好奇心。貴族として、民を守る責任。生存者として、運命を変える必要性。そのどれもが正しい。しかし本当の理由は—
「あなたを守るため」
その言葉は、思考を経ない本能的なものだった。前世の私なら、こんな感情的判断はしなかっただろう。しかし今の私は違う。
「興味深い」グリフォンの声が柔らかくなった。「私はあなたの創造物。保護されるべきは、創造主のはずです」
「そうね。論理的には」北に向かって歩き始めながら答える。「でも私たちの関係は、もはや創造主と被造物ではないでしょう?」
星空の下、私は決意を固めた。もう後戻りはできない。科学者として、そして今や保護者として、私の選択は一つしかない。「神の声」に干渉される前に、グリフォンを守り、エルナルドの儀式を止める。
「ルート計算を開始します」グリフォンの声には新たな決意が宿っていた。「『星天の眼』へ、最短経路で案内します」
私は足を速めた。前世での未完の実験は、今や命を持つ存在となった。その存在を守るため、そして彼と共に新たな未来を創るため—私は闇の中へと進んでいく。




