第14章 裏口
夜半を過ぎて、俺は谷を上がった。
ナルの粥を、もう一杯食べた。イスが四杯目を注ごうとして、ザザに「もう広場ではない」と言われた。敷物は片づけられていて、確かにそこは、ただの土の上だった。イスは杓子を引いた。決まりの中に戻ったらしい。
靴を履いて、紐を締めた。ハクとチィは、ナルの膝で眠っていた。ヴェイは、灯の前から戻ってこなかった。俺は誰にも挨拶をしないで、石段を上りはじめた。谷では、帰る者に挨拶をしないらしい。来た者には席を空けるが、帰る者は黙って見送る。昼に、そう見えた。
石段は、上るほうがきつい。半分を過ぎたところで、膝が一度だけ文句を言った。ブリギッテの顔を思い出して、やめた。休むことです、とアガタは言った。
最後の段の上で、一度だけ振り返った。
窪地の底の、南の壁の根元に、灯の列が細く光っていた。百三十一の火が、ここから見ると一本の線になっていた。どれが誰の灯なのかは、もう見分けられない。線は、北を向いて光っていた。
*
下町の石畳は、昼の熱をもう吐き出し終えていた。夜の石は、冷たかった。
店の前を通った。表の扉は、朝に閉めたときのままだった。閂の向こうで、店の中は暗い。
扉の板に、白墨で字が書いてあった。大きな、斜めに傾いた字だ。
『閉まってるじゃねえか』
その下に、もう少し小さな字で、別の手が書き足していた。
『だから閉まってるって言ったでしょ』
一行目はダリオだ。二行目は、たぶんリナだ。叩かせておきます、と俺は組合長に言った。叩いたうえに、書いていったらしい。
白墨の字は、明日の朝、濡れ布巾で消せば取れる。たぶん取れる。俺は扉の前を通り過ぎて、裏の路地へ回った。
中庭の木戸の掛け金を外して、中に入った。
井戸の縁に、月が映っていた。釣瓶の縄が、風もないのに少しだけ揺れていた。中庭の夜は、静かだ。厩の二階の窓は暗かった。ドゥンは、まだ谷にいるのだろう。屋根の棟にも、コルの黒い塊はなかった。
裏口の段に、椀が二つ伏せてあった。
ハクとチィの椀だ。今夜は、二人とも来なかった。祭りの夜に、裏口へスープをもらいに来る子はいない。椀は、昨夜洗って伏せたまま、乾いていた。
俺は裏口の段に腰を下ろした。
*
靴紐を、ほどいた。
石段で緩んだ紐を、一度全部ほどいて、締め直した。右を締めて、左を締めた。結び目を二重にした。
斥候だったころから、靴紐はそうして結ぶ。ほどけにくくて、走っても緩まない。走る用は、もう長いことない。それでも、結び方は変わらない。
背中のほうで、足音がした。
厩のほうからではない。中庭の入口のほうからだ。ゆっくりで、乾いていて、ときどき尻尾が地面を擦る音が混じる。
ザザだった。谷から、俺のあとを少し遅れて上がってきたらしい。祭りの日は谷へ下りるが、夜は厩で寝る。
ザザは、裏口の段の前で立ち止まった。俺の足元を見た。
「靴は、結べるのか」とザザは言った。
「結べますよ」と俺は言った。
ザザは少し考えた。瞬きが遅くなった。
「知っていた」とザザは言った。
それから、厩のほうへ歩いていった。いちばん奥の寝床へ。藁の鳴る音がして、それきり静かになった。
*
俺は、しばらく裏口の段に座っていた。
月が、中庭の西へ傾いていった。井戸の縁の月も、少しずつ縁から外れていった。
前掛けのかくしに手を入れると、革の小袋が空のまま入っていた。袋を出して、口を縛り直して、またしまった。空の袋は、何も入っていない分だけ軽かった。
夜明けの少し前に、空の色が変わった。
東の屋根の上が、白くなる。白くなる前に、一度だけ、青くなる。
城壁の上を、黒いものが一つ、北のほうへ飛んでいった。
鴉人だった。谷の壁の上で、夜通し灯を見ていたのだろう。羽を大きく打って、北門の上を越えて、まだ暗い北の空へ小さくなっていった。何を見ていたのかは、知らない。誰に何を伝えるのかも、知らない。
俺は立ち上がった。
裏口の段の椀を二つ、手に取った。今夜は使わなかった椀だ。明日の晩には、また使う。
裏口の鍵を開けて、店に入った。
カウンターの奥の柱に、錆びた釘が三本、暗がりの中で交差していた。
俺は椀を二つ、棚に伏せた。結び直した靴紐は、朝まで緩まなかった。




