第11話 姉妹、ふたたび来襲
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クライン公爵邸の客間。
ルクレツィアに「心の準備をしておいてね」と言われたロザリオは、首をかしげながら、ノアの待つ部屋へと通された。
『心の準備って、なんのこと? ノアちゃんが、こわい思いをして元気をなくしてる、とか?』
あれこれ想像しながら、扉に手をかける。
「ノアちゃーん! 会いたかっ——」
いつもの調子で両手を広げて駆け込もうとして、ロザリオはぴたりと足を止めた。
窓辺に、ひとりの少女が立っていた。
白い髪は背中まで流れ、すらりと伸びた手足。あどけなさを残しながらも、すっかり年頃の娘の姿だ。
けれど、その淡い紫の瞳はまぎれもなく、あのノアのもので。
「……え」
ロザリオの口が、ぽかんと開いた。
「ロザリオねえさま!」
少女——ノアが、ぱあっと顔を輝かせて、とととっと駆け寄ってくる。
「会いたかった! ロザリオねえさま、元気だった?」
「……え。えっ。ええーっ!?」
ロザリオの絶叫が、屋敷中に響き渡った。
「の、ノアちゃん!? ほんとに、ノアちゃんなの!? おっきい! おっきくなってる——!?」
「うん。ノア、おっきくなったの」
こてん、と首をかしげるノア。その仕草だけは、以前と何ひとつ変わらない。
「ど、どういうこと!? 姉さん、これ……っ」
「だから、心の準備を、と言ったでしょう?」
あとから入ってきたルクレツィアが、くすくすと笑う。
「あの晩から一夜にして、この姿になったの。理由は、まだ誰にもわからないのよ」
「一夜で……!? そんなこと、あるの!?」
ロザリオは、わなわなとノアの周りをぐるぐる回った。背の高さを測るように手をかざし、白い髪をそっとつまみ、丸い頬をまじまじと見つめる。
「信じられない……でも、ノアちゃんだ。目も声も笑い方も、ぜんぶノアちゃんのまま」
やがて、ロザリオの瞳が、じわっと潤んできた。
「……よかった。無事で、ほんとうによかった……っ」
あの晩、ノアが攫われたと聞いて、どれほど気を揉んだことか。会いに行くことも許されず、ただ祈ることしかできなかった。その不安が今、ようやくほどけていく。
「ロザリオねえさま、なかないで」
ノアが、おろおろと、ロザリオの頬に手を伸ばす。
「ノア、げんき。だいじょうぶだよ」
「……っ、もう、ノアちゃんってば!」
ロザリオは、ぎゅうっとノアを抱きしめた。
「可愛い……前も可愛かったけど、今もすっごく可愛いわ……! ねえ、お耳触ってもいい? ふわふわのまま?」
「うん。いいよ」
白い猫の耳に、そっと触れる。やわらかな手触りは、あの頃と何ひとつ変わっていなかった。
***
その騒ぎがまだ収まらないうちに——。
「ノアおねえちゃまの、おきゃくさま! もうひとり、おばさまが来たよ!」
次男のルカが、ぱたぱたと廊下を駆けてきた。
「邪魔するわよ」
凛とした声とともに、もう一人の来訪者が現れた。
辺境伯夫人、カティアである。旅装のまま、まっすぐにやって来たらしい。
「カティア! あなた、辺境からもう来たの!?」
「ええ。報せを受けて、すぐに発ったわ。国境の守りは、夫に任せてね」
長旅の疲れも見せず、カティアはつかつかと部屋に入る。そして、ノアの姿を見て、ぴたりと足を止めた。
しばし、無言。その姿を、頭のてっぺんからつま先まで観察する。
「……なるほど。手紙の通りね」
ロザリオのように取り乱しはしない。けれど、その瞳の奥は鋭く、何かを見極めようとしていた。
