百夜 酒盃
「ブルギヒィ――アアアッッ!!」
大男の上半身に馬の四肢、皮膚のない剥き出しの赤い筋肉、大きく裂けた顎。
一つだけの燃え盛る赤黒い目。
鼻が曲がる臭気を人とも馬とも思えない叫喚に乗せ吐き出す。吟遊詩人が詩い、英雄譚で討ち取られ、お伽話で夢に見る姿。
「ナックラヴィ……」
初めて目にする現実の魔獣に、私も周囲の町民も動けずにいた。
ただ心のどこかで残酷にも理解する、己の死を――。
「…――ハーラ嬢、しっかりなさい! ビハーラ嬢っ!!」
ソーマが私の肩をつかみ揺すっていた、どれほどの間呆然としていたのか。
「ソーマ……きゃっ!」
またもや、今度は南東の市壁が吹き飛ぶ。
「ほっ他にも、魔獣が!?」
破城槌や投石機に匹敵する魔獣の破壊力――それが今、人に向けられている。
絶望が身体を貫き膝から力が抜けた。座り込まなかったのは、杖代わりのユーパが力いっぱい抱きついていたから。
私はなぜまだ生きてるのか。弾かれたように、改めて赤い死に視線を向ける。
そこには夢幻と消えず、依然として魔獣が……ナックラヴィがたたずんでいた。
鮮やかに飛び込む赤い上半身。しかし同様の赤い血が滴り、地面に届くほど長い両腕は力なく垂れ下がっている。
後ろ足が揺れ動いていた、倒れないよう耐えていたのだ。
魔獣とて生物、石垣の市壁に次いで領主の館を粉砕して、無事で済む訳がない。
即座に動けないほどのダメージを負ってるのが分かり、希望が呼吸を思い出す。
「けど、なんでこんな無茶を? なぜこの町に!?」
魔獣の考えなど分かろう筈もない、理解を越えた存在にそれでも疑問を持つ。
「ビハーラ嬢、失礼する!」
「きゃあああ――~っ!?」
息も荒く震える私とユーパを、ソーマが軽々と荷台に放り込む。
木炭を包んだ藁束が頭にぶつかり背を打つ。文句を口にする間もなく、ソーマは馬に鞭打ってその場から走り出した。
水車小屋の空き地から石畳の道へ、荷台が軋もうと脇目も振らない逃走。
「わ……っわああああ――――っっ!!!」
町民も髭領主も捕縛された誘拐実行犯も、やっと我に返り悲鳴を上げ逃げ出す。
平民も貴族も犯罪者も、魔獣にとって区別などない。
死は誰にも平等――。
「きっ貴様ら誰が雇ってやってると思う! わっ儂を守れ、死んでも守り抜け! 戦え、戦わんか――っっ!!」
一緒に逃げ出した使用人をつかんで引き倒し、髭領主の容赦ない指示が飛ぶ。
ダメージがあるとはいえ市壁を打ち破る魔獣……ここで死ねと、同義の命令。
「そっそんな……ああ……っ」
「――っ隊伍を組め! 我らで、我らで押し止めるっ!!」
髭領主が馬に乗り、人を蹴散らして駆け出す背に悲哀が重なる。
怯えて立ちすくむ使用人、踏みとどまる兵士、命あってのと逃げ出す者。生死が交差する場に相応しい、多彩な人間模様を垣間見せた。
「ブフッブフッブブブ……イ――ッッ!!」
ついに赤い筋肉が膨張し、ナックラヴィが雄叫びを上げ動き出す。
領主の館が再び崩れ、土埃の代わりに瓦礫を爆発させて飛び出した。
「か……っ神よ……」
「ぎゃあ――――…」
盾となった兵士の祈りが、絶叫によって上書きされる。
ナックラヴィーにとって、命の盾すら眼中にはない。逃げ遅れた町民の、懇願と諦めの声――背後で死が吹き荒れた。
「ソーマっ! ソーマなら、あいつを倒せない!?」
先ほど知った爵位、ソーマは因果伯。
しかしその瞬間、私とユーパを馬車に放り込んだのを思い出す。足手まといの、保護すべき対象が2人。
「――っ今はそんなこと、護衛とか契約とかを気にしてる場合じゃないでしょ? この町の住民全員を守るべきだわっ!!」
「護衛だけではありません――ビハーラ嬢、つかまって!!」
馬車が橋を渡るためスピードを落とす、その短時間で赤い死が肉薄していた。
体が振られ縁にぶつけないよう、ユーパを抱きしめる。藁束が数個跳ねて落ち、ナックラヴィが脚をとられて膝をついた。
「ビュ――ィギイ――ッッ!!」
邪魔だとばかり、無造作に藁束を殴る。
標準的な木炭であってもその硬度は石膏に劣らない、それが一合で砕け散った。
黒い欠片が周囲に吹き飛び、鼻息も荒く立ち上がる。
「――けど、ひと呼吸は稼げる! ユーパ木炭を、藁束を投げ落とすわよ!!」
叫ぶが早いか手元にあった藁束を背で押し、蹴り転がす。
馬車も軽くなり一石二鳥……など考えてる余裕もなく、道に藁束が散らばった。
ナックラヴィは広がり転がってくる藁束に乗り上げ再び倒れ、怒りに任せて凄み臭気と奇怪な鳴き声を上げる。
それでも稼いだ時間になんとか橋まで辿りつく。
間にあうと希望を持った瞳に、石畳みごと藁束を粉砕し――肉薄する赤い死。
「くっ……ユーパ卿、手綱を!」
「え――うっうん!」
ソーマは御者台の裏から細身の剣を取り出すと、その気配が「力」を増す。
『千変万化』!!
