-Chocolate Brownie-
二月の十四日が十五日へ、金曜日が土曜日へと変わろうとしている。
時計の長針と短針が、ぴたり重なり合おうとする、ほんの百秒ほど前。
すべてを凍りつかせるような風音に紛れて、小さなノックの音が部屋に響いた。
「や……お邪魔するよ」
こちらの返事を待たずに開いた扉に、僅かに視線を向ける。
夕方からちらつきはじめた雪は、もう、強風も相俟って、吹雪といっていいものになっていた。
そのなかを、歩いてきたのだろう。長い亜麻色の髪はぼさぼさに乱れ、コートやマフラーは吹き付けた雪が固まって凍りついたようになっていた。
「どうぞ」
僕は応じて、珍しいことに、二の句を継いだ。
「でも、雪は払ってからにしてください」
彼女がそのとおりにする音が何度か響いてから、ようやく、下がり続ける室温に歯止めがかかった。
「……ああ、生き返る」
この部屋に一台しかない電気ストーブを独占して、そのうえ、肩から毛布までかぶっている彼女が、ほうと呟いた。
ひどく珍しいことに、未だにアイスクリームに手を出していない。その代わりに、両の掌で抱むようにして持っているのが、熱いコーヒーをたっぷり注いだマグカップだった。もしかして、明日はもっと雪が降るんじゃないだろうか。
「出しておいてなんですが、コーヒー、嫌いだったんじゃ」
「好んでは飲まない、っていうだけだよ。今は正直、ホットなら、なんでも構わない」
気持ちは判らないでもない。僕だって、こんな天気のなか外に出ようとは思わないし、仮に出ていたら、部屋に戻るなりなんでもいいから暖を取ろうとするだろう。
だから、僕もまた珍しいことに、わざわざ腰を上げて、乾いたタオル――なるべく新しいやつを選んで――を渡し、彼女が髪やら服やら拭っているあいだに、湯を沸かしてコーヒーまで用意したのだ。まあ、コーヒーといっても、インスタントではあったけど。
「なにも、わざわざこんな日に来なくとも」
「……この吹雪のなか、野宿しろっていうのかい?」
「はい?」
「電車が止まってたんだよ。ホテルも、もう一杯だったから」
なるほど、さすがに帰宅するつもりではあったらしい。が、遅すぎたというわけだ。
「なにもないけど、チョコでも食べます?」
「……なんでまた、唐突に?」
「雪山での遭難とか、チョコが定番でしょう」
「あれはカロリーが高いから、非常時のエネルギー源として定番ってだけ。別に、温まるとかの効果はないよ」
彼女が、両手に包んだマグカップをすすりながら、呆れたように言った。なるほど、ひとつ賢くなった。そんな知識が必要になるようなことがないとは思うけれど。
「しかし、キミのとこに、菓子があるなんて珍しいこともある」
まあ、確かにこれも珍しいことだった。普段は、アイスクリーム以外なんて滅多に置いていない。それには、つい先ほど過ぎ去った日が影響している。
「有り難いことに、幾つか貰えまして。まあ、義理ってやつです」
ああ、と。彼女は納得したように頷いて、それから、渋い顔をした。
「……なんでもいいけど、キミね。義理とはいえ、貰ったものを他人にあげちゃダメだろう」
まあ、それは至極正論だったので、ちゃんと全部食べますと、応じるほかなかった。
彼女がストーブの前を離れたのは、どれくらい経ったころだったか。少なくとも、僕が文庫本を五十ページほど読み進める程度の時間は過ぎていた。
そうして、冷蔵庫の扉を勝手に開ける音がして、戻ってきたときには、信じられないことにアイスクリームのカップを手にしていた。窓の外では、激しさを増す風と雪が、ごうごうと鳴っている。
「……さっきまで凍えかけてたのに?」
「ハゲを食べるために、身体を温めたんだよ」
いつものように、彼女は、お気に入りのアイスクリームをそう略した。そう、いつものように。彼女がこの部屋でアイスクリームを食べるのは、確かにいつものことだったけれど、それにしたって大概だ。
酔狂なと思って、視線をやる。手にしているカップには、チョコレートブラウニーと記されている。彼女によれば、ただのチョコレートアイスではないんだよ、と。混じっているブラウニーのしっとりした食感がアクセントになり、濃厚なチョコレートソースも相俟って、パフェを食べているような感覚になるのだそうだ。
正直、どうでもいいことだったが、彼女が饒舌なのは珍しいので、相槌だけは打っておいた。今日は珍しいことが多い。
「――というわけで、本当に美味しいんだよ」
そうして僕は、本日最大の珍事に遭遇することになった。
彼女が、匙に一すくい分のチョコレートアイスを、こちらに差し出していた。僕はその光景を、容易には信じることができなかった。
どうやら、美味しさを力説したアイスを味見してみろということらしいけれど。しかし、これは。彼女が他人にアイスを分け与えるなんて、明日は今日以上の豪雪に――いや、地軸が急に変わって日本が北極点に移動するだとか、或いは地球が氷河期に逆戻りしたっておかしくない。
混乱しているところに、伸ばした匙が更に突き出されるものだから、口を開くよりほかに選択肢はなかった。
甘く冷たい、チョコレートアイスの味が広がる。チョコレート。もしかしたら。
「……美味しいだろう?」
義理ですかと、訊ねてみればよかったかもしれない。
そうしたところで、さあどうだろうね――なんて、はぐらかされるだけだろうけど。
口に残っている甘い後味は、チョコレートだけのものなのかどうか、よく判らなかった。