第10話 一輪の白い花と、誓い
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ノアが攫われ、そして取り戻された、その翌朝。
朝の光が、カーテンの隙間から差し込んでいた。
ノアは、ゆっくりと目を覚ました。
やわらかな寝台。嗅ぎ慣れた、屋敷の匂い。あの暗い馬車でも、こわい場所でもない。ちゃんと、帰ってこられたのだ。
寝返りを打とうとして——すぐそばに、人の気配を感じて、ノアは動きを止めた。
寝台の脇。椅子に腰かけたまま、レオンが、眠っていた。
ノアの手を、両手でそっと包んだまま。机に突っ伏すように、こくり、こくりと。
『……れおん』
きっと、ひと晩中、ここにいてくれたのだ。ノアが、また怖い夢を見ないように。目を覚ましたとき、ひとりにならないように。
ノアの胸が、じんわりと、あたたかくなる。
起こさないように、そっと握り返して——ふと、ノアは、自分の手に違和感を覚えた。
『……あれ?』
寝間着の袖から伸びた手が、なんだか、長い。指も、すらりとしている。肩を越えて流れる髪も、前より、ずっと長い。
『……のびてる』
ノアは、こわごわ、自分の頬や髪に触れてみた。なんだか、知らない自分になってしまったみたいで——少し、こわい。
『ノア、変になっちゃったのかな。れおん、おどろくかな』
不安が、胸をよぎる。けれど、握ったレオンの手の温もりが、その不安を、そっとなだめてくれた。
「……ん……」
レオンが、小さく身じろぎした。
「……ノア……?」
まぶたを開けたレオンは、ノアが目を覚ましているのを見て——一瞬で、ぱっと顔を上げた。
「ノア! 起きたのか。気分は? どこか痛いところは? 喉は渇いてない? 寒くない?」
「……れおん、おはよう」
矢継ぎ早の問いに、ノアは、くすっと笑った。
「ノア、平気。れおんが、ずっとそばにいてくれたから」
「……っ」
レオンは、ほっと息をついて——それから、ノアの顔を、まじまじと見た。
『……っ』
朝の光の中の、ノア。背が伸びて、髪も長くなって、すっかり、若い娘のようで。
『……き、きれいだ』
不意にそう思って、レオンは、かあっと頬を熱くした。
「……れおん」
ノアが、不安そうに、レオンを見上げた。
「ノア、変じゃない? 急に、大きくなっちゃった。れおん、ノアのこと……嫌いにならない?」
その問いに、レオンの胸が、ぎゅっと締めつけられた。ゆうべ、妖精が言った言葉がよぎる。「あの男が、本当のあなたを見て、どんな顔をするか」と。
ノアも、こわいのだ。自分が変わってしまったことが。レオンに、嫌われてしまうかもしれないことが。
レオンは、少しかがんで、ノアと目線を合わせた。
「変じゃないよ。すごく、よく似合ってる。それに——ノアが、どんな姿になっても、僕の気持ちは変わらない」
「……本当?」
「うん。ノアは、ノアだ。大きくなっても、小さくても。僕にとって、大事なノアだよ」
「……っ、れおん」
ノアの瞳に、じわっと涙がにじむ。
「うれしい……ノア、すごくうれしい……っ」
ぎゅう、と抱きついてくるノアを、レオンは、そっと抱きとめた。
『……大事な、なんて。本当は、もっと特別なんだ』
その想いを伝えるのは、もう少し、あとで。
***
その日から——レオンの「溺愛」が、始まった。
いや、もとから、ノアには甘かった。けれど、ゆうべの誘拐が、レオンを変えてしまった。
片時も、ノアのそばを離れない。ノアが部屋を移れば、影のように付き添い。ノアがうとうとすれば、起きるまで、ずっと見守っている。
