七十夜 出航
「私がこれまで思い悩んだことのうち、98%は取り越し苦労だった」
マーク・トウェインさん、こちらは杞憂ではなかったよ。
ぼくはうつ伏せに寝ながら、ミシシッピ川の畔を走るトムを羨ましく想像した。
頼まれてもイカダで海賊ごっこはしないけど。
「おいアユム、調子は――悪いみたいだな」
ラクシュが苦笑と呆れの狭間で声をかける。
出航して1時間もしない内に胃袋はカラとなり、以降呻くだけの生物と化した。
馬車にはどうにか慣れたと思ってたけど、やはりこうなったか。また一つ勉強になった、などと軽口を叩く余裕もない……。
「うう……これって本当に、乗り物なのかなあ」
馬車と違って踏ん張れない、体の内部から大きくうねって揺らされる感覚。
上下左右に振り回され、しかも横合いから殴られたような衝撃がくる。走波性が高くないのだろう、波の影響をモロに受けていた。
遊園地のアトラクションだったら、安全対策義務違反ではと疑うところだ。
平然としているラクシュを見て思う。
「この時代の人達って、三半規管が優れているのだろうか……」
「サモ、ハンキンー?」
乗船が許可された貿易輸送船――海上を駆ける「屋敷」に、客室は存在しない。
中型の商船とはいえ、船倉には格子状の明り取りと開口部だけ。蝋燭かランプがなければ、隣の顔さえ判断できないほど薄暗い。
辛うじて立てはするが、手を伸ばせば頭上すぐが天板。
荷崩れを防ぐため倒して重ねた樽や、目が粗い麻袋が積まれる通路に布を敷き、どうにかスペースを確保する。
ここが目的地のウダカまで、ぼくたちの「部屋」となった。
せめてハンモックがあればいいのだが、船舶に普及するのは17世紀。快適さやプライベートは皆無である。
「大きな布を買ってきて、モドキでもいいから作るべきだったかなあ。でもずっと乗ってる訳じゃないし……ガマンできることはガマンすべきか……」
船員用の船室にも雑多な荷が詰め込まれ、似た感じなので贅沢は言えない。
「慣れれば楽しいもんだぞ、まあ2日の辛抱だ」
「2日……」
枕代わりのインバネスコートを抱き、絶望に浸って時間経過を夢見た。
――8月、日光を遮断する薄暗い船倉にも、輻射熱は容赦なく襲う。
こちらの世界に召喚されて早くも6ヵ月目となる。
「1年半でヴィーラ王国を磨き上げろ」
ヴィーラ殿下がしめした刻限まで後1年。
「衛生概念を広め、国を亡ぼす伝染病――黒死病に対する防波堤とする」
ヴィーラ王国が基盤となり、実地されたデータを世界へと広めるのだ。
マナスルの小さな通りから始まった壮大な計画は……幾多の手を借り実を結び、順調に育っていた。
これも全て向こうの世界育ちのぼくを信じ、手伝ってくれる皆のお蔭だ。
感謝をすると共に時に思う。現代に「異世界から来た」と噂される少年が現れ、奇天烈な騒動を巻き起こす。
例え結果がともなっていようと、信じて手伝うことができるだろうか?
「自分なら、どうしただろう」
容姿端麗、色白で犬歯が長く、成績はトップ、教師の覚えもよく将来の懸念などまるでない……ごく普通の少年なのだ。
おそらく関わらないようにしたのではないか。
常識が異なる者の行動は、それだけで危険を誘発する場合がある。軽々に信用し身を託せるとは思えなかった。
「人類が歩んだ歴史の全てを記憶するのは不可能だ。だけどぼくはまだ、知るべきことや学ぶべきことが多くある」
異世界の常識を理解するのに、半年はあまりにも短い。
「シ――~…」
カレシーが背に乗り、悲し気に震えた。
向こうの世界の常識からかけ離れた存在が、ぼくの頬に擦り寄ってくる。
思えばキミは、生まれながらずっとぼくのそばにいるんだね。いつか親離れするのかな……少しばかり、寂しい気もするけど。
「大丈夫だよシーちゃん、ゆっくりお休み」
日中は寝てる時間、顎をさすると瞼を閉じて小さくあくびをした。いつも通りのカレシーに頬が緩む。
盗賊の襲撃で『カルマ』を啓き、「綺人」を使ったと驚愕の報せを受ける。
その際に脱皮もしたと、皮を見せてもらう。通常蛇の脱皮は2~3ヵ月に1度、幼い蛇なら2~3週間に1度の割合。
今まで行っていたのかは不明だし、『カルマ』と関係があるのかも不明。
バジリスクだけの特性なのか? 全魔獣に「属性」があるのか?
