-Tropical Cream Cheese-
九月。往生際の悪い太陽が、必要以上に己の存在を主張する、土曜日の午前中。
開け放したままの窓からは、飽きることなく鳴き続ける蝉の声と、乾いた熱気だけが流れ込んでくる。
狭苦しい部屋を満たした熱量は、時計の針が、朝よりも昼というべき時刻に近付いていることを教えていた。
実際、枕元に放ってあった携帯電話のサブディスプレイには、一が四つ並んだ時刻が表示されている。
眠りについたのは、大気がようやく涼気を帯び始めた三時くらいであったから、丁度、八時間程度の睡眠ということになる。
この蒸し暑いなか、よくもそこまで惰眠を貪れたものだと、我ながら、奇妙な感心を覚えた。
寝巻代わりのシャツはじっとりと湿って肌に張り付き、最悪の肌触りを提供してくれている。
なにはともあれ、シャワーを浴びよう。すべてはそれからと心に決め、上体を起こした。
不快な感触をもたらす布切れを、ベッドの上で脱ぎ去って。下衣へも手を伸ばした、そのときだった。
「――些か、大胆に過ぎるんじゃあないかな、それは」
掛けられた言葉に、僕の動きは凍り付いた。久方ぶりに聞く、涼やかな声。
軋む首を向けた先には、余人には判らないほど微かに、楽しげな色を瞳に浮かべる彼女の姿があった。
勿論、彼女の手には、我が家の冷凍庫に収まっていたアイスクリームのカップが一つ、収まっているはずだ。
どうか五分だけ外に出ていて頂けないだろうか、と。冷えた五百ミリリットルのミネラルウォーターと団扇を押し付けて。
不承不承に腰を上げた彼女を、炎天下に押しだし。風呂場へ飛び込み、寝汗を流し、髪を洗って髭を剃るまでが三分。
そこから一分五十秒で、僕は、身体の水分を拭い、衣服を整えた。我ながら、称賛に値するほどの迅速さだった。
胸を撫で下ろす間に、軽いノックの音が響いた。当然のように、返事を待たずに扉が開かれる。
「やあ、お邪魔するよ。改めてね」
「……どうでもいいですが、どうやって入ってきたんです」
眠るまでに彼女が来なかったから、鍵はかけていたはずだった。
「せめて鉢植えは、枯れてないものにするんだね」
忠告に従うことにしよう。それとも、鉢植えの数を増やしたほうがいいだろうか。いずれにせよ、また出費だ。溜息を吐く。
「……にしても、昼間になんて、珍しいですね」
まるで吸血鬼に対するように、彼女に問い掛けた。普通、彼女は金曜と土曜の境目に現れる。
「うん。このところ、どうにも暑くてね。涼しい夜中のうちに、眠ることにしたんだよ」
昼間に出歩くほうが暑いとも思うのだけど、どうなのだろうか。
彼女は、一人用の小さな冷蔵庫の前に屈み、当然のように、アイスクリームを取り出した。
僕の記憶が正しければ、ついさっきも、彼女は、アイスクリームのカップを手にしていたはずだった。
これで、明日の昼食はランクダウンだ。僕は、諦めの息を吐いた。
彼女が愛してやまない銘柄は、値段が高いうえに内容量が少ない、ろくでもないアイスクリームだ。
以前、かの有名な六十円のアイスキャンディーだけを冷凍庫に入れておいたことがある。そのときの彼女の表情は、未だに忘れられない。
何の落ち度もない妻が、夫の浮気を目撃したときのような。深い哀しみに満ちた、けれどもほんの僅かな、何かの間違いだという可能性に縋って自分を騙そうとする瞳。あのあと、彼女は一ヶ月ほどもこの部屋を訪れなかった。きっと、二度目はないだろう。
「……どこかに行こう。この部屋は、暑過ぎる」
彼女が、外出を口にすることなど、初めてといってもよかった。新鮮な驚きと共に、僕は問い返した。
「どこかって……どこです?」
「どこでもいいよ。ここより涼しいところなら」
投げ槍に言い放った彼女は、汗ひとつ浮かべていなかったが、辟易したように表情を歪めていた。
部屋に一台しかない扇風機を独占していても、暑いものは暑いらしい。風に揺れる亜麻色の髪も、心なしか、重たげだった。
夏。涼しげなところ。さて、どうしたものだろう。少しだけ考えて、口を開いた。
「……海とか行きます?」
「行かない。余計、暑くなるだけだよ」
ノータイムでの却下。いや、まあ、確かに。
炎天下、焼けた砂浜を走り、温い海水の飛沫を上げて遊ぶ。明らかに、彼女のイメージではなかった。
どちらかといえば、プールサイドのデッキチェアに寝そべって、パラソルの陰で冷たい飲み物を片手にゆったりと過ごすような人だ。