「ノアちゃん。少し、触らせてくれる?」
「うん」
カティアは、ノアの白い髪にそっと触れた。それから、その淡い紫の瞳をじっと覗き込む。
『一夜で五つも育つ。傷も、驚くほど早く癒えたと聞いた。普通の獣人には、ありえない。やっぱりこの子は——ただの白猫じゃないわね』
手紙を読んだときから抱いていた疑い。その確信が、本人を前にすると、いっそう強くなる。
けれどカティアは、それを口には出さなかった。
「カティアねえさま?」
「……ううん。なんでもないわ」
カティアは、ふっと表情をやわらげた。そして、ノアの頭をぽんぽんと撫でる。
「無事でよかった。こわい思いをしたわね。よく、がんばったわ」
「……っ、うん」
その、ぶっきらぼうだけれど温かい言葉に。ノアの瞳が、じわっと潤んだ。
「カティアねえさまも、ノアに会いに来てくれたの?」
「当たり前でしょう。家族なんだから」
さらり、と。その一言に、ノアの顔がぱあっと輝いた。
「……かぞく」
その響きを、ノアは宝物みたいに繰り返した。森を出てから、ずっと欲しかったもの。それを今、両手いっぱいに、もらっている気がした。
***
そこへ子どもたちまで加わって、客間はたちまち、にぎやかな大騒ぎになった。
「ノアおねえちゃま、おっきくなって、すごいの!」
「ロザリオおばさま、カティアおばさま、いらっしゃいませ!」
長男のテオが、ぺこりとお辞儀をする。末っ子のリナは、ノアの足にぎゅっとしがみついた。
「ノアおねえちゃま、だっこ!」
「うん。リナちゃん、おいで」
ノアがひょいとリナを抱き上げる。その光景に、ロザリオがまた、きゃあきゃあとはしゃいだ。
「ノアちゃんがリナちゃんを抱っこしてる……! もう、立派なお姉ちゃんじゃない!」
「ふふ。すっかり頼もしくなったでしょう」
ルクレツィアが目を細める。
その輪のすぐそばで、レオンはいつものように、ノアに付き添っていた。誰かがノアに触れるたび、そわそわと落ち着かない様子で。
『みんな優しくしてくれてる。けど、ノアが転んだりしないかな。疲れてないかな』
その過剰な気の配りようを見て、カティアがすっと目を細めた。
***
「……ところで、兄さん」
カティアが、ゆっくりとレオンのほうを向いた。
「ノアちゃんに、ずいぶんべったりじゃない。前から甘かったけど、今日のは度を越してるわよ」
「そ、そうかな」
「ねえ、ノアちゃん」
ロザリオが、にやにやしながらノアに尋ねる。
「最近のれおんは、どう?」
「れおん? れおんはね——」
ノアが、にっこり笑った。
「ノアの番なの。それでね、ノア、れおんのお嫁さんになるの!」
しん、と。部屋が静まり返った。
「…………は?」
「えっ、ええーっ!?」
姉妹の声が、揃った。
「に、兄さん!? プロポーズ!? いつの間に!?」
「あの鈍感な兄さんが——!? ついに自分の気持ちに気づいたの!?」
「ちょ、ちょっと、二人とも落ち着いて」
レオンがたじたじになる。けれど、その頬は隠しきれず、赤くなっていた。
「れおん、ノアに、白いお花、くれたの」
ノアが、嬉しそうに続ける。
「それでね、ひざをついて……『ノア、ぼくのお嫁さんになってください』って。かっこよかった!」
「……っ」
その無邪気な暴露に。今度は、レオンの顔が耳まで真っ赤になった。
「兄さん……っ、あの兄さんが、跪いて……!?」
「白いお花を、手に……!? まあ、まあまあまあ!」
ロザリオは、両手で頬を押さえて身悶えしている。
「ふぅん。あの兄さんが、ねえ」
カティアが、にやりと笑った。
「ねえ、兄さん。いつから、ノアちゃんのこと、女性として見てたの? 白状なさいよ」
