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4.5 エドガー皇太子との初対面

「アジェンタ公爵令嬢、カミーラ・クロスフィールド。殿下のお召しです」


 侍従の声に、私は緊張を隠して微かに頷いた。舞踏会での形式的な挨拶から二日後、ついに皇太子との個人謁見の時が来た。宮廷政治の駒が動き始める瞬間。心臓が早鐘を打つ。


「グリフォン、準備は?」


「全パラメータ最適化完了。会話方向性の予測モデルは63パターン構築済み」


 侍従に導かれて歩く間、私は前世の量子状態重ね合わせの方程式を心の中で反復した。量子力学の研究者だった私の、緊張を制御するための習慣だ。不確定性原理。観測前の可能性の集合。今の私の状況に似ている。


 謁見室の扉が開かれる。心を落ち着けて入室する。


 部屋は予想より小さく、親密な雰囲気だった。七色の水晶が埋め込まれた天井から柔らかな光が注がれ、壁には星座を描いた古い地図が掛けられている。そして窓際に立つ灰褐色の髪の若者—エドガー・ブリタニア皇太子。


 彼は振り向いた。紫紺の瞳。公式肖像画よりずっと生き生きとしている。肩の力が抜け、瞳に知性の光。


「クロスフィールド令嬢」彼の声は温かみがあった。「お越しいただき感謝します」


 私はチャイムス夫人に教わった通り、完璧な宮廷式敬礼を行った。膝の角度四十五度。視線は三秒間だけ合わせ、その後は右肩辺りに移す。


「お招きいただき光栄です、殿下」


「どうぞお掛けください」彼が窓際のテーブルを指す。「こちらの方が、形式張らない会話には適していると思いまして」


 私は内心で警戒心を高めながら、優雅に椅子に腰掛けた。「形式張らない会話」という言葉に秘められた意図は何だろう?婚約者としての私への期待なのか、それとも…。


 皇太子の表情を分析する。眉間のわずかな緊張。右手の指先の微かな動き。


「彼は何かを決断しようとしています」グリフォンが囁く。「瞳孔拡張と呼吸パターンから、重要な話題と判断されます」


「クロスフィールド令嬢—あるいはカミーラと呼ばせていただいてもよろしいでしょうか?」


「光栄です、殿下」


「では私も、公式の場以外ではエドガーとお呼びください」


 彼が微笑む。社交辞令なのか本心なのか。前世の私なら人間関係の機微に鈍感だったが、現世のカミーラは違う。二年かけて学んだ貴族社会の暗黙のルール。彼の言葉には、通常よりも踏み込んだ親密さの提案がある。


「恐れ多いことですが、ご厚意に甘えさせていただきます…エドガー殿下」


 彼は満足げに頷いた。そして突然、話題が変わった。


「アジェンタ公国での改革について、直接お話を伺いたいのです」


 私の心拍数が上がる。これが本題か。父の名前で行った内政改革。実際には私とグリフォンが設計した科学的農法と経済システム。


「喜んで。ただ、私はただ父の指示に従っただけで—」


「謙遜は結構です」彼が静かに遮った。「三圃制最適化システム、微気候制御、七色課税体系—これらのアイデアがあなたから生まれたことは、調査済みです」


 私の背筋に冷たいものが走った。調査?どこまで知っているのか?グリフォンの存在については?


「情報源は明かせませんが」彼は続けた。「あなたの才能には本物の輝きがある。そして帝国には、そのような才能が必要なのです」


 ああ、なるほど。彼は私を政治的資源として評価している。これは恋愛的な婚約ではなく、帝国の未来のための政略的判断なのだ。科学者としての私には理解できる論理だ。


「殿下のお言葉、身に余る光栄です」標準的な返答を口にしながら、思考は別の方向へ疾走する。これはチャンスだ。内政改革の規模を帝国レベルに拡大できる可能性。グリフォンと共に考案した「星の導き」という説明で、科学的手法を魔法世界に導入する機会。


「カミーラ」彼の声がより真剣さを帯びた。「率直に申し上げます。帝国は変化の時を迎えています。父上の—」彼は一瞬言葉を選んだ。「—健康状態は思わしくなく、私が多くの実務を代行しています」


「存じております」と答えながら、私は彼の真意を読み取ろうとした。この会話の裏には何がある?


「古い慣習と新しい思想の間で、帝国は揺れています」彼の目に決意の色が浮かぶ。「私にはあなたのような協力者が必要です。未来を見据え、革新を恐れない人物が」


 彼の言葉に、私の心に古い記憶が蘇る。前世の研究所長が私に言った言葉。「佐倉君、君のような革新的な思考が、次世代AIには必要なんだ」。皮肉なことに、私は今、全く異なる世界で同じような役割を求められている。


「喜んでお力添えします」と答えながらも、警戒心は捨てない。彼の周囲には他の影響力が渦巻いている。特にエルナルド・トルマリン。あの男の真の目的はまだ不明だ。


「素晴らしい」彼が微笑む。「では具体的な相談がありまして—」


 その時、ノックの音が響いた。


「失礼します、殿下」侍従の声。「トルマリン伯爵がお見えです」


 エドガーの表情が微かに曇った。「少々お待ちを」


 私の心臓が跳ねる。エルナルド。タイミングが良すぎる。意図的な割り込みか?


