十七夜 古傷
スーリヤ様に作成していただいたレシピを、集った商人や行商人へ渡す。
しかし行商人の多くは、お金の計算はできても文字は読めない。ならば契約しているパン店舗と屋台を見せ、勉強してもらうことなった。
実地研修である。
一般的に商人ですら、文字は読めるが「筆記」できる者は稀。
帳簿をつけ手形を発行する上流階級の専門店や、出入りの商人だけができた。
貴族内でも所領の政務を遂行する大臣クラス。領主は所領経営するので、筆記ができないと家令がつけた帳簿管理が難しい。
騎士は礼節や武術に重きをおき、読み書きはせいぜい自分の名前まで。
教会学校に写本をする修道士はいるけど、本は貴重であり読み聞かせと呼ばれる「耳学問」が中心だった。
「義務教育を九年受けても、読めない書けない漢字がある。ましてやこの時代ならさもあらんか……」
そして筆記に必須な没食子インクの製造も大変手間取り、高級かつ出回らない。
必然「口頭」があらゆる伝達、交渉の基礎となっていた。
本は鎖で鉄柱に繋がれた「財産」である。「一冊で家が建つ」ほど高価となり、さらに読まれなくなるのだ。
一部の優遇とならないよう希望者を募ったら、結局全員引き連れて周った。
ウールドのおかげでやる気が感じられ、質問が相次ぎ説明にも力がこもる。
「――ですがレシピや味より、大切なのは何より安全です!」
「はっはい!」
食品を扱うので、職人には衛生観念をくどいほどたたきこんでいた。深く頷く瞳にどうか伝わってほしいと願う。
特許状の説明と――なにやらわからない、熱き勢いをもたらせて解散となる。
「これで一応の目的は、果たせたかな」
あとはスーリヤ様に、行政措置のための申請をしてもらおう。
「なんだかお願いしてばかりだし、今度オールドファッションを作ってみようか。リンゴがまだ手に入るなら、アップルパイもいいなあ」
実は屋台の三品は、レシピがあってもそう簡単には作れない。
特にソース関係は、化学反応による発酵と熟成の塊であり厳しい。料理本を読むだけで、誰もがプロになれるわけではないのだ。
なぜこうするのか、なぜ必要なのか、試行錯誤しないと「理解」に繋がらない。
目指すゴールがある分歩きやすいだけ――まあ、けっこう重要だけど。
「作れないとわかっていて、なぜ公表するのだ?」
因果伯の皆はこの点が理解しにくかったのだ。
「試行錯誤は、けっして無駄にはならないからです」
今日レシピを受け取った方たちに、「新しい世界」の発想が必ず芽吹く。
今は花が咲かなくとも、芽を見た人がさらに種を蒔く。繋いでいく小さな芽は、きっと「歴史」になるのだから。
☆
「いやあ――~しっかし、盛り上がったなあっ!」
ウールドが上機嫌で胸を張る、ああいう大騒ぎが好きなんだろうなあ。
「貴族に見えるハデな服装」を脱いで肩にかけ、いつものノースリーブ。いつ見ても寒そうだけど、本人は知らん顔をしている。
「さて予定外の研修をしちゃったし、一時間もすれば日が沈むかな」
今日はホーマ親方と打ち合わせの予定だった。南西の公衆浴場アラヤシキから、東の外側城壁にある鍛冶場へと直接足を運ぶ。
親方はほとんどの時間を鍛冶場で過ごす生粋の職人。
実は「アラヤシキ」でちょっとした問題が発生したのだ。公衆浴場の噂を聞いた貴族がお忍びで現れ、平民を追い出そうとしたらしい。
『ええいわずらわしい、さっさと失せろっ! ありがたくもこの私に相応しいか、直々に試してやろうというのだ!』
ぼくにはまだ特権階級の意識が鈍く、対応がなおざりになっていた。
番台が機転を利かし、「マナスル伯爵の許可証」を出して事無きを得る。権威を振りかざす者は、より上の権威におもねるのだ。
「番台グッジョブ!」
しかし今後も同じ問題が起きないとは言い切れない。
評判が広まれば可能性はさらに高くなる。そこで急遽南東の貴族区に、二軒目の公衆浴場建設が決定した。
