トラ見物に出かける
東京発、山里行きの高速バスに乗る。途中の峠道には野生のトラが生息していて、ふれあいを体験できた。
わたしもそれが楽しみで、今回このツアーに参加したのだ。
「日本にも野生のトラがいたなんて、びっくりですよねぇ」わたしは隣の乗客に話しかけた。バスに揺られて、もう50分。峠まではさらに1時間ほどかかる。
バスの1人旅で何よりも重要なこと、それは運転テクニックでもなければ、窓からの眺めでもない。
隣席の相手とウマが合うかどうか、それに尽きる。幸い、今回はいい巡り合わせとなった。
見たところ、60代半ば、ロマンス・グレーにも品のあるおじいさんである。ミカンやせんべいなど分けてもらい、気がつけば、いつの間にか楽しくおしゃべりするような間柄となっていた。
「本当にそうですなあ。今の今まで、いったいどこに隠れておったんだか。いやあ、実に不思議不思議」おじいさんはミカンの皮を剥きながら言う。
「トラと言っても、すごーく小さいんですよね。今まで見つからなかったのは、きっとそのせいですよ。イリオモテヤマネコだって、割と最近になって発見されたって言うし」
「うんうん、ヤマピカリャーねえ。ニホントラも、あんなものだったかな」
「もうちょっと、大きいみたいです。中型犬くらいかなぁ」以前、テレビで特集をやっているのを観た。世話係のあとをポテポテとついて歩く様子はたいそう愛くるしかったが、黄色に黒の縞模様を見れば、まさしくトラそのもの。
「なりは小さくとも、気が強いところがあるとか」おじいさんは、ミカンの房を口に放り込む。
「野生のものは、場合によって、人にかかってくるらしいです」わたしは言った。「でも、頭がよくて、よく馴れるんです。ふれあい広場では、そういうのを何頭か放してあるって、テレビでやっていました」
「実は、うちでも『トラ』を飼っていましてね」いきなり、そんなことを口にする。
「えっ、そうなんですか?!」もちろん、わたしはびっくりして聞き返した。
すると、クスクスと笑い声を洩らすのだ。
「トラはトラでも、『ケットラ』ですよ。はははっ……」
わたしは「ケットラ」がどんなものかよくわからず、ベンガルトラやシベリアトラなどと同様、種類の1つかと思い違いをする。
「その『ケットラ』って言うのは、どこで捕まえられるんですか?」
おじいさんは、今度こそ大笑いをした。
「いやいや、動物じゃないんですな、これが。最近じゃ『ケットラ』なんて言わないのかな、軽トラックのことを」
ああ、軽トラックだから、略して「ケットラ」かぁ。
わたしはようやく気付いて、遅ればせながら吹き出す。
「うちの父なども、たまに飲み過ぎて『大トラ』になったりします。いっそ、檻に閉じ込めたくなっちゃいますね」
「それはまた、困ったトラですなあ。けれど、まあ、親御さんも色々とご苦労がありなさるんでしょう。たまに変身するぐらい、よしとしませんか」
「そうですね。あんまり、しょっちゅうだと困りますけど」
わたし達はまた笑い合う。
やがて、峠の休憩場所に到着した。
バスの発着場から少し行くと、土産物店が何軒も並ぶ、広い牧場だった。柵は、高さが3メートルはありそうな、ポリカーボネートで囲まれ、互いに干渉できないように施されている。
「小さいと言っても、やっぱり猛獣なんですね。野生のは危ないんだ、きっと」わたしは柵の向こうへと目を凝らす。枯れた木々の間に積もった雪の上で、数頭のニホントラが駆け回っていた。
そう遠く離れていないはずなのに、ずいぶんと小さく見える。まるで、遠近法がおかしくなった気さえした。
「ほら、こっちにも来てますよ」おじいさんが言う。振り向くと、しゃがみ込んで、その喉元を掻いてやっているところだった。
「わあ、かわいいっ!」わたしも近くへ寄る。
ネコ科とは言っても、見慣れたネコとはまるで違う。鼻は大きく、目も鋭く厳しい。
広場を見渡すと、ほかにも何頭かうろついていて、客から餌をもらったり、抱きついているところを写真に撮ったりしていた。
「店で餌を売ってるんですね。ちょっと行って、買ってきます」わたしは近くの店へと走り出す。
売っているのは「トラだいすきっ!」という名前の、ジャーキーだ。
10センチくらいのが10本入りで300円。わたしはそれを買って、おじいさんのいる場所へと戻る。
「ほう、それがトラの餌ですか」
「ええ、見た感じ、ふつうのビーフ・ジャーキーみたい」わたしは、おじいさんにも半分、渡した。
おじいさんは、さっそく、1本、与える。トラは、フンフン嗅いでいたが、いつものおやつだと気がつき、すぐに食いついた。
「いい食べっぷりだ」おじいさんはニコニコしながら言う。
本当に旨そうに食べる。味わっているのか、口の中でアグアグと噛み続けるのだった。
「そんなにおいしいのかなぁ」どんな味がするのか、自分でも確かめたくなってくる。袋から1本取り出すと、それをじっと見つめた。
「よしっ、思い切って、食べてみよう」
「おやめなさい、人間用には味付けされてないでしょう」おじいさんは止めたが、わたしの好奇心は火のついた導火線のようなもの。簡単には消えない。
パクッと囓った。
「これって、ササミ?」ほとんど味がしない。かみ終わったあとのガム、そりっくりだ。
「そら、ごらんなさい。おいしくないでしょ?」わたしの顔がよほどだったと見え、おじいさんは、あきれたように笑う。
突然、腰の辺りにドーンッと強い衝撃を受けた。どこからか現れた別のトラが、わたしをはね飛ばしたのだ。
小柄とは言え、相当な力である。そのまま2メートルばかり転がって、ようやく止まった。
「大丈夫かねっ?!」おじいさんが駆けてきて、心配そうに覗く。
「痛たた……」
「トラめ、自分達の餌を取られたと思って、あなたに突っかかってきたんだな」
トラは、転んだ拍子にばらまいてしまった「トラだいすきっ!」を、満足そうに食べているところだった。
わたしは、お尻をさすりながら、よろよろと立ち上がる。
「ああ、きっと青アザになるに違いない」わたしはぼやいた。
「なるほど、猛虎班というやつですな」
おじいさんは、笑いを堪えながら、一言、そう加えるのだった。