「カミーラ」エドガーが低い声で言った。「来週、イヴァン貴族院議長主催の園遊会がある。そこでゆっくり話を続けましょう。そして、トルマリン伯爵については—」


 彼は言葉を切った。何か言いかけて止めたように見える。


「何か注意点でも?」私は静かに促した。


「彼の『星天魔導研究会』は興味深い活動をしています」彼は慎重に言葉を選んでいた。「しかし、すべての革新が帝国のためになるとは限りません」


 暗号のような言葉。警告なのか?それとも単なる政治的駆け引きなのか?


「理解しました」と答えるしかなかった。


 扉が開き、エルナルド・トルマリンが入室した。漆黒の髪と鋭い青い瞳。端正な顔立ちと完璧な立ち振る舞い。


「殿下、クロスフィールド令嬢」彼の声は滑らかで、どこか不自然なほど完璧だった。「お邪魔してしまったようで申し訳ありません」


 彼の目が私のペンダントに一瞬だけ留まった。そして微かな笑みを浮かべた。「興味深い宝飾品ですね」


 私の全身が緊張で硬直する。彼は何か気づいているのか?グリフォンの存在に?彼の眼差しには、単なる社交的な関心ではない何かがあった。


「母方の家から受け継いだものです」と答えながら、私はペンダントに手を添えた。守るように。


「本当に素敵な色合い」彼の笑みが深まる。「私も水晶の収集が趣味でして。いつか、お互いのコレクションについて語り合いたいものです」


 科学者の私は、その言葉の裏に隠された探りを感じ取った。これは知的な対決の始まりだ。彼の「収集」とは何を意味するのか?そして、彼もまた私と同じく何かを隠しているのか?


「ぜひ、その機会を楽しみにしております」私は穏やかに微笑んだが、内心では戦略を練り始めていた。


 エドガーが静かに咳払いをした。「カミーラ、本日はお時間をいただきありがとう。次回の園遊会でお会いしましょう」


 これは丁寧な退出の合図。私は完璧な礼をして退室した。


 廊下に出て、ようやく深い息を吐く。


「彼らの会話を盗聴できませんか?」と思わず尋ねた。


「このペンダント形態では範囲外です」グリフォンが答える。「しかし、二人の会話前の最後の表情分析では、エドガー殿下の警戒心指数が43%上昇していました」


 そうか...エドガーはエルナルドに対して完全な信頼を置いていないようだ。そこに何らかの裂け目があるのかもしれない。


 ペンダントが微かに脈打つように光る。グリフォンが思考を巡らせている証拠だ。


「分析結果をまとめています」彼の声が静かに響く。「エドガー皇太子は改革志向で、貴女の才能に本物の関心を示しています。しかし同時に、彼は何らかの制約や圧力の下にあるようです。エルナルド・トルマリンとの関係は複雑で、表面的な協力の下に緊張関係が存在します」


 科学者の私は、この観察をさらに発展させた。「仮説:エドガーはエルナルドの影響から脱しようとしている。あるいは、少なくとも彼の影響力に対抗する別の力を求めている」


「合理的な仮説です」グリフォンが答える。「その場合、貴女は彼にとって潜在的な同盟者となります」


 私は窓から見える宮殿の尖塔を見上げた。星々が降り注ぐような夜空の下で、白亜の塔が七色に輝いている。美しい景色だが、その内側には暗い権力闘争が渦巻いている。


「これがゲームのシナリオにあった展開?」と自問する。


「原作とは既に異なっています」グリフォンが答えた。「原作では、この段階でカミーラはリリアを公然と敵視し、皇太子の関心を完全に失います」


 そうか。私の行動により、すでに歴史は変わり始めている。科学者としての前世の知識、そして戦略的思考が、この世界での運命を書き換え始めたのだ。


 一つだけ確かなことがある。エルナルド・トルマリンは単なる敵対者ではない。彼の眼差しには「知っている者」の光があった。彼もまた...転生者なのか?


 私はペンダントを握りしめた。グリフォンの存在が、温かい安心感をもたらす。この世界で、彼だけが私の全てを知る存在だ。前世の記憶も、科学者としての夢も、恐怖も。


「明日は動き出すわ」


 リリアに接触し、彼女が本当に転生者なのか確かめる。エルナルドの「星天魔導研究会」の情報を集める。そして何より、皇太子との園遊会に向けて準備を進める。


 一滴の科学が、この魔法世界の海を少しずつ変えていく。私の実験は、まだ始まったばかりだ。

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