彼がメガネをかけるようになった理由 10
その時俺は彼女と花火を見ていた。
彼女は目を輝かせて花火を見ていて、俺は花火ではなくて彼女を見ていた。
俺が繋いだ手を引き寄せると、彼女は花火から目を離して、俺を見上げた。俺は身をかがめて、彼女にキスをした。
初めて彼女とした、キスの記憶。
それから起きたたくさんの誤解のために、俺が彼女と二度目のキスをするまでに、途方もない遠回りをして、何年もかかってしまった。
あれから何年も経って、俺が彼女に出会ったのは、本当に偶然だった。
その偶然には、本当に感謝している。
それは、あの運命の日の昼のことだった。
俺が神崎と連れ立って歩いていると、後ろから声がかかった。振り返ると、同期の一人が走って俺を追いかけてきた。
「頼む、佐々木」
「なんだよ」
俺と神崎は立ち止まる。同期は俺の顔の前で拝むような動きをする。
「頼む、今日、合コン来て」
「はあ?」
俺は露骨に嫌な顔をした。俺はあの手の集まりが嫌いで、最近は誘われても断っている。だけど同期のやつが顔を上げて、本当にお願い!と続けた。
「もう本当に人いなくて、探してる」
神崎が俺を見て苦笑いした。ここで俺じゃなくて神崎にしろよとは、さすがに言えない。
コイツにはもう絶対の相手がいるから。
同期はもう一度、俺の前で手を合わせる。
「しかも、お前来たら、絶対俺の評価上がる。良い仕事したって褒められる」
人寄せかよ、と俺はうんざりしながら、人差し指でメガネを押し上げた。
「向こうが良くても、俺はどうなるんだよ」
「だから、女の子と話し合わなかったら、斉藤と話してれば良いよ。お前あいつと仲いいだろ」
そう言って俺と仲の良い同期の名前を出す。そいつも今日の会に行くらしい。だけど、その同期は今日、結構遠くに出張だったはずだ。俺は即座にそれを却下する。
「あいつ、今日出張だろ。普通あっちに泊まるよ」
それを聞いて同期は首を横に振った。
「いや、あいつ、よくわからないけど、絶対行くって、ものすごい気合入ってたから。遅れても絶対来るって。だから、佐々木も頼む、俺を助けると思って。俺、本当に困ってる」
俺はため息をついた。気が進まない、そう答えようとした時だった。
「良いよ、佐々木行けるよ」
隣で神崎がそう答える声がした。俺は驚いて神崎の顔を振り返る。
奴は俺を見てニヤリと笑った。
「お前、この間、今度こそ頑張るって言ってたよな」
「それは」
この間、神崎や白石と飲んだ時に、酔っぱらった俺はつい、菜緒の話をしてしまった。俺が拗らせすぎていることを知った奴らは、黙って俺の話を聞いてくれた。かなり長い時間、絡み酒をしてしまった記憶がある。
確かにその時、これからは頑張って新しい恋をする、と宣言した。
そういえば、合コンにも参加する、と言った、気がする。
酔っ払ってよく覚えていないけれど。
思わず言葉を失う俺に、神崎は笑いかける。笑っているけど、ちょっと凄みがあった。
「俺、なんだかお前は今日、行ったほうがいい気がする」
「今日は仕事終わらないよ」
俺が今日やるべきことを思い返しながらいうと、神崎は大きく頷いた。
「お前の仕事、あとは俺が引き受けるから安心しろ。だからちゃんと時間通りに行けよ」
次期社長さまの言葉には逆らえない。俺は本当に渋々参加することにした。
だけど、その会で菜緒に再び出会えたのだから、運命ってわからない。
俺は一生神崎に頭が上がらないかもしれない。
俺と彼女が再会して、俺はかなり頑張ったと思う。
頑張った、というより必死だった、の間違いかもしれない。
そうしてなんとか信頼を勝ち取れたけれど、やっぱり彼女の心を開くのは大変だった。
ようやくオレは彼女と付き合うことができたけれど、昔のことが影響するのか、俺は菜緒が離れていくことを、とても恐れている。
朝、目が覚めた時、ベッドの中には一人きりだった。
まだベッドの中の俺の隣は暖かくて、確かにそこに人がいたことを証明しているけれども、姿は見えない。
俺はもう一度寝そうになっていた目を開いた。
「菜緒?」
俺は体を起こして部屋の中を見渡す。目当ての人がいないことに気がついて、慌ててベッドを出る。部屋を出てリビングへ向かう。キッチンで物音がした。
