二夜 プラーナ・ヴィーラ殿下
「空気が違う」
かつて海外に旅行したおばさんはそのように評価した。
「空港を出ると風の質感が違う、肌を焼く日の強さが違う、土地の匂いが違う――空気の違いが異国なのよお!」
リンゴを通じて万有引力を発見した、ニュートンもかくやの勢いで語る。
先ほどからぼくは独りで納得していた。
「そうだ、空気が違うんだ」
中学校の乾燥した空気から一転。石に冷やされた空気の冷たさ、どこか懐かしい油の匂い、生活臭も違うかもしれない。
感じるすべてが伝えている、ここは「異なった世界」なのだと。
「遊園地のアトラクションで、この雰囲気は出せないなあ」
「こっこやつ、我のローブをまくろうとしおったぞ!!」
「っう!」
それは誤解です――反論も許されず黒い大理石の床にたたきつけられ、おでこが鈍い音をたてた。
鼻が非友好的な調べと同時に歪み、生暖かい液体が吹きこぼれる。
昆虫採集の標本となり、後頭部を中心に固定された。体が苦痛を覚悟して硬直し――ぼくの世界は停止する。
「なるほどこうなると、身動きが取れなくなるなあ」
ひとごとみたいに分析していた。
視線だけでも抗じると、ローブがまくれふくらはぎが顔を覗かせている。大理石ほど白く滑らかな左足が間近にあった。
石床を噛む足指が震え、愛らしいくるぶしがしなやかな脛を引き立たせている。
この脚が体を支えているのだ。
「嗚呼、ぼくを踏んでいるのだ――」
「裸足が悔やまれる、ハイヒールだったら後頭部を貫かれていただろうに」
心で反論しつつも、向こうではついぞなかった刺激に身をまかせた。
高鳴る鼓動が床を伝わり、少女に聞こえてしまわないか。悶えにも似た恍惚に、我知らず笑みがこぼれる。
「この……痴れ者がっ!!」
少女が憤怒の表情を隠そうともせず、脚にさらなる力をこめた。
双方の瞳が炎を撒き散らし、太陽から突出したプロミネンスを連想する。熱波が人類滅亡の効果音をもたらす。
あるいはギャラルホルンがふさわしいか、甲乙つけがたい。
「…――! ――さいっ!」
誰かが抑制を求めていた。
踏まれているぼくより、周囲の方が恐怖を感じていたらしい。
「お気持ちはわかりますけど、二人の大切なひとときを妨げないでください」
鼻血で呼吸がし辛く喘ぐ、苦痛が限界に達しようとしている。
頭蓋骨が抗議の悲鳴をあげ――…。
「……っえ?」
唐突に、ぼくは自由となった。
「空気」を読まず誰かが割って入ったのではない。まるで電気に弾かれたように、少女が足をどけたのだ。
「なぜ止めるのです? ぼくは何か、失礼をしたでしょうか!?」
おあずけされた無念さに心で叫び、少女を上目遣いで見上げる。
硬直を強いていた全身の筋肉がマヒしていた。頭や手足は弛緩した肉塊となり、ダランと垂れ下がり役に立たない。
「まるで、今産まれ落ちたみたいだ」
苦労してあお向けになり、肩で息をしているのに気がつく。
中断された口惜しさはあっても、また踏んでいただけると恍惚になっていた。
「我はあんな……っなんだこの無礼者は!」
少女が形のよい眉根をひそめぼくを罵倒する。頬を赤く上気させ、耳朶の熱さを自覚したのか隠そうとして失敗。
じだんだを耐えるだけの矜持は保てたようだ。
「なぜ我の足にっ! ローブを、この……っ!」
ぼくの息がかかった足の甲を凝視し、憤まんやるかたないと激怒していた。
八つ当たりとばかりに――いつの間にか黒い大理石から下りうずくまっている、グラマラスフードを睨みつける。
薄紅色の口が咆哮をあげた。
「スーリ……っ」
何か意思の疎通があったのか、少女の言葉が途切れる。
交差する視線が浪波を立たせ、徐々に鎮まっていく。グラマラスフードが口元を押さえたまま、会釈の身振りをみせた。
「はぁ……っ功を許す、好きにせよ!」
少女はイラだたしさと滴る汗を振り払い、天井を見上げてひとつ息を吐く。
最悪の事態はまぬがれ、安堵が場を支配する。
「M属性か――その不埒者を謁見の間へ引っ立てろ、ふさわしい下知を下すっ!」
少女が苦虫を噛み潰し、周囲を一瞥もせず部屋を後にする。
いきなり唯一の出入口である扉が吹き飛んだ。ぼくを踏んでいた脚が風を切り、蹴りつけたのだ。
重低音が石壁を揺らし、振動が天井から小石が降らす。
ヒンジと鋲が抗弁を試みるも無視された。歴史を感じさせる扉は、少女の不満を一身に受け床板と化す。
「――はっ殿下! 殿下どうか、随行をお許しください!」
少女の予期せぬ行動に驚きつつ、即座につき従ったのは巨漢フードのみ。
「うん、そうでなくっては」
ぼくの賛辞は、はたしてどちらに対してか。
驚きから焦燥、衝撃から安堵。緊張と解放を短時間で繰り返した周囲の騎士に、著しい思考の低下があっても仕方がない。
「っ……で、殿下?」
「殿下はどちらに――殿下、どうかお待ちをっ!!」
