十四夜 2人の夜
「それはなんだ?」
「――うぐぅ!?」
少女の静かでいて、雷鳴のごとき詰問の声が響く。
マナスル伯爵に雷が落ちて弾けた。立場がなければ旅でつちかった健脚にモノを言わせ、逃げ去ったに違いない。
マナスル城の居館三階。
領主専用の「探究部屋」に、なんの前触れもなくヴィーラ殿下が出現したのだ。
パンに夢中で気がつかなかった、ともいうが……。
「たっただのパン、でございます……殿下」
「ほうただのパン――変だな聞くところによると、クロワッサンやスコーンなどの美味なるパンを、領主が独占しているとの話だが?」
「バレてるっ!」
声帯がカエルの発声をマネする。深く表情を読めない幼子でも理解できる顔で、領主の時間は停止した。
マナスル伯爵の食事のみ、質を重視する――奇天烈な少年と交わしたイタズラ。
真実を知った殿下のお顔は、見てはいけないものだった。
「ふんっ……よほど気に入ったのか、隠して食べたデニッシュとやらもな」
瞬きすらしない瞳で他者の動きを封じる冷笑は、まさしく女王。
「――で、それは彼奴の新作なのか?」
食べかけのパンに視線を向け、少女が少しトーンの上がった声で再度詰問する。
「……ピロシキ、だそうです」
マナスル伯爵は観念し、すべてを白状することにした。
「炎生」を喰らわないためには、素直に謝罪するのが一番である。
「ピロ……なんだと?」
「ピロシキです、薔薇の国……ああいえ、ロシアーに伝わる家庭料理ですって! 中に肉とか色々入っていて、まさに薔薇を形容するほどおいしくって――」
ヴィーラ殿下の黄金色の髪がわき立った気がして、領主は言いなおす。
「毒味――そう! お毒味でございますデス! まずは何があろうと殿下の安全をお確かめするのが下僕の使命と愚考スる次第デござイマスレバア――~ッ!!」
素直すぎても「炎生」を喰らうときは喰らうのである。
「最後の一個ですし、殿下に食べかけを渡すのは不敬になるかと、えへへ――~」
平伏と揉み手のプラス技をくり出し、この場を逃げ切るようだ。
市民の間にあっては尊敬を一身に受け、誰もが振り返る美貌の領主とは思えない「素」の表情に、少女はむしろ眉をひそめた。
あるいは食べかけを奪うのは子供すぎと自粛したのか。
「餓狼といいそろいもそろってパンで懐柔されるとは……呆れた家臣ばかりだな。それにしても彼奴め、やはり一筋縄ではいかんか」
少年の評価には、若干の称賛もふくまれていた。
一つ息を吐くと扉が閉まってるのを確認する。次いで懐かしく視線をさ迷わせ、床の焦げ跡がそのままなのに気がつく。
「初めて『炎生』に成功し、制御できずに誤爆した跡か」
放置されているのがスーリヤらしいと独語した。
多様な装丁を持つ本が鎖で鉄柱に繋がれ、棚に貴重品のごとく収まっている。
ここにくるのは何年ぶりか……そういった心情を、少女は語らない。
「パンだけに食えん奴ですね~」――領主は軽口を必死に飲みこんでいた。
「ふぅ――…まあ、いい」
「えっいいの?」
「以降のパンは、残らず献上せよ」
あっやっぱ持ってくのね、とは絶対に言えない愚痴だった。
それより――と少女は領主の髪に鼻を近づけ、あからさまに嗅ぎだす。
「スーリヤ、この良き香りはなんだ?」
「あっプラーナ様もわかります? 『シャンプー』だそうです、長時間漬けこんだカレンデュラオイルで作ったといってました」
「……それは、治療に使うと聞いたが」
「ですよねえところが髪につけて洗うと、本当にすべすべキラキラするんですよ。ただ量が少ないんで、浴場には時期尚早って置いてったんです」
輝く蜂蜜色の髪を、サイドポニーテールにして見せびらかす。
少女が領主の髪に触れ、あまりのなめらかさに驚いて凝視する。
「っこれはまるで、シルクの手触りではないか!」
――この時代、お風呂同様に髪を洗う習慣もなかった。
一八世紀に香油を使った頭部マッサージから発展し、一九世紀に洗髪を意味する「シャンプー」へと移行したのだ。
頭髪用のシャンプーが発売されるのは、二〇世紀である。
「ねっねっ! 本当にステキなんです、この髪ならプラーナ様にも負けっ……」
口が滑ったと気づくがすでに遅く。母親――王妃似の自慢の髪より上と言われ、少女の乙女心は深く傷ついた。
見開いた双方の瞳に太陽が発現し、プロミネンスが放出される。
「訊くまでもないが――っ! 貴様の主は誰だ――っ!!」
「殿下っ! ヴィーラ殿下でございますう!!」
「主より美しくなる権利があると思うてか――――っっ!!」
え"え"――――~…っ!?