「そうですね。言ってみただけです」
そう、言ってみただけだ。別に、彼女の水着姿が脳裏に浮かんだなどということは、断じてない。
「じゃあ、ショップに、食べに行きますか?」
「……ハゲのかい?」
「ええ」
「……それは、魅力的な案だね。とても悩ましいところだ」
彼女は、整った眉を歪めて、考え込んでいる。これは意外なことだった。アイスクリームのことで、迷うことがあるのだろうか。
「いや……今日は、既に二つ、食べているしね」
「それがなにか?」
確か以前、「ハゲさえ食べていれば、生きていける身体なんだよ」と言っていた気がするけれど。
「……キミは、あれだね。もう少し、女心の機微というものを勉強したほうがいい」
よく判らなかったが、まあ、彼女がそう言うのなら、そうなのだろう。
「兎に角、ハゲのショップは駄目だ。自分が抑えられなくなる」
「そうですか」
「まあ……次の機会にしよう、それは」
異存はなかった。僕は別に、特段アイスクリームが好きというわけではない。しかし、なら、どうするのか。問うような視線を、彼女に向ける。
「……ビアホール」
「……はい?」
「ビアホールがいい、屋内の。暑いなか苦労して行って、冷房効いたなかでキンキンに冷えたビールを流し込むんだ」
「それは、構いませんけど。あれ、以前、お酒は飲めないって」
以前、何かのときに勧めたときのことを思い出す。
「知り合って間もない異性の家で、お酒なんて飲まないよ。私だって、女だからね」
知り合って間もない異性の家に、夜中に訪れるのは良いのだろうか。そのあたり、疑問はつきない。
だがまあ、兎にも角にも、この先の行動が決まったことは確かだった。
彼女は、七割ほどが残った三杯目の中ジョッキを掴んだまま、とろんとした瞳で、デザートのバニラアイスを眺めている。
「……思うんだけどね」
「はい」
今度は、何を口走るのだろうか。僕は、心の中だけで身構えた。
「私はね、アイスクリームが好きなんだけど」
「はい。知ってます」
「暑いときには、ビールも割と好きなんだ」
「はい。そうみたいですね」
問題は、好きなことと耐性があることは、イコールではないということだった。
一杯目を半ば空けた辺りから別人かと思うほどに陽気になり、二杯目で言動が怪しくなり、三杯目にはこうなった。
「ということはさ、ビールにアイスを浮かべたら、最高なんじゃあないだろうか?」
どうしてこうなった。僕は、頭を抱えながら、応じた。
「……ビール・フロートってところですか」
「そうだね。そういうことだね。きっと美味しいと思うんだよ。キミ、試してみないかい?」
美味しいと思うのなら、何故、自分で試さないのだろう。理解に苦しむところだった。
「好きなものと好きなものを組合わせても、良い結果になるとは限りません。むしろ、合わないものの方が多いと思います」
「……たとえば?」
「僕は本が好きだし、酒も好きですけど。飲んでるときに本を読んでも、頭に入りません」
彼女は、暫し遠くに視線を彷徨わせたあと、よく判らないと首を振って、アイスクリームを食べ始めた。
結局、残ったビールは僕が飲み乾す羽目になった。
会計は、いつの間にか彼女が済ませていて、払うといっても受け取ってくれなかった。
「……そうそう。さっきの話だけれどね」
帰り道の途中で、彼女が思い出したように言った。
「好きなもの同士を組み合わせて、良い結果になることだってあるんだよ」
「そうですか。たとえば、なんですか」
気もそぞろに、相槌を打った。酔った彼女に肩を貸していると、酒に火照った体温と柔らかさを間近に感じて、会話に集中するどころではなかったのだ。
「ん、そうだね。私はね、アイスクリームが好きなんだけど」
「はい、知ってます」
「……キミの部屋でアイスクリームを食べるのは、割と、悪くない」
「はい。そうみたいですね」
アイスクリームを食べるとき、彼女はいつだって、幸せそうにちびちびと口に運んでいる。あれで嫌いだと言われても、信じる人間はいないだろう。
「あー……キミは、あれだね。昼にも言ったけど、もう少しね……」
なんだか不満げな視線を向けられたけれど、アルコールと残暑にやられて熱っぽい思考では、よく、わからなかった。
まあ、夏だから仕方がない。そういうことに、しておこう。