着替えのときには、小さくなった服の代わりに、ルクレツィアが新しいドレスを用意してくれた。淡い水色の、年頃の娘のための一着。袖を通したノアは、まるで、絵物語のお姫様のようで。
「れおん、見て! 新しいお洋服だよ」
くるりと回ってみせるノアに、レオンは、また見惚れてしまった。
「……うん。すごく、似合ってる」
そして、朝食の席。
ノアが、大きくなった身体で、けれど、いつも通りフォークをぎこちなく握っていると——。
「ノア。はい、あーん」
レオンが、フォークに刺したオムレツを、ノアの口元へ差し出した。
「……あーん」
ノアが、ぱくり、と口に入れる。
「おいしい?」
「うん! おいしい」
「よかった。じゃあ、次は、こっちのスープを——」
甲斐甲斐しく世話を焼くレオンに、食卓を囲む面々が、ぴたりと固まった。
「……おじさま。ノアさんは、もう、ご自分で召し上がれるのでは」
長男のテオが、おずおずと口を挟む。
「いいんだ。ノアは、まだ本調子じゃないからね」
「ノアおねえちゃま、ぜんぜん元気そう……」
ルカが、ぽつり。
当のノアは、というと——されるがままに、ぱくぱくと食べて、幸せそうに頬をゆるめている。
「れおんの、あーん。おいしい」
「ふふ。たくさん食べて、元気になろうね」
「うん!」
ノアが、にこにこと頷くと、レオンの目元も、とろけるようにやわらかくなる。
そのやりとりに、ルカとテオが、顔を見合わせた。
「……おじさま。なんだか、お顔がにやけてます」
「そ、そんなことないよ」
ルクレツィアは、ティーカップを手にしたまま、にこにこと、けれど、どこか引きつった笑みで、その様子を見ていた。
***
昼前。宰相ユリウスが、屋敷を訪れた。
本来、レオンが城へ上がるべきところ。けれど、レオンが頑として屋敷を動かないので、ユリウスのほうが来るしかなかったのだ。
「レオン。陛下が、お呼びだ」
「行かない」
即答だった。
「……は?」
ユリウスの片眉が、ぴくりと跳ねた。
「もう一度、言うぞ。陛下が、直々に、お前を呼んでおられる。昨夜の件の報告と、今後の相談だ」
「行かない。報告は、書面で送る。相談も、ここへ来てくれれば、いくらでも応じる」
「お前——騎士団長が、陛下の召しを、断るのか」
「断る。僕は、ノアのそばを離れない」
レオンの声は、穏やかで、けれど、一歩も引かなかった。
「ゆうべ、僕が城に呼び出されて、屋敷を離れた、その隙に。ノアは、攫われた。——もう二度と、同じことはさせない。たとえ、相手が陛下でも」
「……っ」
ユリウスが、額を押さえる。
その隣で——ノアの顔が、さっと青ざめていた。
「れおん……お城、いくの……?」
ノアの手が、きゅっと、レオンの袖を握りしめる。ゆうべの恐怖が、よみがえったのだ。
「行かないよ」
レオンは、その手を、両手でそっと包んだ。
「ずっと、ここにいる。約束する」
「……っ、うん」
ノアの強ばった肩から、ふっと力が抜ける。
その様子を見て、ユリウスは、深いため息をついた。
「……わかった。陛下には、俺からうまく伝えておく。『騎士団長は、番のそばを離れられぬほど、心を砕いております』とでもな」
「ありがとう、ユリウス」
「礼はいい。——だが、これだけは言わせろ」
ユリウスは、じとっと、レオンを見た。
「お前、変わったな。前は、もう少し分別があった気がするが」
「……そうかな」
「ノアちゃんのことになると、見境がなくなる。……まあ、いい。惚れた弱みだ」
それから、ユリウスは、声を低くした。
