甘い恋
その恋が始まったのは高校2年生の春で、終わったのは高校3年生になる前だった。正確には、夏の終わりとともに終わった。
あっという間に終わってしまったその恋は、突然始まった。
新学年になって少したったある日の朝、学校へ行くのにたまたまいつもより一つ早い時間の電車に乗った。そこで彼を見かけたのが始まりだった。
一目惚れだった。
同じ電車の沿線沿いの、県内有数の進学校の制服を着ていた彼は、まだ空いている電車の中でドアの近くに立って単語帳を見ていた。長身を適度に着崩した制服に包んでいて、遠くから見てもわかるくらい、端正な顔をしていた。特に切れ長の瞳が涼しげで印象的だった。朝の騒がしい混雑した電車の中で、彼の周りだけ空気が澄んで見えた。
見た瞬間に、恋に落ちていた。
恋をして、3日後に私は彼に告白した。
同じ電車に乗って、彼の降りる駅で降りて、改札へ向かう彼に声をかけて、連絡先を渡した。
そして言った。とてもシンプルに一言。
「好きです。付き合ってください」
逆に言うと、何も知らなかったから、それ以外に言う言葉が見つからなかった。
彼も相当、驚いたのだと思う。綺麗な顔を固まらせて、目だけが驚きを反映して丸くなって、しばらく黙ってじっと私を見ていた。
名前も年齢も知らない、通っている高校しか知らない、話したこともない人にいきなり告白するなんて、我ながらすごい行動力だと思う。
あれが、恋の勢いというものだろう。
あんなこと、もう、できない。
名前も知らない彼との付き合いは、自己紹介から始まった。
告白した後に教えてもらった彼の名前を、私はじっくりと噛みしめるように口にした。年上だと思っていたのに、聞けば同学年だった。今更だけど、まずそれに驚いた。
「名前は?」
そう聞かれて、私は自分の名前を名乗った。
「安藤菜緒です」
「安藤、菜緒」
彼は私の名前を呟いた。
単純に忘れないように、確認するために復唱しただけだ。他に意味なんてない。
でもその時に、好きな人に名前を呼ばれることがあんなに嬉しいものだと、私は初めて知った。
彼の口から出る言葉は、とても甘い。
好きではなかった自分の名前でさえも、意外と良い名前だと思ってしまうほどに。
ぎこちなく始まった彼との付き合いは、それでもとても楽しかった。お互い高校が違うから、朝同じ電車に乗って、帰りは待ち合わせて一緒に帰る。学校からの行き帰り、一緒にいる。たまに、一緒に帰り道にお茶をする。それが精一杯のつきあいだった。けれど、それだけでも私にとっては全てがとても新鮮で、楽しかった。
私は自分の生活の中で、彼を最優先事項にした。
たとえそのために寝不足になろうと、忙しくなろうと、そんなの全く、関係なかった。
彼が「試験が終わったから、いつもより遅くまで一緒にいても良いよ」と言えば、自分はまだ試験中でも、「私も試験終わったから」と一緒にいた。家に帰って夜中まで勉強する羽目になっても。
今日は急用で会えない、と言われれば、笑顔で大丈夫、気にしないでと言って電話を切った途端に、気持ちがどん底まで落ち込んだ。
彼の態度一つで、私は舞い上がったり、これ以上ないくらい沈んだりする。ジェットコースターでもこんなに上下しないだろうと思うくらいだった。
「翔くん!」
私はいつも彼をそう呼んでいた。笑う私に反して、彼はいつも「ああ」とか素っ気なく返すだけだった。それでも好きな人といられることが、私はとても嬉しくて、いつも笑っていた。彼との待ち合わせには、走って向かったし、時間よりもずっと早い時間について彼を待っていた。
学校帰りはいつも、私が彼の学校の最寄り駅まで行く。駅の改札を出たところで、私は彼にもらったプレイリストを聴きながら、彼がくるのを待つ。
翔くんの学校が終わって、彼が一人で駅まで歩いてくる。遠くからでも彼の姿はわかった。私は彼に向かって手を振る。彼は基本無表情で、いつも素っ気なかった。遠くから目があっても、わざと逸らせて私のそばまでゆっくりと歩いてくる。照れているような姿が好きだった。
長い待ち時間も、私には苦ではなかった。
女子校の私には、男の人と二人で何かをすることがとても新鮮で、ただ二人で並んでお茶を飲むだけで、ドキドキした。
電話もメッセージも、会う約束も、遊びに行く場所を決めるのも、全部私だった。彼からああしようとか、こうしようって言われたことなんてない。だけど、一緒にいられるだけで嬉しくて、そんなことはちっとも気にならなかった。