今度は掲げた剣から30センチほどの見慣れない文様が浮かび、淡く発光する。
まるで発した意志が、言霊をして容を得るように――。
執拗に追い迫ったナックラヴィは、疾風となって背後を通り過ぎた。
「――っ追って、こない!?」
橋を渡るため曲がった馬車が見えないのか。ナックラヴィはただ、まさしくただ道なりに通り過ぎたのだ。
見開かれた赤黒い単眼は、そもそも人を認識しているのか。
兵士を殴り倒すのに、横を通っても見向きもしなかった。藁束を避けず突進し、わざわざ路肩の並木を倒す異常さ。
「一体……なにが起こってるの?」
「……分かりません、しかし脅威は奴だけではありません」
ソーマがユーパに礼をして御者台に座り直すと、視線を水車小屋に向ける。
ナックラヴィが開けた市壁の風穴から、小型や同格の魔獣が潜入していた。
町の北側は、すでに崩壊へと向かっていたのだ。
「他にもいます、おそらくは数え切れぬほどの魔獣が……っ」
吹き飛んだ南東の市壁からも魔獣が乗り越え、這って入ってくるのが見える。
市壁が破壊できず、激しくぶつかる重い音が打楽器のごとく増えていた。いったいどれほどの魔獣が、この町に攻め入っているのか。
「モルディブには魔獣の街があるって噂だよ、侵略しにきたのかな?」
ウダカに比べてこの町はモルディブに近く、連想したのだろう。
ユーパの不安気な疑問に答えを返す術がなく、優しく頭を抱きしめた。
「私独りで手に負える事態ではありません、せめて……!」
因果伯に課せられた権利と義務。苦渋の決断がいかほどに辛いか、責任を負ったことのない身ではかける言葉もない。
ソーマの震える肩を、直視できず目を伏せる。
「なっなにがあったんだい!? 盗賊が、狼の集団が襲って――…」
「俺が知るかよ! とにかく逃げろ、どっかに逃げろ――っ!!」
「わあああ――――おかぁお母さ――――~ぁん」
町中はパニックが発生していた。
私たちの大立ち回りを見てた対岸の町民も逃げ出していたが、状況を説明できる筈もなく混乱だけが増幅する。
地響きと破壊音、奇怪な雄叫びと悲鳴――疑問と罵倒を馬車がかき別けて通り、泣き叫ぶ子供の声が追従していた。
ソーマは馬車を「A」の左に当たる道、ウダカに至る街道へ向かわせている。
記憶に新しい道の方が混乱は少なく、方向的にも南しか選択は残されていない。
「親方っ宿で停まって! プレマも一緒に乗せたい、置いていけないよ!!」
逃げ惑う町民に阻まれ遅くなった馬車が、見慣れない町中を鮮明に映す。
たったひと晩泊まっただけの宿が、懐かしくも遠く視界にとらえていた。
「お願いだよ! プレマを乗せて重くなったら、ぼくは降りて走るから!!」
「なに言ってんの、子供が生意気言うんじゃない! 私の方が足は速いっ!!」
ソーマ、宿にお願い――見上げてくるユーパにウインク一つ。
仲良くなった宿の娘、放っておけないのは私も同じ。
「時間がない、宿についたら速攻で馬車に乗せるのよ!」
「うっうん! ありがとう姉様!!」
木炭の藁束は全部落とし、塊や欠片がいくつも床に散らばってるだけ。
子供1人くらい乗せても問題はない、後何人乗せて行けるか。足には自信があり鍛えていてよかった、後悔せずに済む。
懸念はあるけど……それ以上に問題は、魔獣の進攻スピードがどれほどなのか。
「町の南側からも魔獣が攻め入ってた場合、逃げることもできなくなる……っ」
最悪の場面が脳裏をかすめ、首筋を流れる汗と一緒に呟く。
ソーマの突然ともいえる行動を、遅まきながら理解する。体勢を立て直すため、即座に戦場を離脱しなければならなかったのだ。
あのまま戦っていたらナックラヴィは倒せても、魔獣に包囲されていた。
「そうだ道はまだ残されてるんだ! どんな事態に陥っても、自分がやれることを最大限にやるしかない!」
「やはりビハーラ嬢は、ユーパ卿の姉上なんですね」
ずっと前を見て表情を隠していたソーマが、伏し目がちに振り返る。
「うざい奴だけど当然じゃない、姉弟なんだから」