なにも分からないなりにスーリヤ様に報せたら、喜んで研究対象にしそうだ。
魔獣――その危険で、不思議な存在。
「シ――~?」
意思の強さが瞳に表れ、そろそろ「ただの蛇」とは言えなくなってきた。しかし変わらずぼくのお腹で寝て、時折遊んでくれとせがむ。
カレシーの縄張りか気配か分からないが、獣が寄ってこないのは確認している。
無意識に「力」を使用してるのではないかと、ジャーラフは推測した。今も船倉に害虫の姿が消え、気にせず横になれるだけで十分ありがたい。
「沈む船にネズミは乗らないって言うぜ、この船は大丈夫なんだろうなあ」
船員が不吉がっており、少々申し訳なくは思ったけど……。
「ぼくが害虫を排除したがってるのを、察してくれてるのかなあ」
ゴソゴソと服に潜り込んできた、スルリとした軟固い感触が心地いい。
「まるでアユムを守るかのように……そんなにまで懐いてる魔獣は、始めて見る」
「たまに寝ぼけて背骨が軋むほど締めつけるんです、甘えん坊で困りますよ」
「背ぼ……それは、確かに困るだろうな」
ラクシュが引きつった笑みを浮かべる、まだ慣れないみたいですね。
どうあれぼくにとって、カレシーはなにより心の癒しだ。
「おいアユム、勝負しろ!」
ジャーラフも船に乗るのは初めてで、少し調子が悪そうだった。
もう慣れてしまったのか、チェスを持ち詰め寄る。よほど気に入ったのだろう、製作以降顔を合わせれば勝負を挑んできた。
キミには最初、ずいぶんと嫌われていたっけ……。
ゲームをしようと気楽に誘う程度の、友人になれたのなら嬉しい。
「ジャーラフ……今ぼくの思考力は、「大地を踏みしめたい」だけだぞ……」
とても残念だが断り、ラクシュに手合わせ願ったらと勧める。苦手なのか嫌っているのか分からない、以前2人の間になにかあったのだろう。
詮索するのもどうかと思っていたけど、正直そこまで気が回らなかった。
最初は眉根を寄せ決して近寄らない、物陰から安全か様子をうかがう。警戒心は好奇心の裏返しでもあり、遊びの要求に負けイソイソと準備を始めた。
ジャーラフらしいとほころぶ。
しかしラクシュはチェスを知ってはいたが、コマの種類もルールも地域によってまだ統一されておらずむしろ混乱する。
しかも船が揺れる度にコマが飛ぶのだ。
どうにかしろと言われても、お願い背を揺すらないでください。
「ジャーラフと作ったコマもあるんだ……ルールが固定する16世紀を待つより、ローカルルールでも考えようかなあ」
ナインメンズモリスはノルブリンカにプレゼントしてきたし、シーツに線を引いたり船板を傷つけるのはためらわれた。
ならばと、トランプを提供する。
羊皮紙に記号と数字を描き込んで、計52枚+ジョーカー。「アラビア数字」へ興味を持って貰うため、暇を見つけては製作しておいたのだ。
まずは数字からでいい、そして計算へ、いずれは文字へ――。
「神経衰弱なら……数字が不得手でも、遊べるんじゃないかな……」
ヨーギとルタが興味深そうに覗いてたので、提案してみた。
「アユム、これまた珍しい物を作ったな!」
ラクシュ――リグ公ラクシュミーは、「パシュチマ王国」の王太子である。
すでに立場がありながら、ヴィーラ殿下の婿にと名乗りを上げたのだ。意外とも思える打診であり、現在の最重要人物だった。
年齢は20歳前後だろうか、一見して若き貴族に感じる。
肩口まで伸ばした茶色の髪が無尽に跳ね、ライオンのたてがみを彷彿とさせた。少し厚手で焦げ茶のプールポワン、襟や袖の折り返しは黄色い毛布。内側に金属片を張り一応の防御は考えており、長く垂らしたベルトが尻尾に見える。
佩刀こそしていないが、手袋にナックルダスターを仕込んでいた。
「これとこれ、同じ――!」
ヨーギはリグ公爵の護衛をおおせつかった、因果伯の1人である。
ケンタウロスの少女で見た目はぼくより少し下、13歳ほどだろうか。