「何を画策しているかと思えば……っ風呂とやらに案内しろ! すべて試すぞ!」
「あっやっぱり知ってるんですね――…」
空気を切り裂く音と悲鳴がこだまし、放し飼いの動物たちが鳴いて逃げ惑う。
殿下の侍女たちは自分に雷が落ちなかったのを、心の底より感謝する。
☆
――ぼくは当初、お風呂を広めるため公衆浴場は無料にするつもりだった。
「儲けるためにやるんじゃありませんから」
「あらアユムが広めたいことって、個人が満足する程度の規模だったの?」
しかしスーリヤ様に、入浴を広めたいのなら料金を取るべきと言われたのだ。
「一人が伸ばす手には限界があるわ、でも営利が見こめるとわかれば別。より多くの手が参加して事業になる、そして繋がれた手が国をうるおす経済活動となるの」
デニッシュを誰にも取られないよう、おおいかぶさって食べながらの助言。
「アユムが側溝を掘ってたときは、あのムカッ……パラ卿や通りの住民に手伝ってもらったんでしょう? だからこそ短時間で完成したって喜んでたじゃない」
聡い弟の心理を、外見年齢は近い姉がほぐしていく。
「もっと周りを頼りなさい、人は完璧じゃないから国を創ったの!」
口元を汚しデニッシュのカスがこぼれた服で、両手を広げ胸を張る。洗濯を頼られている侍女が苦笑し、いつものことですからと手を振った。
反論の余地がない説得力。
さすがは尊敬される領主です、スーリヤ様。
「皆さんの助力で無事完成しました、よかったら利用してみてください!」
そこで側溝掘りに協力してくれた通りの皆さんに、プレオープン開放する。
入浴料金や施設の使い心地など、お礼もかねて意見を参考にさせてもらう。
なかには無料と聞き話しのネタで来た方。恨みがましくぼくを睨むのは、側溝に反対し絡んできた方。
まずはそれでもいい、なにより体験してもらうのが大切。
――結果見込み通りの、それ以上の大絶賛をいただいた。
「それでは実演しますので、続けて試してみてくださ――い!」
浴場ではタオルと石鹸の販売もする予定。
個別の蛇口は難しかったので、浴槽からお湯の通路を伸ばした。手桶でかけ湯をしてタオルと石鹸を使い体を隅まで洗う。
ほとんどの市民は今まで石鹸を使用したことがない。
最初は皆疑心暗鬼で顔を見合わせていた。だが好奇心に負けたのか一人また一人と洗い場に座り、見よう見まねで体を洗う。
そして浴槽の前で息を止め一大決心し、ゆっくりと入って胸まで浸かる。
「家のそばに溝を掘ってるから、どうしたもんかと参ってたが……はぁ」
「あぁ――~…こりゃあまた、偉いもんだねえ……」
手足が自然と伸び体が震え、お腹からの声が浴場内に広がった。
見上げれば二階分の吹き抜け、元ホールは開放感抜群だ。
ぼくのお手本を数人の子供に頼み、「女湯」に伝えてもらう。だけどよくわからないから来てくれと叫ばれる。
「やだよこの子は、貴族の少年を襲いやしないよ!」
「あんたは襲ってほしいんじゃないかい?」
浴場を轟かす女性の爆笑に、仕切りの向こうで男性たちまで笑っていた。
「少しは恥じらいを持ったほうが……」
蒸し風呂は混浴だそうだ、こちらでは仕切りを作って男女を別ける。
最初は混乱していたけど、慣れると女性に好評だった。
この時代は家族そろって裸で寝るか、地域によっても肌着くらい。水着などなく裸で川に飛びこみ、裸で踊り宴会をした記録もある。
スーリヤ様もそうだった、肌を見られるのにそれほど抵抗感はない。