「本題だ。ハインツは、結局、捕らえられなかった。操られた痕跡は、きれいに消えていた。陛下が、ひそかに見張らせている。だが、黒幕の妖精には、手が届かん」
「……っ」
「それに、ノアちゃんの姿の変化だ。早晩、外に漏れる。『闇市で買われた幼女が、一晩で娘になった』——面白がる連中は、いくらでも尾ひれをつける」
「……ノアは、何も悪くないのに」
「わかっている。だから、後ろ盾を固める。シュタルク侯爵家と、クライン公爵家。陛下の名も、借りられるなら借りる。噂で潰される前に、あの子の立場を引き上げる」
「……ありがとう」
「礼は、ノアちゃんを、本当に幸せにしてから聞く。——せいぜい、励め」
ユリウスは、肩をすくめて、帰っていった。
***
ユリウスを見送ったあと。
ノアは、レオンの服の裾を、きゅっと握ったまま、こてんと首をかしげた。
「れおん。陛下って、いちばん、えらい人、でしょう?」
「うん。そうだね」
「その人のお願いより……ノアのこと、えらんでくれたの?」
その問いに、レオンは、ふっと笑って、ノアの頭を撫でた。
「うん。僕にとっては、ノアが、いちばん大事だからね」
「……っ」
ノアの淡い紫の瞳が、じわっと潤む。
「ノア……れおんに、そんなに大事にしてもらって、いいのかな」
「いいんだよ。むしろ、もっと、大事にさせてほしいくらいだ」
レオンは、ノアの手を、両手でそっと包んだ。
「ノアは、もう、ひとりじゃない。僕が、ずっとそばにいる。だから——もう、こわがらなくて、いいんだよ」
「……うん。うん……っ」
ノアは、こくこくと頷いて、レオンの胸に顔をうずめた。
その少し大きくなった背中を、レオンは、いつまでも撫で続けた。
***
その後も——何日経っても、レオンの溺愛は、留まるところを知らなかった。
ノアが昼寝をすれば、寝顔を見守り、毛布をかけ直す。ノアが少し咳をしただけで、医師を呼ぼうとする。ノアが「お庭、見たい」と言えば、自ら手を引いて付き添う。
伸びた髪を、ノアがもてあましていると、レオンは櫛を手に取って、その白い髪を、丁寧に梳いてやった。
「れおん、じょうず」
「そう? 昔、妹たちの髪も、よく結ってあげたんだ」
さらさらと、櫛が通るたび、ノアは、気持ちよさそうに目を細める。撫でられている猫みたいに。レオンは、その横顔を見て、また、目元をゆるめた。
あんまり構われるので、ノアは、不思議そうに首をかしげた。
「れおん。ノアのこと、ずっと見てて、疲れない?」
「疲れないよ。ノアを見てると、僕は、安心するんだ」
「……えへへ。ノア、れおんといると、あったかい」
ふにゃ、と笑うノアに、レオンの胸が、また、きゅうっとなった。
『……可愛い。可愛すぎる』
ゆうべまで、生きた心地もしなかったのが、嘘みたいだ。ノアが、こうして笑ってくれている。それだけで、世界が、まるごと報われた気がした。
湯浴みのときばかりは、さすがに扉の外で待った。けれど、その扉の前から、一歩も動かなかった。
とうとう、ルクレツィアが、呆れた。
「ねえ、レオン」
「うん?」
「あなた、少し、過保護が過ぎるんじゃない?」
「そうかな。僕は、当然のことをしているだけだよ」
「……はぁ」
ルクレツィアは、額に手を当てて、ため息をついた。普段、誰より弟妹に甘い彼女ですら、これにはお手上げだった。
「ノアちゃんが、息を詰まらせないか、心配だわ。少しは、ひとりの時間も、あげなさいな」
「でも、姉さん。ノアをひとりにして、また何かあったら」
「ゼルとシャルも、護衛も、私たちもいるのよ。あなた一人で、抱え込まないの」
「……うん。わかってはいるんだけど」