貴族のメンツを刺激し、浴場と側溝の建設費を吐き出させる――。
不思議なことに北の農民区に、三軒目も同時に建設中なのだ。市民からは陳情を受けていたし、側溝に適した傾斜の確認など準備はしていた。
だけど街中は水場に遠く、貯水の問題が解決できず難航する。
それがなぜか建設費用は二軒目から流れてきて、簡易型ではあるが上水道を設置できる見こみが立った。
「より上の権威」が人の悪い笑みを浮かべ、決算を許可していたのだ。
さすがは人気のある領主である。
「まあ入浴料金設定を南から北へ、大中小と変えられるのは都合がいいか」
選択肢の幅が広がるのは、歓迎すべき事例だ。
お礼にと口が滑り、遠心分離器と手動ハンドミキサーの話をしてしまった。
「生クリームが作れるのです」
それは何かと問われ、答えて喰いつかれ、折に触れて持ち出され根負け。
薪ボイラーの製作で忙しいホーマ親方に、設計図を届けにいくことになる。
「親方にはまた、無理をさせてしまうなあ」
苦笑し頭をかいても、あれば便利なのはこの上ない。
なにより泣く子と、「より上の権威」を合わせ持った方には弱いのだ。
「そうだウールド、南の『サーガラ』って港湾都市まで何日かかります?」
「王道を使う直通路なら、商人の馬車で四日ってとこだ。軍の急使ががんばりゃあもうちっと早いか、どうした?」
「馬車は常歩で時速約六キロ。休憩を挟み一日四〇キロ可能として、サーガラまで四日なら約一六〇キロの距離ですね」
「はえ?」
徒歩は時速約五キロ、一日三五キロ可能としてとして五日。
河船なら一日一〇〇数十キロ、いやナディ川の流路延長がわからない。曳舟道を使うとしても、行きと帰りでは違いすぎる――。
「積荷の増減でも変わりますけど、けっして近いと言える距離ではないですね」
「……お前さん目先が利くねえ、上流階級の商人でもいったん持ち帰るだろうに。頭ん中にアバカスでもつまってんのか?」
板に縦溝を掘って小石などを上下させる、そろばん状の計算器具である。
でっかい手が頭に迫り、反射的に避けてしまう。
「レっレシピを受け取った行商人がサーガラへ、向かうと言ってたんですよ」
今は通信手段がほぼない、行商人の「噂」がある意味最大の情報源である。
ギルドに飛脚制度が誕生したのは一四世紀以降。まだ普及しているとはいえず、実質貴族や上流階級の独占だった。
「今回の説明会の意味、『特許状』と『歴史』ともう一点――『噂』を広める!」
『マナスルで奇天烈なことが起こってる』
娯楽の少ない時代、噂は重要な興味と関心を引く……良きにしろ悪しきにしろ。
ヴィーラ殿下に下された命令は、「この国を磨きあげろ!」である。マナスル領だけではなく、他領の情報や状況も視野に入れたい。
行商人に噂の流布をお願いすると、そのほうが客寄せできると喜んでくれた。
ありがたくも先触れ――サーガラ領領主への、書状も引き受けてくれる。
幸いマナスルではスーリヤ様に直訴できた。だが通常は何をするにもまず領主へ目通りしなければならず、勝手な振る舞いは後々問題を生む。
それほど時間的な余裕はない、そろそろ「次点」を考慮すべきだった。
「あっほかの因果伯――サーガラへ派遣された方たちのなかに、O属性の『風舌』を使える方はいるんですか?」
そういえば何名かが件のサーガラへ向かっていた。個人の「カルマ」を認識し、テレパシーみたいに意思を伝えられるそうだ。
この時代ではとんでもなく得難い「力」である。
「いるのなら紹介してほしいんです、連絡手段として便利ですしね。できれば今後も情報を中継してもらえたら――え?」
なぜか二人とも黙ってしまい、しばし呆然としてしまう。
アカーシャはいつもどおり無反応だけど。
「んん――~…なあアユムに、悪気がないのはわかるが――」
ウールドが珍しく口ごもると、代わりにイーシャ卿が前に出た。
