第九話
キルシェの所に行くと、キルシェはぼんやりと布団に座っていた。
でも、寝惚けている訳ではなさそうだ。一遍に色んな事が起こりすぎた為だろう。
俺の足音に気付いたのかキルシェは弱弱しく俺の方に顔を向ける。
「キルシェ、お茶持ってきたぞ」
コクリ、と頷くとキルシェはお茶の入ったコップを受け取った。
ファルシェは、テーブルにコップを運んだ後、また台所の方へ引っ込んでしまった。
余程、妹に優しくするのが苦手らしい。
事情を知ってしまった俺が居る手前、挑発的な態度ももう取れないだろうしな。
喉をコクコク鳴らしながら、キルシェはお茶を一気飲みした。
「はぁ……」
そして、小さく溜息を零した。
背中を丸くして、空っぽになったコップを弄んでいる。
その姿に良心が痛む。さっきの言葉も、ちょっと言い方が悪かっただろうか。
「セイイチ」
と、小さな声で俺の名前を口にした。
怒られるのを覚悟して俺は言葉の続きを待った。
「その……」
布団の中で、足をもぞもぞと動かしつつキルシェは俯いている。
ほんのりと頬を紅色に染めている。
ぴた、とコップを弄ぶ両手の動きを止める。
視線だけを俺の顔へ向けてきた。半眼でちょっと潤んだ瞳。
ちょっとだけ緊張の糸が張り詰める。
「あの……ね」
吐息と共にキルシェの喉から搾り出された言葉は。
「わたしだけを、護るって証明してくれる……?」
「え……」
「さっき、セイイチが言ったこと。信じたいから」
「証明って……何をすれば」
意外な言葉に少し面食らってしまった。
なんとなく、こんなキルシェを見たのは初めてのような気がする。
いつにも増して、キルシェが小さく見えたし、魅力的にも感じた。
「ほんとうは、おねえちゃんと同じこと、したいけど……」
「……?」
すると、キルシェはコップを置いて右手を差し出してきた。
「手……握ってくれる?」
それから、俺の目を真っ直ぐ見つめてはにかんでそんなことを言ってきた。
心臓が飛び跳ねる。急にそんなことを言われても。
「ねえ、おねがい、セイイチ」
息を呑む。縋るように俺を見つめるキルシェは。
反則的に、可愛らしかった。
俺は何も言えず、ただキルシェの右手に触れる。
ゆっくりと、手に力を込めてキルシェの手を握り締めた。
瞳を潤ませて、表情を崩してそれを握り返してくる。
「……ありがとう、セイイチ」
何も、何も考えられなかった。だから何も言えなかった。
暫くふたりとも無言でそうしていた。
手離さないように。もう、この女の子を失いたくない。
何があろうとも。俺は絶対、この子を護る。それを、強く強く胸に刻み込んだ。
「―ちょっと悔しいかな」
あは、と彼女はひとりで苦笑する。
本当は。
ちょっぴり、期待していた。
想い出してくれるんじゃないか、って。
「そんな訳、ないか。随分、昔のことだものね」
けれど、私は憶えている。忘れることなどできない。
彼女は肩を竦めて、ドアノブに手を伸ばす。
「キルシェのこと、よろしくね、誠一」
誰にも届かない声は、彼女のただのひとりごと。
しかしそれは、彼女にとって久しぶりに妹に向けた優しさだった。
音を立てないようにドアを開けて外へと歩き出す。
いつか。いつか、彼女の願いは誰かに届くのだろうか。
誰よりも、あなたに。ただ、また昔みたいに―。
「セイイチ」
キルシェの声にハッと目を覚ます。どうやら、少し意識が飛んでいたようだ。
手は繋いだまま、俺は穏やかに微笑んでみせた。
「キルシェ、大丈夫だよ。必ず巧くいく。ぜんぶ、巧くいく」
「セイイチ、でも」
「大丈夫だって。俺が何とかするって決め……」
俺の頬を、キルシェの指が滑る。
「泣いてるよ、セイイチ」
「そんな訳ないだろ、なんで俺が泣くんだよ」
「でもね、泣いてる。ごめんね、セイイチ」
「だから、泣いてないって……」
「ごめんね……」
ふわり、と小さな身体が俺の身体を抱きしめた。
あたたかい。こんなに、小さな身体なのに、すごくあたたかい。
もう取り繕えない。
キルシェの表情は見えない。
でもきっと。
優しく笑っている筈だ。
涙が込み上げてきて、止まらなかった。俺は体裁も気にせず、肩を揺らして泣き続けた。
キルシェのあたたかな腕のなかで。
可笑しいよな。本当は俺が抱きしめてあげたかった。
……こんな俺、キルシェには見せたくなかったな。
弱い自分が嫌になる。それでも。折角見つけた眩しい光。それに手を伸ばさずにはいられなかった。
「そうだね、うまくいく。おにぎり全部集めたら、ドラゴン達も大人しくなってくれるよ」
「うん」
「うまくいかないなんて、想っていないからね」
「うん」
「大丈夫だよ、セイイチ」
「……うん」
子どもみたいに、泣きながら頷く俺を、キルシェはずっと抱きしめていてくれていた。
暫くして、泣き止んだ俺はキルシェが寝息を立てていることに気付いた。
そっとキルシェの腕を俺の身体から離す。
キルシェの頬に涙の跡が残っていた。心が痛んで、それを優しく撫でた。
「ごめんな……キルシェ」
ゆっくりと、キルシェの身体を布団に寝かせる。
きっと、力を遣い過ぎて限界が来てしまったのだろう。
また魔界へと運んでいくことも考えたが、何が起こるか分からないし、このままここに居させようと思った。
ここで、初めて時計を確認する。朝の5時。
ファルシェと出会ったのが確か夜の8時ごろだったから、かなり長い時間が経っていたようだ。
「そうだ、ファルシェは……」
立ち上がり、台所の方を覗いてみる。
が、そこには誰の気配もなかった。
「行っちゃったのか」
ファルシェは、ファルシェなりに気を遣ってくれたのだろう。
魔界へと帰ったのだろうか。
と、すると。
もしかしたら、ファルシェが協力してくれるかもしれない。
まだ味方だと断定した訳ではないが、ファルシェなら何とかしてくれるのではないか。
そう思った。