栗毛の毛色で馬の四肢に白い靴下を履く、額から鼻先に白い模様が通っていた。淡い黄白色の前髪を切りそろえ、背まで届く太い三つ編みがたてがみを思わせる。上半身のみ水色のコットと白のシュールコー、馬の耳をぴんと立てて見せた。
少女の姿ながら文字通り「馬力」があり、荷の運搬は全て彼女が担っている。
何事もマイペースに行動しては注意されていた。
「それは記号ですよ、こっちの数字を合わせるのでス」
ルタはリグ公爵の護衛をおおせつかった、因果伯の1人である。
山羊の角と脚部を持つパーンであり、外見は子供にしか見えない。
服は上半身だけで薄い緑の貫頭衣と深緑のベスト。腰ベルトに大小の袋が幾重も連なり、唯一護身用の短剣を佩いていた。薄い黄色の巻き毛と小さな髭が、可愛さに拍車をかけている。
姿形は子供のそれであるが、真面目な物腰で執事のように旅の支度や細々とした準備を一手に引き受けていた。
彼がいないとこの集団はなり立たないだろう、短いつき合いながら理解する。
「これと……これ! っし、後はこれとこれ――どうだ!」
「ぬう――くっ! よっし、もうひと勝負っ!」
場に伏せられた6枚をラクシュが連続で当て、両手を挙げ勝利を喜ぶ。
ジャーラフの手元には2組、ぶっちぎりでビリの様子に悔しがって叫んだ。
――ジョーカーを除く52枚のカードを裏にして場に伏せる。
2枚めくって同じ数字のカードなら手元に取り、外れたら交代。伏せたカードがなくなったら終了、カードを多く取った者が勝ち。
神経衰弱は記憶頼りの単純なゲームで、数字を知るのに適していると思う。
彼女も最初は表にしたカードが同じなのか、ぼくに確認したり見比べていたが、今はほぼ瞬時に判断できていた。
ジャーラフは因果伯――身分的には貴族だが、読み書きはできない。
ウールドと同じく、その才を求められて今の地位に就いている。家庭教師や教会などで、教育を受けてはいないのだ。
そのせいか新たな知識を得るのが、楽しくて仕方がないのだろう。
急ぎカードを伏せて広げ、次こそは勝つと青い瞳が燃えていた。
ナインメンズモリスやチェス、トランプを理解する上達速度を見れば、けっして只人に劣っている訳ではない。
単に「必要がなかった」だけである。
「次はババ抜きもいいな、数字に慣れてきたら7並べを薦めよう」
数の位や桁を認識できるだろう。
いつの日か彼女に、ぼくが製作した本を読んで貰いたい。そして彼女が描いた、彼女だけの物語を読んでみたい。
「別に活字中毒ではないけど、なんだか夢が膨らむなあ」
少しずつではあるが理解を深めるジャーラフを見ていて、頬が緩んだ。
天板を船員がバタバタと駆け、操船に次点の準備にと忙し気に働いていた。
号令と呼応が船倉の閉じた空気に反響し、方向も距離も分かりにくい。鍛冶場の騒音に負けじと、大声で怒鳴るホーマ親方を彷彿とさせる。
ふと顔を上げると、甲板へ続く階段の上に、若い船員がおぼろげに見えた。
まだ十代前半だろう、表情は分からないが神経衰弱をしている皆を見ている。
ぼくと目が合ったのか、気まずげに顔をそらした。
「おいコーティ、そんなとこでなにしてる!?」
後ろから声をかけられ、若い船員は驚いたのかなんでもないと叫び駆けていく。
一連のやり取りに、皆の視線も甲板への階段に集まる。
「騒がしくてすみません、おや……それはなんですかな?」
騎士と呼んでも通用するだろう、堂々とした体躯の船長が下りてきた。
青色のプールポワンを着て、黒い羽つき帽子を被る。袖まくりをしたたくましい腕には刀傷があり、太い革ベルトに短剣を差していた。
ただ最大の特徴は……全身のウロコと、太い尻尾。
カター船長は二足歩行のトカゲ、リザードマンである。サーガラで同種族を幾度か目にしたけど、その迫力に息を呑むのは否めない。
「トランプってゲームだそうです、彼が作りましてね」
「ほう、ゲーム……!」
ラクシュが目で指し示し、ぼくは微妙な間違いを指摘する気力もなく笑う。
船長は腕を組み、司教を思わせる太く重い声で目を光らせた。
「発せられる声が、アニメの吹き替えだなあ」
誰も理解できない独り言。
