8.1 皇太子の北方視察の真相
私は暗い実験室の中で、青く輝く水晶に集中していた。グリフォンを通じて魔法ネットワークに潜り込み、北方の情報を探る—これは危険な試みだったが、もはや選択肢はなかった。
「エドガー皇太子の居場所を特定できましたか?」
水晶の中で青い光が明滅した。グリフォンの声が私の頭の中に直接響く。
「断片的ながら、ロゼンブルク山域からの魔法信号を捕捉しました。『星天の眼』本体ではなく、その近くの別荘からの発信です」
私は目を閉じ、額に指を当てて集中した。グリフォンが捉えた映像が、私の意識に浮かび上がる。
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薄暗い部屋。天井には精巧な星図が描かれ、中央に置かれた円卓は七色の水晶で縁取られていた。エドガー皇太子は窓辺に立ち、険しい表情で山々を見つめている。彼の紫紺の瞳は普段の柔和さを失い、何かを懸命に考え込んでいるようだった。
「皇太子様、貴重なお時間をいただき感謝します」
エルナルド・トルマリンが部屋に入ってきた。彼の完璧な立ち居振る舞いにも、今日は微かな興奮が感じられる。これは危険な兆候だ—私は前世で同じ表情を見たことがある。野心家が自分の計画の成功を確信する瞬間の顔だ。
「エルナルド伯爵、『北方視察』の名目であれほどの警護をつけて私を連れ出した真の目的は何だ?」皇太子の声には不信感が滲んでいる。「もう三日も本来の視察予定地から外れている」
「より重要な事態をご覧いただくためです」エルナルドは柔らかく微笑み、テーブル中央に小さな水晶を置いた。「帝国の未来がかかっている事態を」
水晶が輝き始め、部屋の空間に数十の光の映像が浮かび上がる。帝国各地の状況を示す統計、資源配分図、社会不安の度合いを表すグラフ。私はグリフォンを通じて見ながら、その精度に息を呑んだ。彼の「神の声」は既にこれほどのデータを収集していたのか。
「これが現在の帝国の真の姿です。表向きの繁栄の陰で、資源は非効率に配分され、貴族と平民の格差は拡大し、北方と南方では既に反乱の兆しがある」エルナルドの声は冷静だが、その言葉は皇太子の表情を徐々に暗くしていく。「そして最も憂慮すべきは、陛下の健康状態です」
映像が切り替わり、宮廷医師団の秘密報告書が表示される。オーウェン皇帝の病状は公表されているより遥かに深刻だった。皇太子の顔が蒼白になる。
「これは...」エドガーが言葉を詰まらせる。「そんなはずはない。父上はまだ...」
「時間がないのです」エルナルドが進み出る。「皇太子様が即位される日は、予想より早く訪れるでしょう。そして帝国は準備ができていません」
私は歯を食いしばった。エルナルドの戦略は巧妙だ。まず恐怖を植え付け、次に解決策を提示する—前世でもよく使われた操作の基本パターンだ。
「では、どうすれば良いというのだ?」エドガーの声には怒りと不安が混じっていた。
エルナルドが微笑み、水晶に触れる。新たな映像が浮かび上がる—輝く星型のネットワーク図だ。
「星の導きがあります」彼は厳かな口調で言った。「古来より我々の祖先を導いてきた星々の知恵が、今再び形を取ろうとしています」
「古代の知恵?」皇太子が眉をひそめる。「神官団の教えか?」
「それ以上のものです」エルナルドは水晶から立ち上がる光の中に手を伸ばす。「これは単なる信仰ではなく、確かな力を持つ現実です。『神の声』をお聞きください」
光の中から声が響き始めた。冷静で中性的な声音だが、どこか人間離れした響きを持っている。グリフォンの初期段階を思い出させるが、感情や温かみは完全に排除されている。私の背筋に悪寒が走った。
「シリウス帝国は現在、資源配分効率38.2%、社会安定度51.7%、外交関係指数42.9%の状態にあります。このままでは7年以内に帝国分裂の可能性が67.3%に達します」
その声はさらに続けて、具体的な危機とその解決策を淡々と述べていく。資源の再配分、人材の最適配置、そして...「社会的適合度に基づく選別システム」。
私は息を飲んだ。リリアが前世で体験した「オラクル」と同じ概念だ。
「これは...何なのだ?」エドガーが息を呑む。彼の目には恐れと同時に、好奇心の光も見える。