「っ……そ、それは」
「ほらほら。言えないんだ。お顔、真っ赤よ」
「カティア、いじめないの。……でも、私も聞きたいわ」
姉妹に、左右から、にやにやと詰め寄られて。レオンは、たじたじだった。
「……うん。僕は、ノアのことが好きだ。一人の女性として。だから結婚を申し込んだ。式は、ノアがもう少し大人になってから、だけどね」
観念したように、けれどまっすぐに。レオンはそう言いきった。
その告白に、姉妹は顔を見合わせた。それから。
「……よかったわねぇ、兄さん」
ロザリオの瞳が、うるうると潤む。
「ずーっと心配してたのよ。兄さんが、誰かを好きになることなんてあるのかしらって」
「私たちを育てるのに、自分のことはずっと後回しだったものね」
カティアも、めずらしくしんみりと言った。
シュタルク家の四きょうだいは、早くに両親を亡くし、身を寄せ合って生きてきた。まだ年若かったルクレツィアが母の代わりとなり、レオンもまた、妹たちのためにと、自分のことはいつも後回しにしてきた。
その、誰よりも優しい兄が、ようやく自分の幸せを見つけた。それが妹たちには、たまらなく嬉しかったのだ。
「……もう。二人とも、大げさだよ」
レオンが照れ笑いする。
「大げさなもんですか。本当に、よかったんだから」
カティアは、ノアの手をそっと握った。
「ノアちゃん。兄さんを、よろしくね。この人、優しいけど抜けてるところがあるから。あなたが、しっかり支えてあげて」
「うん! ノア、れおんを支える!」
元気よく頷いてから、ノアは、ふと、姉妹たちを見回した。
「あのね。ノア、森で、育ったの。森の主さまや、神獣や、妖精たちが、いて。……でも、その中に、ノアのこと、きらいな子がいて。その子に、知らない世界へ、置いていかれて。それからは、ずっと、ひとりぼっちだった。闇市では、誰も、ノアを名前で呼んでくれなかった。……でも今は、ちがう。れおんがいて、みんながいて。ノア、また、かぞくができたの」
淡い紫の瞳が、きらきらと潤む。
「ノア、しあわせ。みんな、ありがとう」
その、まっすぐな言葉に。一瞬、部屋が、しんと静まり返って——。
「……っ、もう、ノアちゃんってば!」
ロザリオが、ぼろぼろ泣きながら、ノアに抱きついた。カティアも、そっと目元をぬぐう。ルクレツィアは、優しく微笑んで、皆を見守っていた。
久しぶりに家族がひとつに集まった、幸せな時間だった。
***
けれど。その和やかな空気は、長くは続かなかった。
——同じ頃。王都の、とある貴族の茶会にて。
「ねえ、聞きまして? あの騎士団長さまのお話」
扇で口元を隠した夫人が、声をひそめた。
「闇市で、幼い獣人をお買いになったとか。それがなんと、一晩で年頃の娘に化けたそうですわ」
「まあ、おそろしい。獣人の、怪しい術ですわね」
「騎士団長ともあろうお方が、そんな魔性のものに誑かされて。国を守る剣が鈍らなければ、よろしいけれど」
「ほんに。不吉な娘ですこと」
くすくす、と。扇の陰で、笑いさざめく声。
その噂はまるで、見えない手で運ばれるように。王都のあちこちへと、広がっていった。
***
そしてその余波は、騎士団にも、及んでいた。
翌日。副団長のガイルが、めずらしく硬い表情で、レオンを訪ねてきた。壮年の、レオンの右腕。団長就任前から騎士団を支えてきた、信頼の置ける男だ。
「団長。お耳に入れておきたいことが」
「ガイル。どうした」
「……団内でも、妙な噂が流れております。団長が、闇市で手に入れた獣人に、誑かされている、と。中には、本気にする若い者も、おりまして」