――この社会通念は宗教改革によって悪習とされ消えていく。裸体がタブー視されるのはハーブの開放と同じく、一六世紀である。
「日本も風紀の乱れから、混浴が禁止されたのは寛政の改革……一八世紀。けれど伝統はそう簡単に廃れず、取り締まりの強化は一九世紀も中期になってから」
昭和になっても、全裸で海に飛びこむ海女さんの写真が現存している。
元々は世界的に見ても、古代ローマ時代から混浴が主流だった。現代感があれば戸惑うほど、非常におおらかだったのだ。
人類による精神の成熟か、教義の影響力が巨大なのか。
「男に妙な声をかけられないし、コソコソせずにすむのはありがたいねえ」
恥じらい云々より、乱暴者や卑猥な男に恐怖と嫌悪感を覚えるのだ。
浴場内では逃げられず、裸では身を守る術もない。それは同性にもいえるので、料金を払う番台で寸鉄をあずけるよう義務づけた。
すべて安心して入浴してもらうための試み。
「お風呂衰退要因の一つ、性病の蔓延もこれで回避できるかな」
石鹸は洗濯にも使用する。
銭湯横のコインランドリーの発想で、あふれたお湯を利用する洗濯場を新設。
平民にとって衣服は贅沢品で、着替えはなく着の身着のまま。常に汚れており、接触感染を起こす危険性をはらんでいた。
寝るときに脱ぐのも、寝具を汚さないためである。
しかし汗や汚れによるシミやカビは、結局のところ服の寿命を縮めているのだ。
「まずは汚れたら洗う、思考に『洗濯する』認識を育てたい」
浴場内から受付窓を使って脱いだ服を渡す。
交換木札を受け取り、入浴している間に洗濯してボイラーの熱風で乾かす。
一般的な洗濯方法はたたくか踏みつけるしかなく、一日仕事だった。早さも必要なので筋掘りを入れた木板を製作し、こすって汚れを落としてもらう。
欧州では一八世紀に普及する洗濯器具――「洗濯板」である。
農作業がきつくなったおばさんで、洗濯が得意な方を数人選出。石鹸を購入してもらい、代わりに洗濯料金を個人収入として雇用する。
お湯と石鹸と洗濯板を使い、入浴を終えた皆がキレイな仕上がりに驚いていた。
「か――~っ風呂で温まったあとのエールは、たまんないね!」
「ねえお母さん、このジュースすっごいおいしい!」
更衣室の真ん中の仕切りを外し、小宴会で試食をお願いする。
浴場内では蒸留水を使った果実ジュースと……一部の一人が猛烈に求めるので、エールを一杯限定で販売予定。
「お兄ちゃんこれ、食べていいの?」
「うん、感想を聞かせてね。皆さんもよかったらひと口どうぞ――!」
つけあわせに、こちらもボイラーの熱風を利用した蒸し料理。
キャベツ、ブロッコリー、カブ――のちにアスパラガスやニンジンなど、季節に合わせた温野菜を提供する。
蒸し料理は素材の栄養を損なわずに得ることができ、野菜の持つうま味が増す。
甘味の少ない時代においては、目を見張るおいさとなる。
特にキャベツはとても優秀。豚肉やベーコンやチキンといっしょに蒸すだけで、肉汁とのハーモニーがたまらない。
浴場内で売るのは、マヨネーズを使用するためだった。
ディップソース代わりにマヨネーズがそえてあり、この場での完食を希望する。
卵のサルモネラ菌は、最悪死亡のケースもあるからだ。
大人も子供も、深皿の汁まで奪いあって舌鼓を打つ。
お風呂に浸かり、洗い立ての服を着て、夢中で食べ笑う姿に……充実感が襲う。
「水を毛嫌いしてたなんて、罰が当たっちまうよ」
汚物を側溝に流す。