レオンは、ばつが悪そうに頬をかいた。けれど、その視線は、やっぱり、ノアを追っている。
ルクレツィアは、もう一度、深々とため息をついた。
『……これは、重症ね』
けれど、その口元は、どこか嬉しそうに緩んでいた。
『あの、恋に鈍感だったレオンが。やっと、本気で誰かを想えるように、なったのね』
***
昼下がり。
ノアの部屋には、子どもたちが集まって、にぎやかだった。レオンは——もちろん、その輪のすぐそばで、ノアを見守っている。
「ノアおねえちゃま、たかいたかい、して!」
末っ子のリナが、ノアに両手を伸ばす。
「たかいたかい、するの?」
「うん! おねえちゃま、おっきいから、できるよ!」
ノアは、おそるおそる、リナを抱き上げてみた。前の小さな身体では、とても無理だったこと。けれど今の腕なら、ぷくぷくのリナを、ちゃんと抱き上げられる。
「わ……ノア、リナちゃんを持ち上げられた!」
「きゃー! たかーい!」
リナが、きゃっきゃとはしゃぐ。ノアの顔が、ぱあっと輝いた。
「ノア、ちゃんとお姉ちゃんできた……!」
その様子を見ていたレオンは、ふと、胸の奥が温かくなって——そして、ほんの少しだけ、切なくなった。
『……ノアが、誰かを抱き上げられるように、なった』
ほんの昨日まで、抱き上げられるのは、ノアのほうだったのに。守られるだけだった小さなノアが、今は、もっと小さな子を、守ろうとしている。
『……君は、ちゃんと、大きくなってる』
嬉しいような、寂しいような。けれど、それも含めて愛おしいと、レオンは思った。
「ぼくも、たかいたかい!」
ルカが、ぴょんと跳ねて、ノアに飛びつこうとする。
「あ、危ない。ノア、無理はしないで」
すかさず、レオンが、間に入った。
「……おじさま。さすがに、過保護です」
テオの、呆れたような声に——部屋が、笑いに包まれた。
***
そうして、幾日かが過ぎた。
はじめのうち、ノアは、夜になると、よくうなされた。誘拐の恐怖が、夢になって襲ってくるのだ。けれど、そのたびにレオンが手を握り、「大丈夫。僕がいる」と囁くと、ノアは、また安心して眠りについた。
日中も、レオンが少しでも離れると、不安そうに、その姿を探した。けれど、何日も経つうちに——ノアの瞳から、少しずつ、怯えの色が消えていった。
よく笑い、よく食べ、よく眠る。子どもたちと庭を駆け回り、伸びた手足にも、すっかり慣れた。レオンの溺愛は相変わらずだったが、ノアは、それを、心から嬉しそうに受け止めている。
傷が癒えていくたび、ノアの笑顔は、日ごとに、やわらかく、輝きを増していった。
そして、ある日の午後。よく晴れた、暖かな庭。
ノアは、花壇のそばに座って、咲き誇る花を、嬉しそうに眺めていた。その隣に、レオンも腰を下ろす。もちろん、ぴったりと。
「ねえ、れおん」
「うん?」
「れおん、このごろ、ずっとノアのこと、見てる」
「……っ」
「優しいけど、なんだか、前と違う目。……ノア、わかるもん」
『……鋭いな』
レオンは、苦笑した。子供のように見えて、ノアは時々、はっとするほど敏い。
「……ノアは、いやかな。僕が、ノアのことを、前よりもっと、大事に思っても」
「いやじゃないよ」
ノアは、即答した。
「ノアも、れおんのことが大好き。ロザリオさまが教えてくれたの。これが『恋』なんだって」
「……っ」
今度は、レオンが言葉を失う番だった。ロザリオが、ノアに恋を教えていたとは。
「れおんのこと考えると、ここが、ぽかぽかするの」
ノアは、自分の胸に、手を当てた。