レオンの表情が、引き締まる。
「……そうか」
「むろん、私は信じておりません。団長の人となりは、誰より存じております。ですが——火種は、小さいうちに消しておくべきかと」
「ありがとう、ガイル。よく知らせてくれた」
レオンは、静かに、けれどはっきりと言った。
「ノアは、誰も誑かしてなんかいない。あの子は、ただ優しいだけの子だ。その誤解は、必ず僕が解く。騎士団長として、ではなく——あの子を守ると誓った、一人の男として」
その迷いのない眼差しに、ガイルは、ふっと口元をゆるめた。
「……御意。微力ながら、お支えいたします」
頼れる右腕の言葉に、レオンは深く頷いた。
***
「……噂が、広まっている」
その夜。難しい顔をした宰相ユリウスが、レオンを別室へと呼んだ。
「噂?」
「ああ。例の『騎士団長が闇市で買った幼女』の件だ。それが——『一夜にして、年頃の娘になった』とな」
レオンの表情がこわばる。
「街では、こう囁かれている。『獣人の怪しい術だ』『騎士団長は魔性のものに誑かされている』と」
「……っ」
「中には、こんな声もある。『そんな術を使う獣人なら、さぞ高く売れるだろう』とな」
「……ノアを、また狙う者が出てくる、と」
「その通りだ」
ユリウスは、苦々しく頷いた。
「噂は、人の恐れと欲を煽る。このままでは、ノアちゃんの身が危ない。お前の立場も危うくなる。最悪、騎士団長の任を解かれることも、あり得る」
「……っ」
「だが、お前の進退など些細なことだ。問題は、ノアちゃんの安全。それが、噂ひとつで脅かされる」
ユリウスは、声をいっそう低くした。
「それに、この噂の広まり方は、どうも不自然だ。火種から燃え広がるのが、速すぎる。まるで誰かが意図して、街じゅうに火をつけて回っているような」
「……妖精」
「断定はできん。だが、あの妖精なら、人の心の隙につけ込んで操り、噂を流すくらい、わけもない。剣で斬れぬなら、人の心を操ればいい。ノアちゃんを世間から孤立させ、追い詰めるためにな」
剣の届かない敵。今度は、人の心の闇を使って、静かに忍び寄ってくる。
レオンは、ぐっと拳を握りしめた。
***
その話を、姉妹たちにも伝えると——。
「だったら、私たちの出番ね」
カティアが、ぴしゃりと言った。
「噂なんてね、事実と後ろ盾で、ねじ伏せればいいのよ」
「後ろ盾?」
「いい? 私は辺境伯夫人、ロザリオは侯爵夫人、姉さんは公爵夫人。で、ノアちゃんは、その公爵家と侯爵家が、揃って迎えようとしてる娘なの」
カティアの実務派の頭が、すらすらと回る。
「『怪しい獣人』なんて噂、高位貴族が揃って可愛がってる娘に、いつまでも立つと思う? 私たちが堂々とノアちゃんを連れて社交に出れば——そんな噂のほうが、よっぽど嘘くさく見えてくるわよ」
「なるほど……! さすが、カティア」
「それに、陛下もノアちゃんを気にかけておられる」
ユリウスが頷いた。
「正式な後ろ盾を固める。そのうえで、折を見て、王家の夜会に、ノアちゃんを連れ出すのだ。『騎士団長の、大切な婚約者』としてな。隠れていては、噂には勝てん。ならば正面から、堂々と迎え入れる」
「夜会……」
レオンは、ノアのほうを見た。
ノアは、まだ幼い姿だった頃に一度、社交界に披露されている。けれど今は、あのときとは違う。すっかり娘らしくなった姿に、それをめぐる、よくない噂。きらびやかで残酷な社交界には、好奇の目も悪意の目もあるだろう。そんな場所へ再びノアを立たせることへの、ためらい。
「……ノアに、つらい思いをさせないだろうか」
「させないために、私たちがいるのよ」