単純な発想のわりに、思考の切り替えができなければ到達しない。
実際に一三世紀のパリでは、主要道の真ん中に汚物用の溝を掘っている。しかし人々は手近な道にぶちまける伝統を続け、ほとんど守られていなかった。
上階からの被害に、窓の日除け幕が発達したゆえんである。
雨で「塊」が溶けてぬかるみ、石畳が滑って歩行もしにくくなる。足裏の汚れや匂いを家に持ちこみ家財を汚し、害虫に噛まれ病気になり亡くなる子供。
それらが家のそばに掘られた側溝で、「解消できた」のだ。
側溝通りの皆は汚物を捨てるとき、道に撒くのではなく側溝に流していた。
せっかく家の前がキレイになったのに、自ら汚すことはない。汚物をみつけたら板などで側溝に押し入れる。
朝方になると乾燥した汚物を掃き流していたそうだ
言ってしまえば……浴場の排水だけなら、城壁の掘りに流せばそれでよかった。
なにも農民区まで側溝を伸ばす必要はない。常識を変えるのはたやすくない――そのための一歩だと覚悟していた。
「都市部の小さな通りで、小さな一歩目が……っ住民に意識改革が起こったんだ」
最初の一粒が水面に影響を与え、生まれた波紋が街に広まっていく。
人々の劇的な変化に感動し、ぼくは天を見上げる。
「てめえ予想通りになって気分がいいかい、貴族の坊ちゃんよお」
通りを見回してると、ウールドが皮肉な笑みを浮かべていた。外で待っていればいいのに、絡んできた方を見かけてつき合ってくれたのだ。
ボロくはあるが洗い立ての服が似合わず、吹き出しそうになる。
「そりゃあ嬉しいですよお! あれほど嫌がっていた狼が入浴してくれるなんて、予想外もありましたしね!」
「ちっ……仕方ねえだろ、エルフのねーちゃんにいわせりゃ護衛だってんだから」
公衆浴場の正式オープン初日。
ぼくは屋敷の玄関に「温泉マーク」を染め抜いた、赤と青の暖簾をかける。
「おっ欧州を彷彿とさせる、っ石造りの街並みに……突然の『温泉マーク』っ!」
独りで爆笑し、奇天烈な少年の評判を広げてしまったけど……。
城での異様な拒否反応に、公衆浴場のゆく末を案じていた。しかし蓋を開ければ初日から大盛況となる。
午前中から人が集まり、混雑のため一時入場の規制をするほどだった。
『アラヤシキから招かれた少年ってのがいて、何やら奇妙なことをやってる』
このごろは街にそんな噂が広まっていたのだ。
市民の流出が止まらず、そうなると行商人の数が減り、皆娯楽に飢えていた。
興味半分に話半分、最初はイベント感覚でもいい。
「お風呂は絶対気持ちいい!」
さる領主は早朝の入浴を一日の楽しみとし、毎日浸っているのだから。
「ならば噂を利用させてもらおう、使えるモノはなんでも使わなくては!」
公衆浴場「アラヤシキ」――本日も満員御礼でございます。
浴槽に浸かりながら人々は話をする。
側溝を設置してる通りで汚物が流れるのを見た。その通りだけやたらキレイで、歩きやすいのだと。
見た目のインパクトはバカにできない説得力を持つ。
「アラヤシキの奇天烈な少年が街をキレイにした」
「湯上りの女性とすれ違うと、すげえいい香りがする」
「お湯にゆっくり浸かるだけで、こんなにも気持ちいいとは……」
あちこちの通りで語られる噂は評判と興味を引き、さらに広がっていった。
「ああ、喜びがある世界……ここはまさしくアラヤシキだ」
☆
――マナスル城の王族専用執務室に、カレンデュラの香りが薄く漂う。
お風呂は気に入っていただけたかなと頬が緩む。