「れおんが笑うと、ノアも、うれしい。れおんがいなくなると、こわい。ずっと、ずっと、一緒にいたい。……これ、ぜんぶ、恋なんだって」
まっすぐすぎる言葉に、レオンの胸が、撃ち抜かれる。
「ノアの恋、ぜんぶ、れおんにあげる」
ノアが、にっこりと笑った。屈託のない、まっすぐな笑顔で。
その瞬間、ノアの淡い紫の瞳の奥に、ほんの一瞬、銀色の光が、きらりと瞬いた。まるで、嬉しさに応えるように。
『……っ』
レオンが、それに気づいて目を見張る。けれど光は、すぐに消えた。ノアは何も気づかず、嬉しそうに笑っている。
『ノアの中の力は、感情に反応している……。この力の本当の意味。ノアの、本当の姿。いつか必ず、わかる日が来る』
『——そのとき僕は、どんなノアでも、受け止めてみせる』
レオンの胸の奥で、何かが決まった。
ごまかすのは、もう、やめだ。
レオンは、すっと立ち上がった。そして、花壇に咲く一輪の白い花を、そっと手折る。ノアの白い髪と、同じ色の花だった。
ノアの前に進み出ると——騎士が主君に誓いを立てるときのように、片膝をついた。そして、その花を、両手で、ノアに差し出す。
「ノア」
いつものおどけた調子は、なかった。ヘーゼルの瞳が、まっすぐにノアを見つめている。
「僕は、君が好きだ。守りたいから、じゃない。妹みたいに思っているから、でもない。一人の女性として——ノアのことが、好きなんだ」
「……れおん」
「どうか、僕と、結婚してほしい。僕の、お嫁さんに、なってください」
差し出された白い花が、陽の光に、やわらかく揺れた。
「結婚……?」
ノアが、こてんと首をかしげた。
「お嫁さんは、陛下から聞いたから、知ってるよ。れおんと、ずっと一緒にいること、でしょう? ……でも、結婚って、何?」
その問いに、レオンは、ふっと優しく笑った。やはり、ノアは、まだわかっていない。『お嫁さん』という言葉は知っていても、それが『結婚』と同じものだとは、気づいていないのだ。
「うん。お嫁さんになるっていうのは、結婚すること、なんだ。結婚っていうのはね、好きな人と、家族になること。ただ一緒にいるだけじゃなくて、嬉しいことも、つらいことも、二人で分け合う。おじいさんと、おばあさんになるまで、ずっと、君の隣にいる。それが、結婚——お嫁さんに、なるってことだよ」
「……ずっと一緒。れおんと、家族になるってこと」
ノアの淡い紫の瞳が、じわっと潤んでいく。
「うん。ノアが、僕のお嫁さんに、なってくれること」
「……っ、うれしい……っ」
ノアは、震える手で、その白い花を受け取った。そして、胸にぎゅっと抱きしめる。
「ノア、れおんのお嫁さんになりたい……!」
レオンは、立ち上がり、ノアを、そっと抱きしめた。胸に抱いた白い花が、ふたりの間で、やわらかく香る。
『……夢みたいだ』
ほんの数日前まで、闇市の檻の中にいた、小さな獣人の女の子。その子が今、自分の腕の中で、お嫁さんになりたいと、泣いて笑っている。
守れなかった夜の悔しさも、剣の届かない敵への無力感も。今だけは、この温もりが、全部、溶かしてくれる気がした。
「……ありがとう、ノア。でも——本当の式は、もう少し、先にしよう」
「……どうして? ノアの気持ち、変わらないよ。だって、れおんは、ノアの番だもん」
まっすぐな言葉に、レオンの胸が、じんと熱くなった。
「……うん。わかってる。ノアの気持ちが変わらないことは。僕の気持ちも、同じだよ。番だからね」
レオンは、ノアの頬を、そっと撫でた。
