そして...卒業
春のうららかな陽光が、王立ヴァルハイト学園の白亜の大講堂を柔らかく包み込んでいた。
敷地内に咲き誇る満開の桜が爽やかな風に揺れ、散り際の花びらがひらひらと舞い落ちる中、本日は学園の最後を飾る大イベント——「卒業式」が厳かに執り行われていた。
重厚なパイプオルガンの音色が美しく響き渡る講堂には、最高級の織物で仕立てられた礼服やドレスに身を包んだ貴族子弟たちが一堂に会している。その表情はみな、学び舎を去る寂しさと、これから直面するそれぞれの未来への緊張感に満ちていた。
やがて、式のクライマックスである「卒業生代表の答辞」の時間が訪れた。
壇上のマイクの前へと静かに足を進めたのは、王太子ヴァルフリートであった。
洗練された立ち姿、隙のない美しい所作、そしてその目には迷いのない強い光が宿っている。
「——我らは本日、慣れ親しんだこの伝統ある学び舎を旅立つ」
ヴァルフリートの澄んだ朗々とする声が、講堂の隅々にまで静かに、そして力強く染み渡っていく。
「卒業後、我らは各々が己の意志と課された責務に基づき、各地の領地へと戻って領民のために泥を払って奮闘し、あるいは王城の要職に就いてこの国の根幹を支えることとなる。……私自身もまた、王太子という逃れられぬ重責を深く胸に刻み、この国と生きるすべての人々の未来のために、これまで以上に愚直に精進していく所存だ」
理想の王太子として、そしてひとりの成熟した人間としての覚悟が込められたその言葉に、会場に集まった生徒や保護者、教師陣から、割れんばかりの惜しみない拍手が送られた。
客席の最前列でその背中を見つめていたメルティール、キリル、ライラの3人は、溢れ出る涙を堪えながら、ヴァルフリートの一言一言を愛おしむように胸に刻み込んでいた。
◇
(あの頃の私たちは……本当に行き場のない暗闇の中にいましたわね)
メルティールは紫水晶の瞳を潤ませ、冬の衣服の袖口からそっと覗く、あの日に編んだミサンガに愛おしそうに触れた。
かつてのメルティールは、「完璧な公爵令嬢」という重圧の鎧を身に纏い、ヴァルフリートの婚約者としてふさわしくあろうとするあまり、自分の本当の感情を押し殺して心を擦り減らしていた。
一方のヴァルフリートもまた、「理想の王太子」であり続けることを周りから強いられ、誰にも弱音を吐けずに孤独と疲弊の中に沈んでいたのだ。
お互いを深く想い合っているはずなのに、あまりの重圧と不器用さゆえにすれ違い、仮面を被ったまま心を通わせることができずにいた二人。あのまま時間が過ぎていれば、いずれ二人の関係は冷め切り、取り返しのつかない崩壊を迎えていたかもしれない。
もし、あの時——。
友人に寄り添う素朴で温かな少女・ライラに対し、ヴァルフリートが「一目惚れをしてしまった」と大きな勘違いをしなかったとしたら。
あのあまりにも青く、突拍子もない勘違いと大騒動があったからこそ、メルティールは自分の胸の奥底にある「王太子としてではない、一人のヴァルフリート様という存在を失いたくない」という素直な愛情に気づくことができた。そしてヴァルフリートもまた、自分が真に求めていたのは心の逃げ場所としての拠り所ではなく、メルティールと心から笑い合える温かな時間なのだと悟ったのだ。
長年のすれ違いが氷解し、お互いに素直な言葉で想いを伝え合えたことで、二人は真の相思相愛となり、かけがえのないパートナーとなった。
もしも、あのすれ違いが直らず、ヴァルフリートの勘違いのままライラが王太子の側妃として城に迎えられるような未来があったとしたら——。
ヴァルフリートも、メルティールも、そしてキリルやライラも、誰ひとりとして心から笑うことなどできない、暗く歪んだ不幸な結末を迎えていたに違いなかった。
(ハルシオ様とライラ様に出会えたことが、私の人生の最大の奇跡……)
メルティールは隣に立つ二人へ、溢れんばかりの感謝を心の中で捧げた。
王太子と公爵令嬢、そして男爵令息と男爵令嬢。
王立学園がどれほど「生徒間の平等」を理念に掲げていようとも、貴族社会に横たわる厳格な身分差を考えれば、本来なら彼らは言葉すら交わすことなく、全く交わらない平行線のまま卒業を迎えていたはずなのだ。
だが、偶然と必然が紡いだその出会いによって、四人の運命は大きく動いた。
キリルとライラにとっても、この一年は互いの存在の尊さを再確認する時間となった。
華やかな貴族社会の中で、奢ることなく、素朴で誠実な自分たちの生き方を大切にし続けた二人。互いに支え合い、寄り添いながら歩んできた日々を経て、キリルとライラの間にある愛もまた、以前にも増して固く揺るぎないものとなっていた。
◇
厳かな卒業式が終わり、喧騒が去った放課後。
西日が差し込む思い出の博物学研究会の特別教室に、四人は静かに集まっていた。
ヴァルフリートとメルティールが所属する生徒会のメンバーは、その全員が王城や王都に就職することが決まっているようで、彼らとはまた会えるからと一足先に別れたのだ。その間、キリルとライラもクラスメイトとの別れを惜しみ、手紙を送るねなどと約束を結んでいた。