気配に色があるのなら違って見えるほど、美貌に影が射している。
「アユム卿、勘違いしてはなりません。此度ヴィーラ殿下が求めておられるのは、『アラヤシキの知識』です。因果伯が護衛しているとはいえ、必要以上に干渉する権利はございません」
優美な眉が完全なる拒否を告げていた、立ち入るなと。
「へっ貴族服着た護衛ねえ。まあ落ちつけよねーちゃん、目立っちまうだろ」
ウールドが苦笑して返す。
「考えなしの狼はお黙りなさい、遠吠えなら月に向かってなさい――破廉恥狼」
「最後のはなんだコラっ!」
イーシャ卿が先に歩いていってしまい、その背にウールドが吠える。注目を集めていた四人のそばから、驚いた市民が早足に離れた。
ぼくといえばうなだれ、圧倒してくる気持ちを必死に抑えこむ。
「あ――アユム、気にすんなよ」
肩で震えるぼくに、ウールドが優しく声をかけてくる。
だけど頬の高揚は止められなかった。
「嗚呼、反論したい!」
ヴィーラ殿下は「アラヤシキで得た知識、経験 能力のことごとくを捧げよ!」とおっしゃったんです、国を磨きあげる手腕をこそ望まれた。
勘違いしているのはイーシャ卿ですよと。
イーシャ卿はどんな持論を展開し、罵倒してくれるだろう――…胸が高鳴る。
でもいいのだろうか、いやダメに決まっている。出会ったばかりの方に征服欲を強要するなんてもっての外だ。
なによりヴィーラ殿下意外に、求めてはいけないのだ。
でも、それでも。嗚呼、なじられたい批判されたい! ウールドにしたように、暴言で激しく罵ってください。
できれば、頬を強く打ってほしいのです――。
「なんつうか、なあ……『カルマ』ってなあ確かに、便利すぎんだよ」
頭をかきながら、諭すようにウールドが話しかけてくる。
それはわかります、スーリヤ様からも他言しないよう忠告されました。
「って顔だがもうちっと視野を広げてみ、たとえばそう……『炎生』使い!」
瞬時にヴィーラ殿下の炎の鞭が浮かぶ。
「外見は領民と何も変わらない、佩刀してなきゃ門から堂々と他国に入れるわな。そこらの兵をこともなげになぎ倒せる戦力が――だ」
『あっ!』
ぼくは声にならない叫びをあげた。
「瞬時に意思を伝えられる『風舌』がありゃ情報なんて筒抜けだ、それがどれだけ戦場で効果的かわかるだろ?
どの国も対処しようがねえ――だからウチらも、メンバーは極秘にする。
極秘にすれば、抑止力になるからだ。
『カルマ』を啓いた奴が攻めてきて、もしこちらにそれを凌駕する数がいたら? 返り討ちかよくて捕縛、数少ない貴重な戦力を意味もなく失っちまう。
だから――さらに極秘になる。
国は啓いた奴を発見したら、『因果伯』って地位、権利と俸給を与え取りこむ。
野放しにして他国に取られたら大損だろ。ゆえに俺らの行動は義務で制限され、不文律で縛られ……国のコマとなる。
戦いになりゃあどうしてもバレっちまうけどな、できるだけ隠すべきなんだよ。
ヴィーラ殿下みたいにみせつけて萎縮させっちまう手もあるが、王族の立場だからできるんだ。俺らがマネしたら、人知れず寝首をかかれるのがオチさ」
ウールドが自分の首に、親指で線を引く。
「マナスルは国境に位置する防衛の要だ。王都じゃなくなったが重要都市に変わりはねえ、つまり他国の監視者――『密偵』が潜りこんでる可能性は、極めて高い」
ぼくはギクリとして、慌てて周囲を見回した。
「密偵」が表した語句に、瞬時に動悸が早まる。ごく普通の街並みが突如として、異様な雰囲気を発してる気がしてしまう。
「あのねーちゃんは言葉足らずだが汲んでやんな。アユムが因果伯とからむだけ、『情報源』として危険な状況になんのさ」
ぼくの背をたたき、苦笑して歩きだす。
「だから、訊いてくれるな」
知らないほうがいいと、大きな背が語っていた。
ぼくも釣られて歩きだす。