「式を先にするのは、ノアの心を疑ってるからじゃないんだ。ただ、ノアには、これから知ってほしいことが、たくさんある。世界のことも、自分のことも。誰にも『まだ早い』なんて言わせないくらい、ノアが、ちゃんと大人になってから——そのとき、胸を張って、二人で誓いを立てよう」
「うん……! ノア、いっぱい大人になる。れおんと、ちゃんと結婚するために!」
ノアの、まっすぐな決意に、レオンは思わず笑った。
「うん。一緒に、ゆっくり、大人になっていこう」
白い花を抱いたノアの笑顔が、午後の陽だまりに、咲いていた。
***
夕暮れ。
ノアが、ルクレツィアと子どもたちと一緒に、湯浴みに行っている間。ゼルとシャルは、誰もいない部屋で、二匹きりになっていた。
《ねえ、シャル》
ゼルが、ぽつりと言った。
《ノアちゃん、ほんとに、だいじょうぶなのかな。あんなに急に、おっきくなって》
《身体は、なんともないよ》
シャルが、窓の外の夕日を見ながら、静かに答える。
《むしろ、力がすこし戻っただけ。ノアちゃんは、本当はもっと、強い子なんだ》
《……強い子?》
《うん。ぼくが、はじめてノアちゃんに会ったとき、言ったでしょ。すごく強い力を感じる、って》
ゼルが、こくこくと頷く。あの、闇オークションの夜のことだ。
《あの力。神獣のぼくたちでも、ちょっとぞくっとするくらいの。あれが、ノアちゃんの中に、ずっと眠ってた》
《どうして、ノアちゃん、そんな力、もってるの?》
《……それは、ぼくにも、はっきりとは、わからない》
シャルの黒い瞳が、細められた。
《でも、ひとつだけ、確かなことがある。ノアちゃんを育てたのは、神獣の森の主。人でも獣人でも生きられない場所で、ノアちゃんだけは、生きられた。それは、ノアちゃんが、ただの白猫の獣人じゃない、ってことだ》
《……森の主に、きけば、わかる?》
《むり。森には、もう近づけない。神気が濃すぎて、ぼくたちでも、奥までは入れないからね》
シャルは、ふっと息をついた。
《それに、これは、ぼくたちが暴いていいことじゃない。ノアちゃんが、自分の口で思い出して、話す。そのときまで、ぼくたちは、ただ、そばで守るだけ》
《……うん。ぼく、守る。もう、守れなかった、なんて、いやだ》
ゼルの瞳に、ゆうべの悔しさがにじむ。
《今度こそ、ノアちゃんを、守るんだ》
《うん。ぼくも》
二匹は、夕日に染まる窓辺で、静かに寄り添っていた。
***
夜。
寝支度を整えたノアを、レオンは、寝台まで送った。
「れおん。今日も、いっぱい、ありがとう」
「お礼なんて、いいんだよ。ノアが笑ってくれるなら、僕は、それだけで」
ノアは、毛布の中から、ちょこんと手を伸ばして、レオンの指を、きゅっと握った。
「……れおん。今夜も、そばにいてくれる?」
「もちろん。ずっと、ここにいるよ。ノアが眠るまで——ううん、朝、目を覚ますまで、ずっと」
「えへへ。……うれしい」
ノアは、安心しきった顔で、目を閉じた。ほどなく、すうすうと、寝息が聞こえてくる。
その寝台の脇に、レオンは椅子を寄せて座った。今夜も、そばを離れるつもりは、なかった。
ノアの寝顔は、すっかり娘のものになっていた。けれど、ぬいぐるみをぎゅっと抱きしめて眠る姿は、やっぱり、いつものノアで。
『……変わったのは、見た目だけだ』
レオンは、そっと、ノアの白い髪を撫でた。
——その頃。ノアは、夢を見ていた。
深い、緑の森。やわらかな、光。
『……ここ、知ってる』
もっと幼い頃の、ノア。大きな、あたたかい影が、ノアを見下ろしている。森の、主。その姿は、夢の中でも、ぼんやりとして、はっきりしない。けれど、その温もりだけは、確かに覚えていた。
『……ノアを、拾ってくれた』