そうして、最後だからとこの特別教室を感慨深く眺めているところに、ヴァルフリートとメルティールがやって来たのである。四人は誰が言うでもなく教室の中に入り、席に着いた。
「今日で卒業ですわね。ヴァルフリート様、卒業式での答辞、本当に……見事なでしたわ。私、ライラ様やハルシオ様との出会いから今日までの日々をたくさん思い出しましたの」
メルティールが優しく微笑みかけると、ヴァルフリートは少し照れたように目元を緩め、碧眼を和ませた。
「ありがとう、メルティール。……あのときは本当に、すまなかった。キリルやレーベン嬢がいなければ、私は自分だけでなく君の心をも取りこぼしてしまっていただろう。そうなれば壊れた心のままに暗愚になっていたと思う」
「ヴァルフリート様…」
「あの出来事は決して誉められたことではないが、私のこれからの戒めであり、良い経験だったと言えるよ」
「僕たちもお互いの大切さを改めて考える出来事でした。思いがけずこうして縁を持てたことも、感謝しております」
「本当に…。殿下やメルティール様との時間は何物にも変えられませんわ」
「…いよいよ、この場所ともお別れなんだな」
窓の外を見やれば、華やかな校庭の彩り豊かな花々が夕風に乗って揺れている。
卒業後、ヴァルフリートとメルティールは立派な「王太子」と「王太子妃」として、国の中心で巨大な重責を担っていくことになる。
一方で、キリルとライラは王都での生活を終え、遠く離れたハルシオ男爵領へと戻り、次期領主と領主夫人として領地の開拓と領民の暮らしを支える道を進む。
ハルシオ男爵領は、辺境とまではいかないが王都から遠く離れた地だ。
これまでの放課後のように、こうして気軽に東屋や特別教室に集まり、特製のハーブティーを飲みながら笑い合ったり、バザーや音楽祭の準備に奔走したりすることは、もう二度とできない。
立場が完全に分かれるこれからの未来、もしかしたら公の場以外で、友人として気軽に会話を交わすことすら難しくなるのかもしれないのだ。
別れの寂しさが静かに部屋を満たそうとしたその時、ヴァルフリートがゆっくりと二人の前へ歩み寄り、キリルとライラの肩に力強く手を置いた。
「キリル、レーベン嬢。……たとえ住む場所が遠く離れようと、置かれる立場が変わろうと、私は二人のことを絶対に忘れない。君たちは私の生涯の友人であり、暗闇から救い出してくれた大切な恩人だ」
「ヴァルフリート様……」
「ぁ、りがとう…ございます…!」
「ええ……!」
メルティールも胸の前で強く手を組み、涙を瞳に浮かべながら深く頷いた。
「私にとっても、ハルシオ様とライラ様はかけがえのない大切な宝物ですわ。どんなに離れていても、私の心はいつもお二人のお側におります」
ふたりの心のこもった熱い言葉に、キリルは丸眼鏡の位置をそっと直しながら和やかな笑みを浮かべ、ライラも胸を熱くさせながら深々とお辞儀をした。
「ヴァルフリート様、ローゼンベルク嬢……温かなお言葉を本当にありがとうございます。僕たちも、お二人と過ごした日々を一生忘れません」
キリルとライラは、自分たちが「王太子と王太子妃の友人である」などと、他人に声高に誇るつもりは一切なかった。立場を弁え、分を守って静かに生きることこそが、二人に対する自分たちの誠実さだと分かっているからだ。
けれど——誰に言わずとも、二人の胸の奥底には確固たる誓いがあった。
遠いハルシオ領の地から、いつだってヴァルフリートとメルティールが築いていく国の平和を祈り、誰よりも強い心で二人を応援し続けていくのだと。
「僕たちも、次期男爵と男爵夫人として、自分たちの立場でできることを精一杯頑張ります。ヴァルフリート様とローゼンベルク嬢が愛し、守ろうとしているこの国を、末端の現場から支える一員として」
「ええ。キリルと共にハルシオ領を実り豊かで温かな土地にしてみせますわ。……殿下、メルティール様、どうかお健やかでいらしてくださいね」
二人の力強い言葉に、ヴァルフリートとメルティールは深く誇らしげに頷いた。
四人はそっと手首を持ち上げ、袖口から覗く色鮮やかなミサンガを見つめ合った。
日々の生活で少しずつ擦り切れ、柔らかな風合いを増した刺繍糸。
「……ミサンガは、自然と切れた時に願いが叶う願掛けなのですわよね」
メルティールが優しく呟くと、四人は微笑み交わした。
いつかこの糸が擦り切れて解けるその日まで——そして解けてからもなお、お互いの幸せと願いが成就することを信じて。離れていても心の奥底で深く繋がり続ける友情と絆を、四人は確かに感じていた。
大きな勘違いやすれ違いから始まり、共に悩み、笑い合い、助け合ってきたこの濃厚な一年間。
身分の壁をはるかに越えて心を通わせたこの特別な時間は、四人の心の中で一生涯消えることのない、何よりも眩しく美しい「人生の宝物」となったのだ。
「さあ、それぞれの輝かしい未来へ進もう」
ヴァルフリートの晴れやかな声とともに、四人は互いに微笑み合い、それぞれの歩むべき道へと力強く一歩を踏み出した。
春の優しい風が思い出の詰まった特別教室を吹き抜け、舞い込んだ春の息吹が彼らの未来を祝福するようにキラキラと輝いていた。