「ふむ街中での後架穴は、聞いていたとおりだな」
公式文書に目を通し、ヴィーラ殿下が頷く。
三割増しは言いすぎではない。黄金色の髪がシャンデリアを彷彿とさせ、見事な華やかさを放っている。
『シャンプーが無くなったから作って――~…』
スーリヤ様に公式文書のお願いをしにいったら、逆に泣きつかれた理由が判明。
「使用手順の説明も告知しております、見慣れれば利用者も増えるかと」
ぼくは浴場の周囲に、公衆トイレの設置許可を申請していた。一メートルほどの段差を使えば、桶に溜まった汚物の処理もしやすい。
当初は肥料の予定だったけど、ふと病原体が気になった。
この時代の主流である「三圃農法」は、耕地を春耕地用、秋耕地用、休耕地用と三分割し、年ごとにローテーションさせ地力を回復させる。
休耕地は放牧に利用され、家畜の糞尿が自然と堆肥化してくれた。
ならば無理をすべきではないと、完成した簡易下水処理設備に運ぶことにする。
「同様に通りでの食肉処理は禁止令を布告した、確かに我もあの匂いには閉口しておったからな。建設した解体場へ持ちこむよう、各所に通達してある」
国中に広まるには、いささか時を要するだろうが――。
この時代肉屋は店の前で獲物をしめていた。ハラワタや血が石畳を赤黒く染め、腐敗臭を漂わせたのだ。
これもまた、早期にあらためたい伝統である。
「一方で市民から、珍しいことに陳情があがっている。多くが自分たちの地域にも『公衆浴場』なる、設備がほしいとのことだ」
「給水と側溝――主要道に排水工事がおこなえれば、設置は可能です」
資金の問題であると、暗にほのめかす。殿下は炎の瞳でそれを確かめ、美しくも整った顎を伏せて頷く。
これが殿下の政治なのだ、私情を挟まず淡々と事実を語る。
「石鹸の製造場を拡張する件も、職人ギルドを通し人材を増員した。ここ数年ではありえないほど事業が拡大したと、感謝の声が届いている」
石鹸業が活性化すれば親方も職人を雇用しやすい、徒弟のなり手も増える。
いち事業が盛り上がれば、ほかのギルドも息を吹き返す。まだこれからだけど、とりあえずスタートは切れたかな。
「貴様……石鹸製造に騎士としての俸給を、注ぎこんだそうだな。だが経済活動としてなり立つには、いささか心もとない金額だとは思わんか?」
ギクリと心臓が躍る、なっなぜそれをご存じで!?
ぼくの心を読んだのか、ヴィーラ殿下に皮肉な笑みがこぼれていた。
――石鹸の原型は紀元前三〇〇〇年までさかのぼる。「除菌」は本来なら、人類の存続に欠かせない手段なのだ。
欧州でも一三世紀にはすでに、オリーブ油を原料とする石鹸が誕生していた。
しかし洗浄行為自体が認識にないため、使用する者が少ない。需要がなく供給がとどこおると高価となり、さらに使用者が減る。
悪循環が発生してしまうのだ。
とても事業としてなり立たず……まずは赤字覚悟。以降もせめて薄利多売が目指せるまでと、あり金を投資した。
「管理が必要な屋敷は公衆浴場にしたし、ぼくだけならそうお金はかからない」
しかし職人ギルドは結束意識が高く、成員意外の口出しを嫌う。殿下の口利きがなければ、参入すらできなかったのではないか。
実際殿下には助けていただいてるのだ。
「公衆浴場と同様に営利が見こめるのなら、石鹸も国家事業として推進しておけ。マナスル卿に感謝しておくのだな」
「――はっ!」
スーリヤ様に助言いただいた件までご存じとは……さすがです、ヴィーラ殿下!