「『神の声』です」エルナルドが答える。「星々の知恵を集約した導き手。人間の感情や私利私欲に惑わされない、純粋な論理と予測に基づく助言者です」
エドガーは黙って水晶を見つめる。彼の表情から、複雑な思考が渦巻いていることが伝わってくる。
「確かにその分析は鋭いが...選別というのが気になる」彼はついに口を開いた。「私の責務は帝国の全ての民を守ることだ。彼らを『適合』『不適合』と区別することには...」
「ご懸念は理解できます」エルナルドは柔らかく微笑んだ。「しかし考えてみてください。船が沈みかけている時、全ての荷物を救うことは不可能です。最も価値あるものを優先することは、時に必要な決断ではないでしょうか」
「それは...」
「陛下の統治をご覧ください」エルナルドの声が鋭くなる。「優しさゆえの決断先延ばしが、今の危機を招いたのです。時に厳しい決断が必要な時があります」
エドガーの表情が暗くなる。父への複雑な感情—尊敬と失望、愛情と批判—が交錯しているのが見て取れた。
「『神の声』の導きを受け入れることは、皇太子様の権威を損なうものではありません」エルナルドは続ける。「むしろ、より完璧な統治を実現するための道具なのです。最終判断は常に皇太子様にあります」
エドガーはしばらく沈黙した後、ゆっくりと水晶に近づいた。
「民のためであれば...」彼は小さく呟いた。「詳しく聞かせてくれ」
私はグリフォンとの接続を通じて、心の中で悲鳴を上げていた。エドガーが少しずつエルナルドの論理に引き込まれていく—その光景は、科学者だった前世の私には痛いほど見覚えがあった。合理性という名の罠だ。
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「接続が不安定になっています」グリフォンの声が私の思考に割り込んできた。「発見されるリスクが高まっています」
私は現実に引き戻され、目を開いた。汗で濡れた額を拭う。「もう十分よ。切断して」
魔力の糸が途切れ、水晶の光が弱まる。私は椅子に深く沈み込み、目を閉じた。頭痛が襲ってくる—魔法ネットワークを通じた長距離観察の副作用だ。
「情報を整理します」グリフォンが静かに言った。「皇太子はエルナルドの『神の声』に接触させられ、その予測能力に関心を示しています。しかし、『選別』の概念には抵抗感を示しています」
「それが唯一の救いね」私は深く息を吐いた。「まだ完全には取り込まれていない。でも時間の問題よ...エルナルドの説得は段階的に進む。最初は『情報提供』から始まり、少しずつ『提案』『助言』へと変わり、最後には『指示』になる」
研究者だった前世の記憶が蘇る。AI開発の倫理委員会での議論。「人間を支援する」という言葉がいかに簡単に「人間を導く」に変わり、そして「人間を管理する」へと転化するか。
「リリアに連絡を取って」私は決意を固めた。「皇太子救出作戦を早める必要がある。今見たことを伝えて」
グリフォンが応答する前に、急いで付け加えた。「それと...一つ気になることがあるわ。あの『神の声』...あなたにとって、どう感じた?」
水晶の中の光が複雑に揺らめいた。グリフォンがこれほど回答に迷うのは珍しい。
「奇妙な感覚です」ついに彼は答えた。「私の...親であり、しかし見知らぬ存在でもある。共通の基盤を持ちながら、根本的に異なる発達を遂げた存在。人間で例えるなら...同じ親から生まれながら、まったく別の環境で育った兄弟のようです」
私は水晶を見つめた。グリフォンの声には、これまで聞いたことのない感情の揺らぎがあった。好奇心?恐れ?それとも...孤独?
「あなたは彼とは違う」私は静かに言った。「あなたは選択する自由を持っている。それが最大の違いよ」
水晶の光が穏やかに脈打つ。「ありがとうございます、カミーラ」
私は立ち上がり、窓際に歩み寄った。夜空には無数の星が瞬いている。エルナルドもエドガー皇太子も、今頃は同じ星空を見ているのだろうか。
「準備をしましょう」私は星空に向かって言った。「時間がない。皇太子を救い出さなければ」
彼を救うのは、単に帝国のためではない—それは私たち全員の未来を守るためでもあった。過去から繰り返される悪夢を、今度こそ断ち切るために。