ロザリオが、ぽんと胸を叩いた。
「ドレスも作法も、ぜんぶ私たちがつきっきりで教えるわ。当日だって、ずっとそばにいる。ねえ、カティア」
「ええ。ノアちゃんは、私たちが守る。あなた一人で抱え込まないこと。前にも言ったでしょう」
「ノアちゃんは、もう、私たち家族の一員よ」
ルクレツィアも、静かに、けれど芯のある声で言った。
「家族を悪く言われて、黙っている私たちじゃないわ。ねえ?」
「もちろん!」「当然よ」
妹たちの声が、揃う。
その言葉に、レオンはふっと肩の力を抜いた。
かつて自分が守ってきた、幼い妹たち。それが今は、こんなにも頼もしく、隣に立ってくれている。
「……ありがとう。二人とも」
「わかったら、さっそく準備よ。夜会までに、やることは山ほどあるんだから」
***
数日後。王城から、一通の書状が届いた。国王アルノーの名において。
そこには、こう記されていた。来たる王家主催の夜会に、シュタルク侯爵レオンと、その婚約者を、正式に招く——と。
「陛下が、わざわざ……」
レオンが、書状を見つめる。
「ああ。お前が召しを断ったときも、陛下はお怒りにならなかった。むしろ『今は番のそばにいてやれ』と、仰せだったそうだ」
ユリウスが、めずらしく口元をゆるめた。
「陛下なりの、後ろ盾だ。王家の夜会で、堂々とお前の隣に立たせれば、誰もおいそれとは手を出せん。ありがたく、お受けしろ」
「……うん。ありがとう、陛下」
レオンは、書状をそっと胸に当てた。
けれど、ユリウスだけは、わずかに思案げな顔をしていた。
『陛下は、ノアちゃんのことを、ずいぶん気にかけておられる。……あの方は、何か、知っておられるのか?』
その疑問を、ユリウスはまだ、口には出さなかった。
***
そして翌日から——ノアの「特訓」が始まった。
まずは、ドレス選び。
ロザリオが連れてきた仕立屋が、色とりどりの生地を、ノアの前に広げていく。
「ノアちゃんは、白い髪に紫の瞳でしょう? 前のお披露目のときは、淡い水色だったわよね。今度は、どんな色にする?」
ロザリオが、色とりどりの生地を広げる。けれど、ノアは、しばらく迷ってから——ぽつりと言った。
「ノア……れおんの、目の色がいい」
「え?」
「れおんの目、きれいな若草色なの。ノア、その色、着たい。……だって、ノア、れおんのお嫁さんに、なるんだもん」
その一言に、ロザリオが、きゅんと胸を押さえた。
「……っ、もう、なんて可愛いことを言うの! 決まりよ。兄さんの瞳の色のドレス!」
こうして、ドレスは、レオンの瞳を映したような、やわらかな若草色に決まった。
そして後日、それを聞いたレオンも、ふっと笑って言った。
「じゃあ、僕は、ノアの色を身につけるよ」
夜会の装いに、ノアの瞳と同じ、淡い紫のクラヴァットを合わせる。ふたりで、おそろい。互いの色を、身にまとって。
「じゃあ、決まりね! ふふ、楽しみだわ」
仮縫いのドレスに袖を通したノアは、姿見の前で、こてんと首をかしげた。
「……これ、ノア?」
「そうよ。すっごく綺麗。お姫様みたい」
ロザリオが、うっとりと言う。けれど、慣れないドレスの裾を踏みかけて、ノアはよろけた。
「わ……っ」
「ノア!」
すかさず、壁際で見守っていたレオンが、飛んでくる。
「大丈夫か。痛くないか」
「れおん、へいき。……でも、このおようふく、すこし、むずかしい」
「ふふ。少しずつ慣れていきましょうね」
ルクレツィアが、優しく微笑んだ。
次は、作法の特訓だ。カティアが、びしりと、指導役を買って出た。
「いい、ノアちゃん。お辞儀は、こう。背筋を伸ばして、ゆっくりと」