その立ち並んだ鋭い歯を見るたび、声帯はどうなってるんだろう……なんて大変失礼なことを思ってしまう。
「亜人」も魔獣同様、向こうの世界の常識からかけ離れた存在。
「人」と「他の生物」を決定的に分けるのは、言語能力の発達だと言われている。
仲間や子供と意思疎通を行い、経験としてを残す精神の伝達行為。過去の知識が身を助け、未来への思考が種の生存を導く。
亜人は生物学的に、どんな歴史を歩んできたのだろう。
「「パシュチマ連合王国」には、亜人の国があるそうだ。いつか訪れたいなあ……今は取り敢えず、どこの大地でもいいけど」
「ゲームには興味がありますな。いや順風満帆なら問題ないのですが、凪に入った時はどうにも暇を持て余しましてね」
詳しく話を聞きたいと言いながら、ルールよりいくら賭けているのかと問う。
船員って博打好きのイメージがあるけど、海と風に囲まれ本などの娯楽もなく、刺激が欲しくなるのだろう。
「あ――…っカター船長、そろそろ」
船長の巨体で見えなかったが、一つ咳をしてキラナ船員長も下りてくる。
同様に青色のプールポワンと短剣を差していた。
立場を明確にするため、他の船員とはひと目で異なる洋装。船長と船員長だけ、短剣の所持が許されているのだ。
万一の場合を想定しての護身用だが、儀礼的な意味合いもある。
「まあ形式よりも、見栄が大きいですね」
出航前にキラナ船員長に訊いたところ、苦笑しながら答えてくれた。
カター船長がいたずらをみつけられた子供みたいに、バツの悪い顔をする。
こちらも一つ咳をすると、司教の声で申し訳ないがと前置きをして続けた。
「実は天候が崩れて嵐になるそうです。明け方には落ちつきますから、甲板に出ずこのまま船倉で寝ててください」
……地獄の宣託を受ける。
「潮にうねりが出てきましたからね、出航は延期すべきだったかもしれません」
キラナ船員長が申し訳なさそうに会釈しつけ足す。
「この季節には珍しく、岸から沖へと海流が発生しております。向かい風であればサーガラへ引き返す手段もあったのですが、寄港もできません……」
季節によっては数週間、数ヵ月もの間港に停泊していた記録もある。
先ほどから船員が忙し気に走り回っていたのは、嵐対策のためなのだ。
「真面目だからなお前は、そう自分を責めるな」
出荷の問題もあったのだからと、カター船長が口の端を上げ肩に手を置く。
長いつき合いなのか、キラナ船員長も受けて背をただした。
「キラナは天候が読めるのですよ、それでずいぶんと助かっていましてね」
「……今褒められると、むしろ落ち込んでしまいます」
笑いが起こりカター船長が大仰に謝る、外見と違う懐の広さに好感が持てた。
「ところであ――~…それはなにかの、呪いですか?」
船長がぼくの枕元に並べられた木炭を見て、若干困惑しながら問う。
ある意味そうかもしれないけど、要らぬ誤解は生まない方がいいかな。
「木炭……炭には、脱臭効果があるんです」
木炭は蒸留水用に常備していた。揺れはどうしようもないにしても、匂いの問題だけでもなんとかできないか。
船倉の積み荷は魚介類の燻製や塩漬け、油や香辛料が複雑に混ざり合っている。
埃と体臭をブレンドし、鼻腔を悪い方へと刺激するのだ。甲板に出た方が空気はいいのだろうけど、そのまま海に吸い込まれそうで……。
泳げないぼくにとって、海は昔から鬼門だった。
「これで匂いも抑えられ、快適な船旅となるでしょう!」
先入観によって生まれるプラセボ効果に期待してみたのだ。
効き目があると思い込むことで改善をもたらす処方……偽薬と分かっていたら、効果はないけど。
神経衰弱をすれば無敵だった、記憶力のいい自分をここぞとばかりに呪う。
「彼の国の風習だそうですよ」
「ほう、そんな国もあるんですなあ」
ラクシュが木炭をつまんで、上手く説明してくれる。海上貿易を行っていれば、地方によって違いがあるのは熟知しているだろう。
ありがたくも深く追及はされなかった。
