苦い恋
夏祭りに行った翌週の月曜日。私はいつものように彼の学校の駅で彼がくるのを待っていた。いつもと同じ待ち合わせ場所で、イヤホンで音楽を聴きながら待っていた。伏せた視線の先で、女物の靴がいくつか止まったのが見えた。
なんだろうと顔を上げると、そこには彼と同じ高校の制服を着た女の子たちが腕を組んで私を見ていた。
「あの…」
「あなた、翔の彼女だよね?」
真ん中にいる女の子が、私を睨むように見た。目元のパッチリした、可愛らしい顔の子だけれど、表情が強張っているせいか怖く感じる。私はどうすべきか迷って、それから頷いた。
それで終わるかと思ったのに、彼女はさらに私に向けて一歩を踏み出した。
「あなた目障りなんだけど」
「え?」
「翔の彼女ですって顔して、毎日こんなところまでくるの、鬱陶しいんだけど」
彼女は腕を組んだまま、大きく息をついた。
「翔には今までたくさん彼女がいたから、どうせあなたのことだって、本気じゃないから」
言われた内容が理解できなくて、ただ彼女の顔を見つめる。彼女は組んでいた腕を解いて肩を竦めた。
「あのね、翔はすごいモテるから。今までもくるもの拒まず、だったから。どうせあなたのことも、本気じゃないの。あなたも相手にされてないから」
モテるのは、一緒にいればすぐにわかった。こうして待ち合わせしていることを見ている人がいるのも知っていた。それが、彼が人気のある生徒だからなのもすぐに理解できた。
でも、彼女の言う、くるもの拒まず、とか、本気じゃないとか、意味がわからなかった。混乱する頭で私は小さな声で反論した。
「あなたに、関係ないですよね」
「毎日こんなところに顔だして、見ているだけで迷惑なの。翔は、前は私と付き合ってたし、今までだってたくさん彼女がいたから。だけど、すぐに別れちゃうの。」
この人と、付き合っていたんだ、と決して少なくないダメージを受けて、私は視線を下げる。彼女は私に一歩近づいてきた。
「翔、別に誰とも本気にならないから。私ともそうだった。だから、どうせあなたともそうなるから」
「そんなこと、分からないですよね。」
「自分は違うって、私もそう思ってたけど、でも結局みんな、そうだから。あなただけ特別とかないから」
「そんなことない」
私は声を荒らげた。あの夏祭りは、本当に数日前で、あの時のことが嘘だなんてとても思えなかった。その勢いに彼女たちは一度怯んだけれど、それでも次の瞬間には言い返してきた。
「だから、本気じゃないんだって」
「あなたに関係ない」
そう言い返して、私は走り出した。これ以上その場にいるのが耐えられなくて、逃げるように走り出した。頭の中にはさっきの彼女の言葉がグルグル回っていた。私はその言葉を振り払うように頭を左右にふった。息が切れる。
走りながら、苦しい呼吸で思い出すのは、ついこの間のこと。花火の日のこと。
繋いだ手。閉じた瞳の長い睫毛。触れた唇。
彼女って言って、小さく笑ってくれたこと。
あれは本当のことなのに、私は信じきれなかった。違うって言い切れなかった。
私は彼と付き合っていてもいつも不安だった。だって、この間「彼女」って言ってもらうまで、私は彼の「少しだけ仲のいい同級生」くらいの立場ではないかと思っていたくらいだ。
誰とも本気じゃないとか、本気じゃないとか、私の心にも、どこかにそう思うところがあった。だから彼女の話を、ただの嫌がらせと思えなかった。
泣きそうになりながら走って、ちょうど赤信号で立ち止まる。気がつけば息が切れて、心臓がとても早く打っていて、とても、苦しかった。私は膝に手をついた。なんとか呼吸を整えようとする。
もう少しで、翔くんの学校だった。そう思って顔を上げると、信号の反対側に、彼がいた。
「あ」
彼の隣には同じ学校の制服を着た女子生徒がいた。背が高くて、顔立ちの整った彼に似合う、長身で細身の大人びた感じの綺麗な子だった。
私は立ち止まって、二人を見た。