「そうですね……」
調子に乗らないようユーパの頭を小突く。普段ならうるさく叫ぶ所だけど状況を鑑みたのだろう、恨みがましく口だけ尖らせた。
例え魔獣の侵略であっても、せめて……このバカで放っておけない弟だけは。
「待って……魔獣の、侵略? モルディブから!?」
「うん、えっ違うの?」
ユーパの言葉を軽く流してたけど……そうだ自分も、疑問に思ったじゃないか。
なぜこんな遠くの町に!?
「そうよ基本的にモルディブの樹海が、奴ら魔獣の巣……っ!」
コミュニティを形成する小型の魔獣や、はぐれ魔獣がいない訳ではないけど……魔獣がそこらの山や森に、ゴロゴロ生息してるはずがない。
そんな自体になれば生活もままならず、国はとうの昔に滅びてる。
ならば数日の距離があるモルディブから、侵略と思えるほどの数で襲ってきた?
「そんなリスクを冒してまで、この町を侵略する理由なんかどこにある!?」
魔獣の理とはいえ、あまりに不条理すぎる行動――。
御者台に座ったソーマの肩をつかみ、立ち上がって耳をそばだてる。町民の悲鳴を意識から遠ざけ、市壁にぶつかる音の方角を確かめた。
「ビハーラ嬢?」
「そうよ襲撃は町の北と東だけ! 北東から南西に流れる川――霊山モルディブを水源とする川に沿って、向かってきてるんだ!」
まるで氾濫した川――魔獣の激流が、町を悲劇ごと飲み尽くそうとしている。
意図した侵略ならありえない、だけどよく似た逸話なら聞いたことはないか。
「船で大海を渡る行商人が話してた。破門となったバッタが「黒い魔獣」となって村を町を襲い、全てを喰い尽くして突き進む嵐になると……っ!」
国は食料不足に陥り、大飢饉をもたらすのだと。
「だけどここからじゃ、魔獣の動向が知れない。城壁塔……なんてないか、せめて望楼があれば町全体を見渡せるのに!」
ふいに宿の娘、しっかりしたプレマを思い出す。
宿で町が一望できた、たった今そこへ向かってるんだ。
「ユーパ、あんた偉いっ! さすがは私の弟だけある!!」
「えっうん? そのバッタだけど、作物を荒らして迷惑をかけたから教会裁判所で有罪になったんだよね。破門は確かに苛酷な処罰だけど、それに――」
ユーパも動物裁判の話は聞いていた、そう明らかに違う点が一つ。
「「この魔獣は、食料を目的としていない!」」
一心不乱なナックラヴィの目……あれは、先ほどの私たちと同じ。
恐怖からの逃走ではなかったか。
――「破門」は当時の教義において、社会からの完全な排斥を意味する。
あらゆる権利や人権が剥奪され、他者との交流や墓地への埋葬……死後の安らぎすら許されない追放。
信者にとっては死刑よりも絶望を与える、最終刑罰であった。
☆
「プレマ――いた、よかった! すぐ表の馬車に乗り込んで!!」
宿の前まできて、馬が完全に止まるのももどかしく飛び降りる。
「ビーラ様! 一体なにが……町が、襲われているんですか!?」
「まだ分からない……おじさんとおばさんも身一つだけ、荷物は持てない!」
「しっしかし……その……」
宿泊客や過客はすでに逃げ、3人は所在なげにたたずんでいた。
何らかの異常事態が起きてるのは分かる。けど自分の宿を捨てる訳にもいかず、不安だけが重くのしかかっていた。
「あっプレマ、急いで馬車に乗って!」
「ユーパ様! ああっご無事でよかった!」
飛び込んできたユーパが手を広げたが、プレマは手前で止まり会釈する。
少し期待の外れた顔をしながら、ユーパが皆を外に誘う。説明は任せ私は状況が確認できる場所――3階の大部屋に駆け上がり、窓に取りつく。
倒壊した家から立ち上る砂埃が、真っ直ぐに町を横断していた。
「やっぱりだ! ナックラヴィだけじゃない、市壁を越えた魔獣も直進してる! 奴らはただ――突き進んでいるだけだ!!」
「町の侵略ではなく、襲撃ですらない?」
いつの間にか横にきてたソーマが問う。魔獣になにがあったのか想像もつかず、疑問に答える術がない。
モルディブから暴走してきたのか、身体が揺れ疲労が蓄積した姿を晒す魔獣。