ヨーギとルタも触っていたが、ジャーラフの視線に気がつきゲームに戻る。
「キミ、神経衰弱をそこまで真剣な顔でやらずとも」
負けが込んで、青い瞳に殺気を放っていた。
実はめくられた数字が記憶にあると、ジャーラフはそれ一点をガン見するので、他者にモロバレなのだ。
「教えてあげるべきか、気がつくまで黙っておくか……悩ましいところだなあ」
一途に殿下に忠誠を尽くす、彼女らしくはあるけど。
カター船長がトランプを興味深そうに眺め、ルタが何事か説明していた。
本当に賭け事が好きそうだと見ていたら、キラナ船員長が囁き声で訊いてくる。
「コーティ――先ほどの若い船員が、なにか失礼をいたしましたか?」
船倉を覗いていた船員のことだろうか。
「いえ、ただこちら見ていただけのようです」
変だなとは思ったけど、出航前からぼくらの存在はけっこう目立っている。
行商人には見えず、なんの集団なのか不審がるのは当然だろう。
「それならよかった。なにか問題がありましたら、遠慮せず私に伝えてください」
「それは――…」
「キラナ船員長――っ! ああっ船長も、どうやらきやがったようですぜ!」
ふくみのある物言いが気になったが、船員が慌ただしく駆け下りてきた。
挨拶をし足早に指示を行い、2人は船倉を後にする。しばらくして篠突く豪雨が天板を叩き、横にいる者の声も聞こえなくなった。
予想通り嵐に突入してしまったのだ。
さすがと言おうか並べられた荷は容を保っている。だけど隙間に寝転んだぼくの容はすでに形容できる代物ではない。
「ははっ……もう、好きにして」
むしろ笑いが込み上げてきたのを微かに覚えている。
大変ありがたいことに、そこでぼくの記憶は途絶えた――。
☆
視点が固定しない……漂ってる感じだ。
気がつくと、子供のぼくが大人の影に囲まれ何事かを訴えていた。
一人称視点であるはずなのに、夢で見る時は三人称視点になるのはなぜだろう。
黒髪の小さな後頭部、表情は見えない。
だがぼくは身振り手振りで、なにかを必死に伝えようとしていた。
どうすれば理解して貰えるのか、身に起きた困惑に孤独感が肥大し支配する。
焦りが思考を乱し、言葉が伝わらないのがもどかしい。
大人の影が大きく揺れ広がり、世界を包んでぼくを見下ろす。
影の中、ぼくだけが放り出された。
追いつきたいのか逃げたいのか、黒い雲の上を足をもたつかせて走る。
「急がないと、間に合わない!」
焦り足掻くも、蹴る脚は頼りなく速度は上がらない。
これが夢だと気がついたぼくは、それでも三人称視点で必死に走る。
遥かに遠ざかり、消えてゆく光。
今ならばもっと上手く説明できるのだろうか……。
優しさと言う無関心な目が、ぼくの記憶に刻み込まれていた。
――誰かが走っている音がする。
夢と現実がリンクし、精神の逃避行から回復したのか目が覚めた。
「んん……今、何時……」
懐かしい夢を見たせいで枕元や壁に時計を探し、気がついて苦笑する。
船倉は変わらず大きく揺れていた。自動操船などは当然ないし、当直として必ず起きている者が必要となる。
だけど他に慌ただしい音もしない、嵐の危機は抜けたのかな。
以前「セイルトレーニング」と呼ばれる集団行動や共同生活を養う映像を見た。
雨降る帆船の甲板を走り回り、交代しながら常に気を張り作業する。こちらにはライフジャケットなどなく、船員は常に命の危険をともなう生活だろう。
「異世界の……生活か」
己の状況を改めて独語する。
格子状の小さい明り取りの光に目が慣れ、周囲を見渡す。皆はトランプをしながら寝てしまったのか、シーツにカードが散らばっていた。
「誰の手番だったのかな、見事に神経が衰弱してるなあ」
笑いながら数をそろえかたずけていると、何枚か汚れヨレている。
羊皮紙では強度に限界があった、こればかりはいたし方ない。
「ずいぶんと気に入ったようだし、予備に数セット製作しておこうかな」
船長にプレゼントしてもいいのだけど、商船を扱ってるしこれの価値に気がつき驚いてしまうだろうか?