二人は並んで歩きながら会話をして、ふとした拍子に顔を見合わせて、笑い合った。そして彼は持っているバッグから辞書を出して彼女に手渡す。受け取った彼女が嬉しそうに笑った。その手渡すタイミングは、なんと言うかあうんの呼吸というか、それがとても慣れているもので。
多分、あの人たちは今まで何度も同じように、何かを交換したり、笑いあったりしていたのだろう。ごく自然に。
私は呆然とそれを見ていた。
自分の彼氏なのに、見たこともない彼の笑顔が素敵すぎて、思わず見惚れてしまった。
彼は見たこともない笑顔で、彼女を見つめる。彼女は笑いながら彼に何かを話しかけて、お互い笑い合う。
さっきの彼女たちの言葉よりも、彼の表情が全てだった気がする。
翔くんは、私といてさっきのように笑ったことは、ない。
翔くんは、さっきみたいに私と親密に話したこと、ない。
あんな顔を見たことがない。
彼に他の彼女がいたという事実よりも、ただ、彼が私以外の人といるときに、あんなに楽しそうにしていていることが、一番辛かった。
その事実に、胸が張り裂けそうになるくらい、辛くなる。
あなただけ特別とか、ないから
そんな言葉が頭に浮かんだ。
その信号が青になる前に、私は駅へと引き返した。駅にはさっきの子がいて、何かを話しかけてきた。でも、私は返事しなかった、と思う。
実は何も覚えていない。
どうやって家に帰ったかも、覚えていないくらいだ。
その日以来、私は彼へ連絡するのをやめた。やめた、と言うかできなかった。
数日経って来た彼からの連絡に、私が応じることはなかった。メッセージも無視した。見ることも、できなかった。怖くて、そんなことできなかった。
1週間後だった。夕方、彼が私の学校の近くの駅に来ていた。駅で私が来るのを待っていた。
彼が改札の前で立っているのを見つけて、足がすくんだ。足が前へ進まない。
どうしようと思っていると、一緒に帰っていた友達が声をかけてきた。
「菜緒、大丈夫?」
同じクラスで仲良くしているカナちゃんが、隣で動けなくなってしまった私を見つめる。彼女は私と翔くんが付き合っているのを知っていた。何回か翔くんと話したこともある。私達が付き合ってから、私たちの間にあったこと、今回の私たちの間にあったことも、全部知っている。
「菜緒、私、代わりに話してくるよ」
「うん…」
私が駅の入り口で立ちすくんでいると、彼女がそう言った。私が頷いたのを確認して、彼に向かって駆け出した。私は見ていられなくて、少し離れた、彼らから見えないところへ移動する。
どのくらい時間が経ったか、目の前に影が降りて、私は顔を上げた。目の前には、怒った顔をした彼がいた。反射的に、私は顔を逸らしてしまった。
「何それ、顔も見たくないってこと?」
かけられたのはとても冷たい声で、聞くだけで泣きそうになる。彼がとても怒っているのが伝わってきて、逃げてしまいたくなった。
「俺の彼女は、菜緒だし、それ以外に彼女はいないはずだけど、どういうこと?」
「でも…」
「他の彼女ってどういうこと?勘違いしてない?何を言ってるの?俺のいうこと、信用できないわけ?」
その顔は、この間の笑顔からはかけ離れた、冷たい顔だった。
私が黙っていると、大きなため息が聞こえた。
「後、あいつ、信用できる子なの?」
「あいつって?」
翔くんが顎で示した先には、カナちゃんがいた。こっちを心配そうに見ている。
「どういうこと?」
「あいつ、信用できない」
「あいつって」
とても乱暴な言い方だった。仲の良い友達を悪く言われて、私の頭に血が上る。
カナちゃんはここ最近の私の悩みもずっと聞いてくれていた。いつも「また、菜緒にはいい人が現れるよ」そう言って励ましてくれた。そんな風に私のことを考えてくれている子のことを悪く言われて、黙ってはいられない。私は思わずカッとなってしまった。
「翔くんに言われるようなことじゃないよね」