「カルマ」を啓いた者をどれだけ抱えこめるか、それが国勢となる。
だから因果伯のコスチュームは、漆黒なのだろう。その存在を極力曖昧にする、光が当たらない国の陰。
思案に暮れてしまったぼくの横を歩きながら、ウールドが首をかしげていた。
「――少し、アユムの得意なお話をしよう」
ちょっと意外で、ウールドを見上げる。
視線を空に向け口角は上がってるけど、どこを視ているのか。
「そいつは――ガキ大将だった。ケンカが強いだけが自慢の、田舎育ちのガキだ。
ある日、盗賊が村を襲った。駆けつけたが間にあわず、さっきまで笑ってた奴が倒れて身動きもしねえ。
仲間をやられて頭に血がのぼったんだろう。
無策に立ち向かったあげく返り討ちにあって、情けなくもてめえの血に伏した」
ウールドの左頬に、一文字の古傷――。
「こりゃあ死んだと思ってたら、良いのか悪いのか『カルマ』が啓く。盗賊は……悲鳴をあげてたっけなあ、なんとか追っ払う。
そんでめでたしめでたしとはならねえ、生きてりゃ続きはある。
母が死んで顔も見せなくなった父が……偉そうな貴族が噂を聞き、なにかあれば『力』を頼ってきた。
息子よ領民が困っておるのだ、領民のためなのだ――てなことを言ってな。
汚れ仕事は当然だとばかりに押しつける。そのくせ血に染まってるのを怖がる、やらせてるのはどこのどいつだ。
失敗すれば陰口をたたかれ、荒れればさらに怖がられる。
悲鳴が耳に残って離れなくなり、うめき声がいつまでも響く。次にああなんのは自分じゃねえかと、寝ることも食うこともできなくなった。
開きなおるにゃ若すぎた、まだガキだった、限界だったんだ。
その日も何かあったのか、両手が血まみれなのに記憶もねえ。それでも村に帰るほかなくって、どっかの道をトボトボ歩いてた。
別の生き方なんて、知らなかったから。
そこへ白馬に乗った王子様ならぬ、『お姫様』が現れ宣言した。
『私と共にくるか飢えて死ぬか、この場で決めよ!』
何様だって思うだろ? ああ、お姫様か。
イラついてたんだろうな、喰ってかかった。平民の生き死にも知らねえ貴族に、何がわかるんだ――ってな。
気がついたら青空が広がっていて……。
ケンカしかできねえガキ大将は、『因果伯』って居場所をもらってた」
「――因果伯の立場も、悪いことばっかじゃねえってお話さ」
照れくさく笑い、ぼくの頭をグシャグシャとなぶる。
傷の重なった大きな手のひらが、それでも暖かかった。
「だからそんな顔すんなって! 貴族の坊ちゃんが気ィ使ってんじゃねえぞ!」
ぼくはどんな顔をしていたのか、されるがままがこんなにも嬉しい。
命のやり取りが身近にある世界。どれほど歴史を学び知識を得ても、覚悟までは持ちようがない。
「わかると言う資格も、ぼくにはない……だけど」
アカーシャが気遣わしげに袖を握る。
こんな小さな子まで身を晒している事実に、なんだか胸が締めつけられた。
「そこのお三方、友情を確かめるのは美しいでしょうけど、日が暮れましてよ!」
イーシャ卿がかなり先にいて、大声で叫ぶ。
幾度も振り返る姿に、さっきは言いすぎたかと後悔が見え隠れしている。
「長風呂してたのは誰だ! 面倒なねーちゃんが怒るから、急ごうぜアユム!」
「口下手なお姉さんがでしょ? いこうアカーシャ!」
ウールドが歯を見せ、ぼくはアカーシャの手を取り大笑いしながら走りだす。
聞こえたのか、イーシャ卿が不満げに口を尖らせている。そういえば耳がいいと言ってたっけ。
どんな言い訳をしようと考えていたとき――。
「それ」は、突然現れた。
イーシャ卿のさらに向こう。
東の外側城壁の奥から、鎌首をもたげる「巨大な蛇」の影。
城壁塔よりもはるか高い位置に頭部が見てとれる。日に照らされて、水しぶきが反射し光っていた。
現実とは思えない光景に、恐怖さえなくただ唖然としてしまう。
アカーシャがボソリと呟く。
「魔獣……」