「だがもう一点――」
それが何を意味するのか、ヴィーラ殿下は理解できなかったとみえる。
いわば「制度改革」であり、ぼく個人ではどうしようもない。さらに認可された場合は行政内に、専用の部署と責任者が必要となる。
「……貴様の成さんとしていることを、すべて理解できるとは思わぬ。それゆえにアラヤシキの、不可思議な御業なのかもしれんが……」
美しい左の眉が少しだけ上がり、認めるのが癪なのだと表していた。
「まあよかろう……功を許す、好きにせよ」
「はっ!」
「貴様の行動すべてを、我が名において『認可済』と通達してある。一定の成果をあげたら申請するがいい」
今まで以上の、最大限とも言えるバックアップに少し驚く。
「結果を出せばいいのだ、国を磨きあげる――主命に勤しんでいる様で何よりだ」
書類を置き心持ち顔を上げると、炎の瞳が見据えられる。
ただそれだけでたじろぎ、この方に虚偽は通じないと痛感させられた。
「殿下のおかげをもちまして」
「……ふんっ! 口の減らん奴め」
黄金色の髪を手の甲ではねると、光のオーブとカレンデュラの香りが舞う。
ぼくは相好を崩して会釈する。「功を許す」……よほど髪の香りと、軽減された街の匂いが気に入ったのですね。
人にとって匂い――嗅覚は、危険から身を守る重要な役割を持っていた。
誰に教えられることなく食品の腐敗を嗅ぎわけ、体臭の変化から病気を察し……異なった世界すら見分ける。
「目を背け耳を塞ごうとも、香りは街を包みこむ。生物の原始的な感覚を刺激し、衰退してしまったお風呂文化を王国中へと広げる!」
そして側溝を設置する対症療法だけではない。公衆トイレや屠畜場を制定して、道の汚物放置と発生を少しでも防ぐ――原因療法も同時におこなう。
押しつけでは限界があり、領民が自ら実行する意識改革。
「水」から始まったこの計画は、病気や感染症を防ぐための必須条件――「衛生」の概念を育てるためだった。
常識知らずと批判されても、さらなる問題が発生する前になさねばならない。
時代の転換期に立ち会えたのか、それとも……間にあったと思うべきなのか。
一四世紀に来襲する伝染病、黒死病対策だった。
「我は明日、新王都へ出立する」
深く椅子に体をあずけ机の上で手のひらを組み、決定事項として宣言した。
「あとの一切を――領主であるマナスル伯爵へ託す、肝に銘じておけ」
そろそろ自立してもらわねば困るのだが――ため息に合わせてこぼれた嘆きは、とても両者の実年齢を表せないでいる。
「そこでだ貴様の知る『物語』とやらを、今残らず聴かせろ」
どこで聞いたのか、ぼくが通りの住民に語っていたのまで存じておられた。
「無理です」
平然と反論する。
「……ひと晩の徹夜くらい、問題にならんぞ」
「十年かかりますので」
「――っ!?」
ぼくは命令を忠実にこなしつつも、不備を発見し反論する。秘書のように舞い、鬼のように指摘した。
「嗚呼、なんて幸せな刻……」
両者の唇は笑っていたが、視線のまじわる空間は帯電し歪みすら生じる。
そばにいた侍女にとって、殿下へ反論するなど信じられないのだ。蒼白に染まり幽鬼となって気配を消していた。
「面白いっ! その喧嘩買った!!」
受けて立つとばかり、陽光に輝く窓の前に配された椅子に目で誘う。
「そこまで謳ったのだ! 大言壮語を吐く口が明日の出立まで少しでも閉じたら、今度こそ我の鞭を刻みこんでやる!」
「それはなんとも、すばらしいご褒美ですね!」
「っ――始めろっ!!」
昼過ぎの拝謁だったのに、命がけの聴衆会となってしまう。
後のスケジュールがキャンセルとなり、夕食中も途切れず、夜着に着替えて寝室でもつきず、夜を徹して語った。
「まるで千一夜物語の、シェヘラザードだ」
結婚の翌朝に妻を殺害する王を改心させるため、千夜にわたり語り続けた物語。
欧州では一八世紀前期に紹介され、以後長きブームを巻き起こす。
本来は二百八十二夜で、約三十五話の物語である。以後に意訳され書き換えられ結末が追加し、数多くの内容が異なる「写本」が出版された。
原型とされる九世紀のイスラム版が、現代の人たちまで魅了していったのだ。
「ウールドや通りの皆さんも、物語内の常識違いに戸惑いつつも楽しんでくれた。人が求める感情や感動は、時代を経ても大して違いはないんだ」
ヴィーラ殿下は興味深そうに深く考え、眉根を寄せ、頬を染め、そっぽを向き、激怒し……ときに声をあげて笑った。
「恐怖に伏される暴君なのに、話に興味を持ち耳を傾けてくれる。シェヘラザードも義務ばかりではない、きっと楽しかったんじゃないかなあ」
一夜を二人だけで過ごす。
異世界と向こうの世界の隔たりを埋める、心躍る夜だった。