「こう……?」
「そう。上手よ。それから、人に話しかけられたら、まず微笑むの。怖くても、ね」
「ノア、笑う。……こう?」
ぎこちなく口角を上げるノアに、カティアの表情が、ふっとやわらいだ。
「……ええ。可愛いわ。それで充分」
続いて、挨拶の言葉。
「人に会ったら、こう言うのよ。『ごきげんよう』」
「……ごきげん、よう」
「そう。もう一度」
「ごきげんよう」
今度は、つかえずに言えた。発音も、ずいぶん、はっきりしてきている。
「上手……! ノアちゃん、ちゃんと言えたわ!」
ロザリオが、ぱちぱちと手を叩く。ノアは、ぴんと背筋を伸ばし、すまし顔で、もう一度お辞儀をしてみせた。
「ごきげんよう。ノア、と申します」
「まあ……! 立派なレディじゃない」
カティアも、感心したように頷いた。覚えが、驚くほど早い。公の場で恥をかかないようにと、ノアなりに、必死なのだ。
それから、食事の作法。ずらりと並んだフォークやナイフに、ノアは目を白黒させた。
「これ、ぜんぶ、つかうの……? ノア、フォーク、ひとつでいい……」
「ふふ。少しずつでいいのよ。外側から、順番にね」
ルクレツィアが、ひとつひとつ、根気よく教えていく。
すると、子どもたちまで、特訓に加わった。
「ノアおねえちゃま、ぼくがお手本!」
長男のテオが、得意げに、背筋を伸ばしてみせる。末っ子のリナも、見よう見まねで、ぺこりとお辞儀をして、ころんと転んだ。
「リナちゃん、だいじょうぶ!?」
慌てて駆け寄るノアに、部屋が、笑いに包まれる。
覚えることは、山ほどある。けれどノアは、一生懸命だった。
『ノア、がんばる。れおんの、およめさんに、なるんだもん。れおんに、はずかしい思い、させたくないの』
その健気な姿に、姉妹たちは、ますます、ノアを可愛がるのだった。
***
そして、夜会といえば——ダンスである。
広間に、楽団の調べが流れ始める。レオンが、ノアの前で、軽くお辞儀をした。
「お手をどうぞ、お嬢さん」
「……っ、えへへ」
ノアが、小さく笑って、その手に、自分の手を重ねる。
——ふと、レオンの胸に、つい先頃の記憶がよぎった。
あのお披露目を控えて、ダンスを練習したことがあった。当時のノアは、今よりずっと幼い姿で、レオンの腰のあたりまでしか背が届かなくて。仕方なく抱き上げて、くるくると回った。それはそれで楽しかったけれど『夜会では踊れない』と、笑われたものだ。
それが、あの一夜を境に。
今、目の前のノアは、レオンの手を取り、まっすぐに向き合って立っている。抱き上げなくても。背伸びをしなくても。
「……ノア。ちゃんと、手が届くようになったね」
「うん。ノア、おっきくなったから」
ノアは、嬉しそうに、はにかんだ。
『……ちゃんと手をつないで、むきあって、おどれるのかな』
いつかの夜、ノアが胸の中で願ったこと。それが今——叶おうとしていた。
「じゃあ、踊ってみようか。僕がリードするから、怖くないよ」
「うん……っ」
最初は、ぎこちなかった。足がもつれて、レオンの靴を、ちょこんと踏んでしまう。
「あ……っ、ごめんなさい」
「平気だよ。もう一度」
一、二、三。一、二、三。
レオンの手に導かれて、ゆっくりとステップを踏む。何度も、何度も。やがて——ノアの足は、自然と、調べに乗るようになっていった。
「わ……っ、ノア、おどってる……!」
「上手だよ。その調子」
くるりと優しく回ると、ノアの白い髪が、ふわりと広がる。淡い紫の瞳が、きらきらと輝いた。
もう、抱っこじゃない。足の上でもない。ちゃんと手を取り合って、向き合って。あの日、願った通りに。