『おまえは、この森の、大切な子』
影の声がした。低く、やさしく、大地が響くような声。
『どこへ行っても、おまえは、おまえだ。……いつか、思い出す日が来る』
『思い出す……? なにを……?』
幼いノアには、その言葉の意味は、わからなかった。ただ、その腕の中は、どこまでも、あたたかくて。
けれど、その光の片隅に——冷たい視線。
『お前なんか、いなくなればいい』
美しい、妖精の声。
『お前さえ、来なければ』
「……っ」
ノアが、寝台の中で、小さく身じろぎした。眉が、ぎゅっと寄せられる。
「……いや……」
「ノア」
レオンが、すぐに、その手を握った。
「大丈夫。夢だよ。僕がいる」
その声に。ノアの強ばった寝顔が、ゆっくりとほどけていく。
「……れおん」
眠ったまま、ノアの唇が、その名を呼ぶ。そして、握られた手を、ぎゅっと握り返した。
「……ここに、いるよ」
レオンは、ノアの手を、両手で包んだ。
『君が、どこから来たのか。何者なのか。きっと、その夢の中に、答えがある』
『でも、今は、いい。君が、安心して眠れるなら、それで』
窓の外には、ゆうべとは打って変わった、静かな夜空。無数の星が、瞬いていた。
嵐は去った。けれど、ノアを巡る本当の謎は、まだ始まったばかりだった。
***
その頃、王都。
ベルリオーズ侯爵家に嫁いだロザリオは——届いたばかりの手紙を前に、固まっていた。
あの事件のことは、聞かされていた。ノアが攫われ、無事に取り戻されたこと。そして、姉のルクレツィアが、その際に怪我を負ったこと。
ただ、知らせを受けたとき、こう言われていたのだ。「大した怪我じゃないから、心配いらない」と。だからロザリオは、すぐにでも駆けつけたい気持ちをこらえて、屋敷が落ち着くまで、待っていた。
けれど——ようやく届いた、姉からの手紙。そこに記された、当時の様子を読んで、ロザリオは、さっと青ざめた。
「……っ、これ、『大したことない』怪我じゃ、ないじゃない!」
ノアを庇って、賊に斬りつけられた。数針を縫う、深い傷だったのだ。
「なんで……っ、なんで、黙ってたのよ、お姉様……!」
いてもたってもいられず、ロザリオは馬車を呼びつけ、その日のうちに、クライン公爵邸へと駆けつけた。
***
「お姉様ーっ!」
飛び込んできた妹に、ルクレツィアは、目を丸くした。
「あら、ロザリオ。来てくれたの」
「『来てくれたの』じゃ、ないわよ!」
ロザリオは、姉に詰め寄った。
「怪我、大したことないって言ったじゃない! なのに、数針も縫ったって、どういうことなの!? なんで、ちゃんと教えてくれなかったの!」
「……ふふ。心配を、かけたくなかったのよ」
ルクレツィアは、困ったように、けれど優しく微笑む。
「それに、あなたが無茶をして駆けつけたら、それこそ大変でしょう?」
「っ……もう! お姉様は、いつもそう!」
ロザリオの瞳に、じわっと涙がにじむ。
「昔から、ずーっとそう。お父様とお母様が早くに亡くなって……まだ子どもだったお姉様が、私たちを育ててくれた。自分のことは、いつも後回しで。どんなに大変でも、弱音ひとつ、漏らさないで」
「ロザリオ……」
「兄さんのことも、私のことも、カティアのことも。ぜんぶ、お姉様が守ってくれた。……今度だって、そう。自分が怪我したことより、ノアちゃんや、私たちの心配ばっかり」
ぽろぽろと、涙がこぼれ落ちる。
「もっと、頼ってよ。私たちは、もう、子どもじゃないんだから。お姉様の痛みくらい、ちゃんと、分けてほしいの……っ」
「……」