翔くんはため息をついて、視線を伏せた。さっきよりもさらにイライラしているのが伝わった。でも私も引き下がれなかった。
「カナちゃんは大切な友達なの!翔くんよりずっと信用できる。私の友達に変なこと言わないで」
「だから、話を聞けって」
そう言って彼の手が私の腕を掴んだ。私はそれを振り払う。
「もう、会わない。だからこないで」
口を開こうとした彼を、私は全力で拒否した。友達を悪く言われたことで、私はカッとして、思ったより強い口調になった。
「会いたくない」
最後にみた彼の顔は、いつもと同じ、無表情だった。静かな瞳で私をじっと見ていた。
見たいのはこんな顔じゃない。一度でも笑っているところを、見てみたかった。
なのに、きっと、もう彼が私の前で笑うことはない。これからも、ない。
そう考えたら、涙が浮かんできて、頬を伝った。
それが最後だった。
初恋の終わりだった。
それから少しして受験勉強が始まり、逃げるように私はそれに没頭した。カナちゃんとは3年生のクラス替えで違うクラスになり、いつの間にか話すこともなくなった。
あんなに仲良くしていたのに、友情って強いようで脆い。
それをさらに実感したのは、大学2年生の夏の高校の同窓会の時だった。
うちの高校は少人数の学校だったから、同窓会は学年全員で開かれる。そこで私はカナちゃんに再会した。久しぶり!と言って近寄ってきたカナちゃんは、バッチリメイクをしていて、私よりも大人びて見えた。
「私、菜緒に謝らないといけないことがあって」
カナちゃんが突然苦笑いしながらそう言った。私が驚いて聞き返す。
「あの、菜緒の彼氏のこと」
その言葉に心臓がつかまれたように痛んだ。苦い想いが胸に広がる。カナちゃんは顔を上げると、俯きながら続けた。
「菜緒が彼氏と揉めている時、私が菜緒の代わりに話に行ったのを覚えてる?」
あの、駅での出来事だ。私にはすぐにわかった。忘れもしない。
「うん」
「実は私…菜緒の彼氏のことずっといいなって思っていて。あの時、彼に菜緒と別れたのなら付き合って、って言ったんだよね」
あまりにも驚きすぎて私は反応できなかった。カナちゃんは顔の前で手を合わせて、本当ごめん!と笑って付け加えた。
「だけど、ずっと彼のこと良いなって思っていて。ほら、菜緒がもうダメだって言うし、もう別れるなら良いかなと思って、つい。ごめん、菜緒」
カナちゃんは、菜緒の伝言はもちろん伝えたよ!と何度も言った。翔くんにずっと好意を抱いていたことを強調して、もう一度謝った。
「もちろん、ふざけるなってものすごく怒られちゃって…」
カナちゃんはそう言って、アハハ、と笑った。唇に塗られた赤い口紅が光ったのを、なんとも言えない、嫌な気持ちで見つめた。
何だか軽いな、って思ってしまった。
そのことで、私は今も悩んでしまうのに。自分を責めてしまうのに。
あれが、私たちにとっては決定的な出来事だったのに。
彼女の中では、簡単な話みたいだった。
あの時、翔くんはあの子は信用できない、と言った。彼女と喧嘩して、仲裁に来たはずの彼女の友達に告白されるなんて、誰だって嫌な気にしかならない。今ならあのイライラした態度もわかる。
だけどあの時、彼の話を聞かなかったのは、私だ。
彼よりも、友人の話を信用したのは、私だ。
同窓会の帰り道、私は一人歩いて帰りながら、涙が出た。
無性に、もう一度翔くんに会いたかった。実際あったら、ちゃんと話せるのかもわからない。怖くて話しかけられないかもしれない。だけど、ただ、会いたかった。
確かにあの時、私は彼が好きだった。
あんなに好きだったのに、ただ彼のことが好きなだけだったのに、どうしてあんな風になってしまったのだろう。
彼との思い出は甘い。
甘くて、色鮮やかで、そのくせあっという間に消えてしまった。
あの時の花火みたいに。
甘い癖に、とてつもなく苦いから、思い出すたびに苦しくなる。
だから、私はその思い出を心の奥に仕舞い込んだ。
もう絶対に出てこないようにしっかり鍵をかけて。