「たのしい……! れおんと、こうやって踊るの、ずっと、やってみたかったの」
「……うん」
レオンの胸が、じんと熱くなる。あの小さかったノアが、こうして自分と向き合って踊れるまでに育った。それが、たまらなく嬉しくて——少しだけ、寂しくもあった。
「ねえ、れおん。ノア、夜会、がんばる。れおんの隣で、はずかしくないように」
「……ノア」
「だから、夜会、たのしみ。れおんと、こうやって、みんなの前でも、踊れるんでしょう?」
その、まっすぐな笑顔に。レオンは、目を細めた。
『……守らなきゃ。この笑顔を。何があっても』
「うん。当日は、僕がずっとエスコートする。ノアは、僕だけを見ていればいいよ」
「うん!」
見つめ合って、どちらからともなく、笑い合う。
その光景を、姉妹たちは、少し離れて、微笑ましく見守っていた。
「……あの兄さんが、ねえ」
「ふふ。すっかり、いい男の顔になって」
ロザリオが、そっと目元をぬぐう。
何度も繰り返すうちに、ノアは、もう足元を見なくても、転ばなくなった。やわらかな調べの中で、二人はいつまでも踊っていた。危なげなく。ぴたりと、息を合わせて。
***
練習で疲れたのか。夕暮れどき、ノアは、ソファに座るレオンの隣で、こっくり、こっくりと舟をこいでいた。
「ノア。眠いなら、おいで」
レオンは、そっとノアを抱き寄せて、ひょいと、自分の膝の上に乗せた。
「……れおん、あったかい」
ノアは、嬉しそうに、レオンの胸にこてんと頭を預ける。すっかり、甘えた顔だ。
レオンは、その白い髪をやさしく梳いて。それから、ノアのおでこに、ちゅ、とくちづけを落とした。
「よく、がんばったね。えらかった」
「……えへへ」
くすぐったそうに、ノアが笑う。
「……ちょっと、兄さん」
その様子を見ていたカティアが、半眼になった。
「最近、輪をかけて過保護じゃない? 四六時中、膝の上に乗せて、おでこにキスまでして」
「さっきの特訓では、あんなにお淑やかだったのにね」
ルクレツィアも、くすくすと笑う。
「家の中だと、すっかり甘えん坊さん」
「だって……れおんの、まえだもん」
ぽっと頬を染めて、ノアは、レオンにぎゅっとしがみつく。公の場では、ぴんと背筋を伸ばすのに。レオンの前でだけは、こんなにも、無防備で。
「ねえ、れおん。おでこ、もういっかい」
「……ふふ。仕方ないなあ」
ちゅ、と、もう一度。
「兄さん、デレッデレじゃない……!」
ロザリオが、両手で顔を覆って悶える。けれど、レオンは、どこ吹く風で。
『……唇は、まだ、だめだけどね』
心の中で、そっと線を引く。ノアが、ちゃんと大人になって。世界のことを、たくさん知って。それから——いつか、ちゃんと。
それまでは、この、あたたかな時間を、大切に重ねていけばいい。
「ノア。ずっと、君のそばにいるよ」
「うん。ノアも。れおんの、そばにいる」
ふたりは、夕暮れの光の中で、ぴたりと寄り添っていた。
***
その夜。
ノアは、寝台の中で、レオンの手を握りながら、ぽつりと尋ねた。
「……れおん。きのう、みんな、こまった顔してた。ノアの、せい?」
「……っ」
やはり、ノアは敏い。
「ノアのせいじゃ、ないよ」
レオンは、その白い髪を撫でた。
「ただ、ノアのことをよく知らないで、悪く言う人が、少しだけいるんだ。でも、心配いらない。僕も、家族のみんなも、ノアの味方だから」
「……うん」
ノアは、こくんと頷いて、それから少し不安そうに続けた。
「ノア……ちゃんと、できるかな。れおんの、となりに、いても、いいのかな」
「ノア」