ルクレツィアは、少しだけ目を見開いて——それから、ふっと、表情をやわらげた。
「……そうね。ごめんなさい。あなたたちを、いつまでも、小さな子だと思っていたのかもしれないわ」
そっと、妹を抱き寄せる。
「立派になったわね、ロザリオ。……ありがとう。次は、ちゃんと、頼らせてもらうわ」
「……っ、うん。うん……!」
その温もりに、ロザリオは、ようやく、ほっと肩の力を抜いた。
「……それで、お姉様。ノアちゃんは? あの子も、こわい思いをしたでしょう。顔を見せて」
「ええ、もちろん。……ただ、ロザリオ。会う前に、ひとつだけ——心の準備を、しておいてね」
「……? 心の準備って、何?」
きょとんとする、ロザリオ。
ノアの身に起きた、あの不思議な変化を、彼女が目にするのは——もう少し、あとのこと。
***
一方、辺境伯領。
カティアもまた、あの事件のことは、とうに知っていた。
すぐにでも、王都へ駆けつけたかった。けれど——辺境伯領は、王都から、あまりにも遠い。国境を守る領地のこと、当主の妻として、おいそれと家を空けるわけにも、いかなかった。
「……お姉様も、ノアちゃんも、本当に無事なの? 兄さんは、ちゃんとそばにいてあげてるのかしら」
報せを受けてからずっと、カティアの胸には、モヤモヤとした、落ち着かない思いが、わだかまっていた。
心配で、たまらない。それなのに、駆けつけられない。その、もどかしさ。
そんなとき、姉からの手紙が届いた。皆が無事に落ち着いたこと。そして——ノアが、一晩で、見た目が五つも育った、という、信じがたい一文。
「……一晩で、ですって?」
カティアは、眉を寄せて、手紙を読み返す。
「ありえないわ、普通の獣人なら。……ノアちゃん、やっぱり、ただの白猫じゃないわね」
実務派のカティアは、冷静に状況を分析する。けれど、その手は、もう、旅支度のことを考え始めていた。
「今度こそ、必ず行くわ。……この目で、確かめなきゃ」
カティアは、立ち上がった。
「ノアちゃんも、お姉様も。それに——あの鈍感な兄さんが、いいかげん、自分の気持ちに気づいたかどうかも、ね」
ヴァルトヘルツの三姉妹が、近いうちに、また、ノアのもとへ集結する。それは、また、にぎやかな嵐の予感だった。
——第10話 了
【あとがき おまけSS 〜陛下、首をかしげる〜】
王城、執務の間。
国王アルノーは、宰相ユリウスからの報告に——きょとんと、首をかしげた。
「……つまり、何か。レオンは、私の召しを、断った、と?」
「は。『ノアのそばを離れない。たとえ相手が陛下でも』と」
「ほう」
アルノーは、顎に手を当てた。普段の、どこか抜けた顔で。
「あの、忠義に厚いレオンが、私の召しを蹴ってまで、娘のそばを離れぬか」
「面目次第も、ございません。後ほど、私から、きつく——」
「いや」
アルノーは、ふっと笑った。
「よいではないか。むしろ、安心したぞ」
「……は?」
「あの娘は、闇市でひどい目に遭い、攫われもした。そんな娘に、命がけでそばにいてやる男が、ひとりいる。——けっこうなことだ」
アルノーの瞳が、やわらかく細められる。
「レオンには、伝えておけ。『召しは追って沙汰する。今は、番のそばにいてやれ』とな」
「……御意」
ユリウスが、頭を下げる。
「ふむ。しかし——」
それから、アルノーは、ぽつりと付け加えた。
「一晩で、娘の姿が、五つも育った、か。……それは、はて。なかなか、興味深いな」
その、何気ない呟きの奥に。王の、静かな——けれど、確かな関心が宿っていたことに。
このとき、まだ、誰も、気づいてはいなかった。