ただ一つだけ分かる……魔獣が津波となって押し寄せるだけで、この町は壊滅的な致命傷を負っているのだ。
そして胸を穿つ、現実も目の当たりにする。
南東の市壁を破壊した魔獣の激流は、すでに南の市門にまで達していた。
「この町からは、もう出られない……」
東の市壁にまたもや破壊音がして崩れ、大穴に魔獣が連なる。
すでにいくつ穴が開いてるのだろう。のこぎり狭間となった東の市壁を、驚きを通り越して諦めが網膜に映す。
町が北東から、削られていく。昨日見た太陽はこれを暗示していたのだろうか。
「まだ道は……っ自分が、やれることを……っ!」
私に一体、なにができる!?
咽がひりつき、驚愕が過ぎたのか吐き気がした。
遠くナックラヴィの咆哮が轟く、方向から西の市壁に辿りついたのだろう。
「干ばつをもたらすナックラヴィが、洪水の先鋒だったなんて……皮肉だわ」
お父様お母様ごめんなさい、必ず帰るって……約束。
ウダカの屋敷で、あの狭い世界で幾度も見た夢を思い出す。いつしか船を駆り、帆に世界の風を受け旅をする夢を――…。
「ビハーラ嬢、南の市門を突破しますっ! これよりは誰になにがあろうと、己の安全だけを最優先と心がけてください!!」
ソーマが汗を落とし、覚悟を決めた鬼気迫る表情で決意する。
しかし私の意識は、別の方向に向いていた。
「ソーマ……ソーマ! あなたさっきの鉄の盾、もっと大きなのを作れない!?」
「そっれは……?」
突然問われたソーマがキョトンとする、ええいっあんたはユーパか!
「心を読んでよ、あなた得意でしょ!? 因果伯のくせに――っ!!」
いわれのない怒りに、ソーマは肩を揺すられるまま戸惑う。
どうにか南の市門を潜れたとしても、街道は土が剥き出しで走りにくいのだ。
馬車の速度では荷の有る無しに関わらず、追い迫られる懸念は拭い去れない。
魔獣は闇雲に突進してるだけ、ならば背を向けるよりはいっそ――。
「ビハーラ嬢、なにか確信があるのですか!?」
「そんなもんあるか――っ!!」
魔獣の濁流に呑み込まれ、ただ藻屑となるのを待つ?
そんな運命、ビンタして引っ掻いて蹴っ飛ばして馬乗りでぶん殴ってやる!
「最後の瞬間まで抗ってやる! 素直に諦めてなんか、やるものか――っ!!」
私の決着は私がつける、そうでなきゃ生き残っても息苦しいだけだ。
自分でも分かる無茶苦茶なセリフを、ソーマは真っ直ぐ受け止める。なぜか目を細め、静かに微笑んだ。
「町中に船を作るのよ! 魔獣の波を切り裂く、衝角を船首にっ!!」
「――ああもう分かったっ! ありがたくも見習い補佐代理に、御者を命じる! 馬車で町の大通りまで、避難する皆を誘導なさい!!」
「御者は親方に教えて貰った、やる! できるよっ!!」
声の通る宿の3階から、階下の皆に指示を送る。
危険だからソーマにくっついてろと諭したのに、頑として言うことを聞かない。
本当に姉の心弟知らずだ。
「プレマは荷台で誘導をお願い! ケガをして動けない人や子供に老人を率先で、この町を知ってるあなたが頼りよ!!」
「わっ分かりました、ビーラ様!」
あっごめんそれ偽名――魔獣を避けながらの救助、危険だが他に手がない。
私は馬車を動かせないし、大人が乗るとそれだけでスペースを使う。実際プレマが最も適しているのだ。
ユーパがなにやら対応に不満を叫んでいたけど、うるさい黙れ。
「魔獣は真っ直ぐ突き進む! おじさんおばさんも路地や周囲に気をつけながら、皆が大通りに向かうよう声をかけて周って!!」
「あっ……ま……っ!」
「あいよ、任せな――っ!!」
おじさんはガクガクと頷き、手を引いたおばさんが胸を叩いて走り出す。
「無茶はしなくていいからね――っ!!」
ソーマは御者台の裏から取り出した細身の剣を持ち、大通りまで辿りついて準備しているのがここからでも見えた。
「ウダカじゃこうはいかなかったわね、見通せるほどの町だったのが幸いだわ」
いやウダカだったら、そもそも城壁で守られたのかな?