少女の不在に気がついた騎士が顔を見合わせ、焦りの叫び声をあげる。
短距離走者のように「バタバタ」と駆けだすと、フードたちも遅れて追従した。
「遅いっ!!」
容赦のない巨漢フードの叱咤が埃っぽい空気を震わせる。騎士たちの対応から、少女は身分の高い方なのだと推測できた。
「殿下」と、つまりは「王族」に連なるお方。
「ん……っふう」
上半身を起こすと、床に接地していた部分が湿気で体形を描いている。
擦れた笛の音が呼吸音だと認識できなかった。肌の冷たさと吐く息の暖かさで、季節と――自分が全裸なのを思い出す。
裸足に力を入れ、全身を鼓舞して「ガクガク」と立ち上がる。
「……本当に、産まれたての小鹿だなあ」
先ほどの自問に自答し、石壁を支えに少女の後を追った。
「そうだぼくは、炎に輝く瞳に……インプリンティングされたんだ」
少女と離れたくなかった、狂おしいまでの切望が心をつかんでいる。太陽を失い氷河期と化した星で、生きれはしないのだから。
鼻血はすでに止まり、赤黒いシミをマーキングしていた。
☆
幾度かの誰何はあったと思う。
倒れてくる石壁を押さえ、頭と肩を擦りつけて歩いてたので定かではないが。
少女への沸き立つ気持ちだけで、揺らぐ意識をつないでいた。
「…――ん?」
気がつくと漆黒のローブをはおり、通路の真ん中を歩いている。
「慌てずに歩いてください、もう少しで抜け出せますから」
グラマラスフードが自身のローブをかけてくれたようだ、半裸姿が痛々しい。
シニヨンできっちりまとめた蜂蜜色の髪が乱れ、色っぽくなっている。リネン製のブラからはみ出るたわわなメロンを、ぼくに押しつけていた。同じくリネン製の腰で縛った紐パンから、やや育ちすぎの大根がにょっきりと生える。
頬が熟したリンゴとなり、息も荒く露に濡れていた。
「次の角を、右に曲がりますからね」
ふと頭半分は大きい彼女が、真横で息を弾ませていて不思議に思う。
独りで歩いてるつもりだったのに、いつの間にか肩を組まれている。小さな声で案内されていたことにもやっと気がついた。
「ッ――ワア、モウシワケありまセん!」
頭を振ってボーッとする意識を覚醒させる。
遅まきながらしないよりましと、謝罪と感謝を告げた。
「モッモう大丈夫です! ローブも着せてくださり、ありがとうございます!」
「――っっ!?」
……人はここまで目を見開けるのかと、称賛したいほどの凝視。
怒りか疑問か、彼女は口を数度開け閉めしてから視線を転じてしまう。
「正気に戻……回復されたのなら幸いです。いろいろとお訊きしたいのでしょう、召喚についても」
口ごもりながら、何かを必死に伝えようとする。
「責は私が必ず受けます、今はどうか心を静めていただけないでしょうか」
心を静める……ぼくは何か、危ないセリフを発したのか?
手違いや勘違いがあっては問題となる、訂正しなくては――だけどそれよりも、ぼくは少女のことしか頭になかった。
状況を理解してなお、訊きたいのは少女の詳細ばかり。
殿下はどれほどのご身分なのでしょうか? お仕えするのは可能でしょうか? 主従の絆を築けるでしょうか? また、踏んでいただけるでしょうか!?
知りたい願いや希望とする想いが――。
「あのお方は、プラーナ・ヴィーラ殿下です。ヴィーラ殿下とお呼びください」
懇願を舌先に乗せるより先に彼女が告げる。
「あとはすべて、ヴィーラ殿下がご決断されます」
それ以上必要のない、完璧な答えを得た。
オレンジ色の光が周囲を照らし出す。見ればコロポックルフードが燭台を手に、後ろを追従している。
周囲の石壁と妙にマッチした、取っ手のついたアンティークな燭台。
重厚な石畳の通路を幾度も曲がり、肩を借りながら上り下りする。記憶力の良さを自負しているぼくでも、いったん立ち止まる複雑さ。
「まさに暗闇の迷宮だな、これもアトラクションとは思えない。召喚の部屋か……重要性を思えば、所在を不明瞭にするのも頷けるけど」
先の見えない複雑な迷路を、冒険者でもない三人が歩く。
確信をもって進む彼女は、内部情報に詳しいのだろう。先ほどの立ち位置でも、重要なポストであると示唆していた。
「痛……っ!」
その割には独創性のない石畳批判をし、裸足の裏を見てはコロポックルフードと口喧嘩をしている。
長い間放置されていたのか、石畳には小石と埃が積もっていた。
でもぼくには蓮の葉の上を、軽やかに舞っている心地よさである。精神的にも、肉体的にも。
「ヴィーラ殿下……」
――なんと活力と勇敢さを表すお名前。
何度も繰り返し、ときに甘噛みし、新たな主の誕生を祝福すべく謳う。
「ヴィーラ殿下……っ!」
――頬がゆみ丹田が震える最上級の高揚感。
ぼくの様子を怪しみ、覗きこんだ完熟リンゴと目が合う。
会心の笑顔を返すと、咳払いのあと何も見なかった聞かなかったと流された。