そのことに少し安堵して、それでも安心しきれない俺は、リビングのドアを性急に開ける。部屋の中にはコーヒーのいい匂いがしていた。
「翔くん?」
起きた?そう言ってキッチンの中の菜緒が振り返る。
「ちょうどコーヒーできたところ」
そう言って棚からカップを取り出す。振り返って俺を見て笑う。
「飲む?」
そう言って聞いてきた彼女を、持っているカップごと抱きしめる。
「え?翔くん?」
腕の中で戸惑ったような彼女の声がした。
それに構わず、俺は彼女を強く抱きしめる。彼女の首元に額を当てて、息を吐いた。
よかった、菜緒がいる。
そう心の中で安心する。
「翔くん?」
声がして慌てて腕を緩めると、菜緒が俺を見ていた。
「あ、ごめん」
俺はそう言って彼女から手を離す。
「コーヒー、もらうよ」
「うん、じゃあ、いれるね」
そう言って菜緒は笑った。
「今日、ちょっと緊張するな」
ソファに座って考え事をしていると、そんな声がして、振り返ると菜緒がコーヒーの入ったカップを差し出してくれた。ありがとうと言って受け取ると、菜緒は俺の隣に座った。
「翔くんの高校の時の人たちって、初めて会うから、緊張する」
そう言って、小さく息を吐いた。
今日、これから高校の時の生徒会の仲間と食事をすることになっている。なぜかメンバーでもない、美月が声をかけて、なぜか関係のないあいつもしっかり参加することになっている。
美月が来ることを知って、文句を言おうとしたら、
「だってその中の一人は私の彼氏だし、私も菜緒さんと知り合いだし、行ってもおかしくないよね」
と当たり前のように返された。
俺と神崎と本間は今も一緒に働いているし、白石にもよく会っているからこの会には特別新鮮味もない。どちらかというと、みんなに菜緒を紹介するだけの会なのだろう。
それは同時に、菜緒には会わせたくないと思っている神崎や白石に会わせることになってしまうのけれど…。
確かに、神崎にも仕事の合間にそれとなく、一度紹介してよ、と言われた。
「まだ一度も会った事ないからな」
そう言ってにこやかに笑った神崎に、俺は渋い顔で返した。
「お前、一度会ってるだろう」
そう答えると、神崎は驚いた顔をした。本当に思いもかけないことを言われた、とその表情が語っていた。そして少し考えた後に、苦笑いした。
「それ、高校の時お前が告白された時のことだろ。会ったって言われても、俺は彼女を遠くから見ただけなんだから、あんなの会ったうちにカウントするなって」
なんだよ、それ、と笑われた。だけどその後で
「大事にしてるんだな」
そんな声がかかって、俺は神崎を見る。
「よかったな」
そう言われて、俺は少し恥ずかしくなりながら、
「ありがとう」
そう、返事した。
俺がついこの間のことを思い出していると、隣で菜緒は大きく息を吐いた。
「翔くんの友達ってなんだかみんなできる人って感じがして、ちょっと心配だな」
「そうか?」
「うん、みんなエリートって感じ」
俺はコーヒーをテーブルに置いて菜緒に向き直る。
「そんなことないけど」
「あ、でも美月さんがいるから、少し行きやすいかも」
美月は本当に自然に菜緒と連絡を取り合っている。菜緒に言わせると、彼氏の話が多いらしい。迷惑な奴だと思うけれど、菜緒は面白がっている。
「そうか、美月さんの彼氏もいるのか」
そう言って、美月さんの彼氏すごく格好いいんだもんねと付け加える。
「そこは少し気になるかな」
ふふ、と笑って何気なく言った彼女の言葉を、俺はまた気にしてしまう。
我ながら、心が狭すぎる。
菜緒はそんな俺を横目に、今日着ていく洋服を見に寝室のクローゼットへ向かう。昨日からずっと落ち着かない。着るものなんてなんでもいいと思うけど、女子的にはそういうわけにはいかないらしい。
洋服を見に行ったまま戻らない菜緒を見に、部屋へ向かう。
菜緒はハンガーにかけたワンピースを見ていた。
俺は背中から彼女を抱きしめる。
「翔くん、どうしたの?」
「今日、行くのやめようか?」
ええ?と腕の中で菜緒が声を上げる。
「行かないで、どうするの?」
「今日はずっと家で過ごそう」
「何言ってるの」
クスクスを笑う菜緒を、俺は無言で強く抱きしめる。
「あのさ、翔くん」
「どうした?」
菜緒が腕の中で体の向きを変えて、俺の顔を見上げる。
「私、他の人に比べて美人でもないし、多分美月さんや美琴さんに比べると、ちょっと…」