苦笑する余裕がまだあって、むしろ自分に驚く。
私は戦いで崩れ、巻き上がった髪をツインテールにした。頭皮が引っ張られ思考が覚醒し、心なしか瞳に覇気が芽生えた気もする。
「よいですかビハーラ嬢。貴女はご自身で思っている以上、放っておくと飛び出す癖があります。ここには弟御のユーパ卿もおられる、自重なさいますよう」
「ああ、うん……はい、えっなんでお説教みたいになってんの?」
単にあいつ、極度の人見知りなんじゃないでしょうねえ。
頬を挟んで一つ叩くと、町中に響けとばかりにお腹から声を出す。
「みんな大通りに向かいなさい! ソーマの――因果伯の、船に乗るのっ!!」
――ソーマはプールヴァ帝国の出身で、貴族家の長男として生を受ける。
あまり過去を語らないので憶測だけど、物心つく前から嫡男として武芸を習い、所領経営や貴族の嗜みなど厳しい教育を受けて育つ。
原則的に家督を継げるのは、長男であり嫡男。
プールヴァ帝国とてそれは変わらない。だが正室に男子の誕生を告げられると、当主は庶子の子であるソーマを疎んじる。
第一男子の長男であろうと、正室の産んだ弟が嫡男に推される例は多い。
「領主は影を踏みて行うに非ず、時に独善でなければならん。家を継ぐは弟とし、お前は側近となり家名を盛り立てよ!」
背ばかり高く大人しい――従順な長男は黙って頷く、誰もがそう疑わなかった。
しかしソーマは、跪かなかったのだ。
子供なりの意地か、貴族としての矜持が芽生えていたのか。叱責され杖で打たれ部屋に幽閉されども……ソーマは頑なに膝を折るのを拒む。
皮肉にも初めて父親の影を廃し、己の運命に抗った。
正室の嫡男が無事育つか分からない、なによりソーマの才が惜しい。だがついには病死と宣告され亡き者とされる所を、仲の良かった執事に救われる。
「名を捨て身を潜めなさい、いつの日かあなたの魂が求める者と出会えましょう」
どこか遠くを視るソーマに、予感めいた姿を感じていたのかもしれない。
子供が独りで放逐されるのは死を意味した。しかしこれも因果の巡り合わせか、読み書きができたので行商人に拾われ重宝される。
口数が少なく表情は読めないが、真面目な気質は信用を得た。
「なんだ坊主名がねえのか、んじゃあソーマってのはどうだ。仕事に栄養と活力を与えたもう素晴らしい水だ、できのイイおめえにピッタリじゃねえか!」
次の取引も頼むぜソーマ、がはははは――っ。
ひと所に留まらずあちらこちらを放浪する、今までとは全く違う生活。それでも行き場のなくなった、帰る場所のないソーマには心地よかった。
結果として追っ手を撒くのに、適していたのかもしれない。
幾度かの出会いと別れ、戦の波に翻弄される日々。そうしてついに国境を越え、ヴィーラ王国に入りウダカへと至る。
どこまでも広がる海原、青い光を放つ果てのない広大さ。
内陸育ちだったソーマにとって、それは幻想的な情景だった。何年も国を旅して周ったのに、依然と想像もつかない世界に圧倒される。
ただそこに在る、絶対的な存在。
抑えていた感情が堰を切って溢れ、いつしか――『カルマ』が啓いていた。
地に放たれた水滴が集まり川を形作る。
寡黙な執事が落とした言葉は、時を経て物語を紡ぐ。費やした歳月はそのまま、私の心と重なっていった。
「ねえソーマ……「ビハーラ」はね、「休息の場所」って意味があるの」
この名前、私凄い気に入ってるんだ。
いつかソーマの魂が求める者と出会えるまで、ここで休んでくといいよ。
「その日がきたら、一緒に酒盃で乾杯しましょ!」
「……はい、ビハーラ嬢」
静かな微笑は、今では最上級の笑顔にすら感じられる。