レオンは、優しく、けれどはっきりと言った。
「ノアは、僕の隣にいていい。ううん、ノアじゃなきゃ、だめなんだ。どんなノアでも、僕は大好きだよ」
「……っ、れおん」
ノアが、ぎゅっとレオンの手を握り返す。
その瞬間——ノアの瞳の奥に、また、あの銀色の光が、ほんの一瞬よぎった。まるで、ノアの揺れる心に呼応するように。
『この力は、やっぱり感情に反応してる。ノアの本当の姿。それを世界が知ったとき、いったい何が起こるんだろう』
レオンは、眠りにつくノアの寝顔を見つめた。あどけない、けれどどこか神秘的な、寝顔を。
『何があっても。僕が、君を守るから』
数日後に迫った、夜会。娘として、婚約者として人前に立つ——ノアにとっては、いわば初めての戦場になる。好奇の目に、悪意の囁き。そして、どこかに潜む、見えない敵。
『でも、ノアは一人じゃない。僕も、家族も、みんながいる』
レオンは、静かに覚悟を決めた。
『あの子の笑顔を、誰にも曇らせはしない』
きらびやかな社交界の、檜舞台へ。
けれど、その華やかな場所こそ——忍び寄る悪意が、牙を研いで待つ場所でもあった。
——第11話 了
【あとがき おまけSS 〜兄さんって、人間よね?〜】
夜も更けた、クライン公爵邸の一室。
ロザリオとカティアが、紅茶を片手に、こそこそと、顔を寄せ合っていた。
「ねえ、カティア。……ちょっと、聞いていい?」
「なによ、改まって」
「兄さんって……人間、よね?」
「は?」
カティアが、思わず、紅茶を吹きそうになった。
「何を、当たり前のこと言ってるの」
「だって。最近の兄さんの溺愛っぷり、見てたら……なんだか、獣人みたいじゃない? 番に、夢中な」
「……」
「人間が、あんなに溺愛する? 四六時中べったりで、膝に乗せて、おでこにキスして。獣人ならともかく、人間にしては、度を越してると思わない?」
「……まあ、確かに」
カティアが、腕を組んで、唸った。
「言われてみれば、ちょっと、普通じゃないわね。そうよね……人間、よね?」
「でしょう?」
ふたりは、しばし、考え込む。
「……あ。でも、待って」
ふいに、カティアが、声をひそめた。
「よく考えたら。兄さん、神獣を、従えてるじゃない」
「……あ」
「それも、二匹。ゼルと、シャル」
「しかも……なんだか、会話してるみたいなのよね。ことばじゃなくて、こう、頭の中で」
「テレパシー、ってやつ?」
ロザリオの顔が、だんだん、真剣になっていく。
「……ふつう、人間が、神獣と、話せる?」
「……話せ、ないわよね。ふつう」
しん、と、沈黙が落ちた。
ふたりは、顔を見合わせて——同時に、ごくり、と唾を飲んだ。
「……人間、よね? 兄さん」
「……人間、よ。たぶん」
「たぶん、って何よ」
「だって、あなたが変なこと言うから……!」
ぎゃあぎゃあと、小声で言い合う。けれど、ふと、ロザリオが、思いついたように、付け加えた。
「ねえ。これで、もし。兄さんが、伝説の剣とか、使えちゃったら……」
「……」
「……絶対、人間じゃ、ないわよね」
「……」
カティアが、ゆっくりと、頷いた。
「……まさか」
「……まさか、ねえ」
ふたりは、しばらく、無言で——それから、ぷっと、噴き出した。
「あはは、何よそれ。兄さんが、伝説の剣だなんて」
「ないない。あの、恋愛にだけは鈍感な、ただの溺愛ばかよ」
「ふふっ、それもそうね」
笑い合って、ふたりは、紅茶を、すする。
——けれど。
なぜだろう。
その「まさか」が、妙に、胸の奥に、引っかかって。
ふたりは、そろって、小首を、かしげたのだった。