再会した時からずっと、彼女はそんなことばかり心配している。
「そんなことない。俺は菜緒がいい」
俺は菜緒の顔を覗き込んだ。笑ってはいるけど、その目は不安そうに揺れている。
彼女を抱く腕に力を込める。
「菜緒が本当に好きなんだ」
俺の腕の中で、菜緒は俺の背中に手を伸ばす。
「ありがとう」
そう言って、俺の胸に顔を寄せた。
「俺も、今日ものすごく心配だよ」
「何が?」
菜緒が驚いたように顔をあげた。
俺は苦笑いする。
「神崎は誰がどう見ても完璧な人間で、俺が女なら絶対に惚れると思ってるような奴だし、白石は本当にきれいな顔をしているから、あいつらを見たら自分から気持ちが離れるんじゃないかと思って心配だし」
途中から菜緒の目が丸くなる。俺はそれに構わず続ける。
「本間は俺の情けないところを、沢山見てるから、それを菜緒に話すんじゃないかと思って気が気じゃないし、できるなら行きたくない」
一息に言い終わると、菜緒は笑った。
「でも、私は翔くんが好きだよ」
手を伸ばして、俺の頬に触れる。
「翔くんよりも素敵な人は沢山いるかもしれないけど、でも私は翔くんがいい」
そう言って、もう一度俺の胸に顔を寄せた。
「翔くんだけが、一番、好き」
俺はそれを聞いて、もう一度彼女を抱きしめる。
「菜緒のことは、好きじゃなくて、愛している」
そう小さく呟いたら、菜緒が驚いたような顔をした。
「え?何?」
俺は恥ずかしくなって、なんでもない、と首を横に振った。
もう一度言って、という彼女の唇を塞ぐ。
そうして彼女の額に自分の額を合わせた。
「まだ、時間あるから」
俺は彼女の顔を覗き込んだ。
「もう一度、キスしていい?」
菜緒は恥ずかしそうに顔を赤くした。
だけど、ちゃんとゆっくり準備をしたい、とか遅刻できないからとか、呟く彼女の額に、俺はキスをした。
その後で目線を合わせて、彼女の目を見る。
「お願い、菜緒」
彼女は顔を赤くして、少し迷った後で頷いた。
こう言ったら、彼女が絶対に断らないことを、俺は知っている。
そして自分で言ったくせに、次のキスが『一度』では終わらない事も。
結局、俺たちが出かける準備が整ったのは、出かける時間の直前になってしまった。
「もっとゆっくりメイクしたかったのに」
そう言って慌てる菜緒を、時間がないからと俺は急かした。
「もういい?」
そう言って振り返ると、菜緒は鏡の前で全身をチェックしていた手を止めて、俺の方を向いた。少し緊張しながらも微笑む。
「うん、大丈夫」
じゃあ、行こう、俺はそう言って彼女の手をとった。
「あれ、翔くん」
俺の背中に菜緒が声をかける。
「メガネ、かけなくていいの?」
そう言って、空いている方の手で、テーブルの上に置いたままの俺のメガネを指差した。
俺はそれを見て、それから菜緒を見て笑う。
「もう、いいんだ」
菜緒は驚いたような顔をした。
「え、いいの?」
心配するように聞いてきた彼女に、俺はもう一度頷いた。
「もう、必要ないから」
菜緒はまだ訝しげな顔をする。そんな彼女の手を引いて、俺は家を出た。
二人で駅までの道を歩く。
本当に何年ぶりかの、メガネを通さない世界は、今までと違って見える。
ただガラス1枚無いだけなのに、なんだか新鮮だった。
でも一番違うのは、彼女が隣にいること。
それが一番、俺の世界を変えてくれる。
「そういえば、どうしてメガネをかけてたの?」
隣で歩く菜緒が俺に問いかける。
俺は菜緒の方を向いて笑った。
「秘密」
菜緒は驚いた顔をして、ええ?と少し不満そうな顔をした。
俺は苦笑いして菜緒の方へ顔を向ける。
「それはまた、今度話すよ」
今はダメなの?という菜緒に、俺は笑って誤魔化した。
これから会う奴らにも、何年ぶりかのメガネのない俺の姿を驚かれるな、と予想する。
ちょっと面倒だけど、きっと彼らはそれを喜んでくれる。
だけど、俺がメガネをかけるようになった理由は、やっぱり彼女には秘密にしてもらおう。
「菜緒、急ごう」
俺はそう言って彼女の手を引いた。
彼女が俺を見上げて微笑む。
俺は彼女と共に歩き出した。
<完>
これで完結になります。
読んでくださってありがとうございました。
誤字脱字報告いただきました。ありがとうございました。