どのみち船員長が渋い顔をするだろうなと、想像したら頬が震えた。
喉の渇きが気になって革袋を手繰る。手持ちのハーブティーは飲み干しており、調理室でなにか貰えないかと階段へ向かう。
「できれば水、無理なら果物を――」
しかし船上での水は、陸以上の貴重品。おそらくはエールやワインしか貰えないだろうと想像はつく。
いつか美味しく感じる日がくるのかなあ……苦笑しながら甲板に顔を出したら、船員に声をかけられる。
「オイ坊主いい時に起きてきたな、守護聖人様がいらしてるぞ――!」
マストから少し離れた船縁で、年季の入ったカストロ髭が笑顔に揺れた。
「――セントエルモの火だ!」
「セント……なに?」
甲板に上がり、風と揺れに足をとられないようロープにしがみつく。
船員が指し示す先に目を移すと、見張り台のさらに上、マストの先端が青紫色に発光し揺れていた。
ライトなど電気製品のない時代、なんと幻想的な灯火だろうか。
嵐の後、湿気やチリが摩擦によって静電気を帯電する。尖った先端や鋭い部分に電界が集中し、コロナ放電が起きているのだ。
発火して見えるが危険性は少なく、蛍光灯と同質の自然現象である。
怪異にも思えるが、落雷などから船を護る航海の縁起物とされていた。科学検証の行えないこの時代、それはまさに神の御業であったろう。
「オーロラとブロッケン現象とセントエルモの火。いつか見てみたい3大光景が、まさか異世界でかなうとは……」
ぼくはただ、茫然と見上げ魅入っていた。
それだけこの、自然が時折見せる現象に興味が沸くのだ。
「見張り台に人影が見える、あそこに上がればもっと近くで――」
歩き出す足が船酔いを思い出し、眩暈に耐え切れず船縁にもたれかかった。
その拍子に「ポケット」に入れておいたトランプが足元にちらばる。情けなさに苦笑していると、船員が笑って肩を支えてくれた。
「オイオイ、無茶すると海に落っこちるぞ。まあ船乗りならたまに拝めはするが、坊主は幸運だったな」
見張り台に縄梯子はない。格子状のロープ――「シュラウド」を伝い、上がって行くことになる。
例え酔っていなかったとしても、素人が嵐の中で向かうのは自殺行為だろう。
「幸運か……そうですね」
自分の身に起こった奇天烈な事態。
向こうの世界に未練がない訳ではない。だけど目まぐるしい状況の変化に困惑や不便は感じれど、嘆いたことはなかった。
なによりぼくは、見つけた――のだから。
黄金色の髪を輝かせる少女は、今頃どうされているだろうか。
「んん坊主、なんだそりゃ?」
気分がよくなりカードを拾っていると、船員が珍しそうに覗いてくる。
「トランプと言います、ゲームに使用する道具ですね」
「ほう、ゲーム……!」
カター船長よろしく、船員の目が光った……
あおぎ見るとセントエルモの火が、誘うように揺れている。
ぼくは肩を借りながら、船員用の船室へと引っ張られていく。
――早朝、海は昨夜の嵐が嘘みたいに凪いでいた。
ゆっくりとした波だけが、帆船を同じリズムで揺らす。見張りの交代にきた船員が上空に声をかけるも、返事のない影に怪しむ。
シュラウドを慣れた手つきで上がり、見張り台について喉を詰まらせる。
心胆の震えが手足に伝播し、マストから落ちそうになるのを辛うじて耐えた。
肺からただ、小さな悲鳴と嗚咽だけをもらす。
見張り台の手摺に黒い羽つき帽子がひっかかり、風に煽られている。
騎士を思わせる堂々とした体躯に、全身のウロコと太い尻尾。只人とは明らかに違う様相、顔は見えないが間違えようはない。
カター船長が血の海となった見張り台の中で、うつ伏せになっていた。