彼との1番の思い出は、二人でいった夏祭り。
私はちょっと無理して親に浴衣を着させてもらった。それを見て、駅で待ち合わせした時に、彼が驚いたように目を丸くした。何だかびっくりさせたことに、自分なりに満足する。そして制服ではない彼も新鮮で、いつもと違って見えた。
混雑する神社の中を二人で歩きながら、夜店のかき氷や杏あめを食べたりしながら歩く。
いつもと同じ、話すのは私。彼は大きく表情を変えることもなく、じっとそれを聞いている。
いつもと違うのは、彼と手を繋いだこと。
人が混んでいて、彼との距離が離れてしまい、小走りで彼の背中を追いかけた。はぐれそうになった私を振り返った彼は、泣きそうな顔をしてしまった私を見て驚いたような顔をして、でも心配そうな目で見つめ返してきた。
そして、私の目の前に、彼の手が広げられた。手は差し出してくれたくせに、顔はもう前を向いていた。恐る恐る差し出した手は、意外にもしっかりと握られて、少し驚いた。手を繋いだことも初めてで、それがとても嬉しかった。
途中で花火が始まった。
私たちは立ち止まって、二人で花火を見上げた。花火は暗い空に鮮やかな色と共に広がって、あっという間に消えていく。
「キレイだね」
ポツリとつぶやいた私の言葉に、彼は微笑んで私を見た。
花火の赤や、黄色や、青い色が彼の顔に写って鮮やかに彩る。
あんな風に優しく笑ったのを見たのは、初めてだったかもしれない。記憶の中の彼は、いつもその端正な顔を崩すことなく、どちらかというと無表情で私を見ていることが多かった。
だけどその時の笑顔はとても優しくて、私の心に染みた。
花火よりも彼の笑顔の方が、ずっときれいだと思った。
私は彼に微笑み返すと、花火に視線を移す。
「菜緒」
花火を見ていると、繋いだ手を引っ張られた。驚いて彼の顔を反射的に振り仰ぐと、彼の顔が静かに降りてきて、私の唇に彼の唇が重なった。
驚いて目を閉じる間もなかった。目の前の彼はまぶたを閉じていて、長い睫毛が見えた。
あっという間に唇が離れた後、私は驚愕で体が動かなかった。
「今の…」
呆然としている私を見て、彼が苦笑いした。
「自分の彼女にキスして、こんなに驚かれると思わなかった」
驚いたのは二つ。
一つは彼が私にキスしたこと。
もう一つは彼が私を「彼女」だと思っていたこと。
私はしばらく固まっていた。
「ありがとう」
ようやく出した言葉は、とんでもなく方向違いのものだったから、彼はまた苦笑いした。
「ありがとう、ってなんだよ」
「いや、なんか嬉しくて」
「嬉しいって」
呆れたような声がした。だけど、本当に嬉しかったんだから、仕方がない。
キスしてくれたことも、それ以上に、私をちゃんと彼女だって思ってくれていたことも。
彼はおしゃべりな方ではない。だから私は密かに不安だった。
この人は私のどこが好きで一緒にいるのだろうとか、実は私のことを面倒に思っているのではないかとか。常にたくさんの疑問があって。
『恋人』ではなくて、『少しだけ仲のいい同級生』くらいの関係なのではないかと、不安だった。
だから、恋人って言ってくれたことが、嬉しかった。
「また…してくれる?」
そう言って私は彼を見上げた。彼の顔はもう苦笑いではなくて、優しい笑顔だった。
「またするよ。何度でも」
「本当?嘘じゃない?」
嬉しいくせに、私の返事は全くと言って良いほど可愛らしくないものだった。彼はもう一度苦笑いした。
「するよ。たくさん。何度でも」
その言葉の後に、彼の顔が降りてきて、私たちの額がコツンと重なった。
私たちはしばらく目を瞑ったまま、額を合わせていた。
遠くで花火の音が聞こえた。
花火の音と同じくらい、私の心臓は大きく鳴っていた。繋いだ手と合わせた額から、彼の体温が伝わった。ドキドキして恥ずかしいのに、でも嬉しい。ずっとこのままでも良い、って本気で思った。
「また、するよ」
花火の音にかき消されそうなほど小さく、でもしっかりした彼の声がした。
その言葉が嬉しくて、私はちょっとだけ泣いて、でもそれをすぐに押さえ込んで彼を見上げて笑った。
それから二人で花火が終わるまで並んで花火を見上げた。
花火はとてもキレイだった。たくさんの花火が夜空をキレイに彩って、跡形もなく消えて行った。
それを見る私たちの手は、しっかりと繋がれていた。
だけど、彼の言葉が現実になることはなかった。
あれが、彼と過ごした最後の楽しい思い出だ。
楽しすぎて、甘すぎる思い出。




