前編
「ふふっ……。」
ビジネスホテルのベッドに腰掛け、御朱印帳を眺める。
頑張って、朝からバイクを走らせたかいがあった。
山道は思ったより長くて、少し疲れたけれど、それも悪くなかった。
なんだか嬉しくなって、自然と笑みがこぼれる。
「……えっ!?」
思わず声が漏れる。
御朱印帳の最後のページをめくり、手が止まった。
右側は問題ない。
そちらの神社の宮司さんとは、軽く言葉を交わした記憶もある。
御朱印も、その場で受け取った。
そこに違和感はない。
視線が左側に移る。
本来、何も書かれていなかったはずの場所。
そこには、もう一つの御朱印があった。
今日、最後に訪れた神社のものだった。
けれど、御朱印はもらえなかった。
そこそこ大きいけど、時代の流れとともに常駐する宮司さんがいなくなった、山の中の神社。
社務所の窓は閉まっていて、人の気配はなかった。
地方の神社を巡っていると、こういうことはよくある。
それなのに、神社名と日付が墨書きされ、朱印が押されている。
その上に、朱で文字が書かれていた。
『満願』
意味は知っている。
御朱印帳のすべてのページが埋まったことを示す言葉だ。
御朱印帳を閉じる。
その音だけが、やけに現実的に響いた。
******
今の世の中は、便利なものだ。
地図アプリで『神社』と入力すれば、すぐに候補が表示される。
そこに『御朱印』と加えれば、さらに絞り込める。
私と同じ趣味を持つ人たちのレビューやコメントまで、簡単に知ることができる。
今、目指している神社は、星が4.1と高い。
ただしレビューには、宮司さんが不在であることが多く、御朱印を頂けるかは運次第だと書かれていた。
それは、到着するまでもなく分かっていた。
バイクを走らせながら、過疎化が進んでいるだろう古い家並みの中を進んでいく。
人の姿はほとんど見かけない。
こういう場所の神社に、常駐の宮司さんがいないことくらいは想像がつく。
特に珍しいことでもない。
それなのに、妙に広い駐車場があった。
かつてはそれなりに人が来ていたのだろうか。
アスファルトに引かれた白線は掠れきっていて、かろうじて形だけが残っている。
「ふぅ……。」
ヘルメットを脱ぎ、一息つく。
小さな期待を胸に、御朱印帳の入った巾着を持って歩き出す。
鳥居は、長年の風雨にさらされて朱色がくすんでいた。
ところどころ塗装も剥がれ、古さが目に入る。
だが、参道は意外なほど整っている。
落ち葉はほとんどなく、掃き清められた跡が続いていた。
「ひゃっ!? 冷たい!」
思わず声が出る。
竜神の石像の口から水を吐き続けている手水舎は、思った以上に冷たかった。
その隣に、立て札があった。
神社の祭神と由来を記した、ご由緒書きだ。
「うーーん……。これだけでも、新しくするべきじゃない?」
木製の札に、墨で書かれた文字。
木が日焼けし、ほとんど判読できない。
御朱印をいただくことと並んで、御由緒を読むのが小さな楽しみなのに。
眉間に少し力が入る。
かろうじて読める部分だけを拾う。
「人と人との……。縁かな? そうだ、縁だ。
縁を結ぶ神として、古くより信仰される」
どうやら、名前は読めないが、縁結びの神様を祀った神社らしい。
願掛けは、すぐに決まった。
「彼氏、欲しい!」
思わず、声に出た。
大学生になれば、自然と彼氏くらいできるものだと思っていた。
でも、現実は違った。
高校が女子校だったせいか、男性との距離感はいまだに掴めない。
自分から話しかけることができず、話しかけられるのを待ってしまう。
知り合いはそれなりにいるが、浅い付き合いのままだ。
気づけば、大学三年の春。
これから就職活動が忙しくなっていくことを考えると、チャンスは今しかない。
少しだけ、『もう一生、処女なんじゃ……。』と思うことがある。
足取りは軽くなった。
「……あっ」
だが、すぐに立ち止まった。
社務所が閉まっている。
玄関には冬囲いの板が打たれ、お札を売る窓口も雨戸が閉ざされていた。
宮司さんの不在は、これで完全に確定した。
「いや、まだまだ!」
しかし、諦めない。
こういう神社では、拝殿に書き置きの御朱印が置かれていることがある。
私は拝殿の階段を上る。
賽銭箱の前で立ち止まり、左右を確認する。
それから、もう一度正面を見る。
御朱印は、どこにも見当たらなかった。
「駄目かー……」
ふと、風が抜けた。
参道から境内へと吹き抜ける一陣が、髪を揺らす。
思わず前髪を押さえた。
******
「ふぅー……。」
お風呂上がりの酒を、ゆっくりと口にする。
テレビはつけっぱなしのまま、音だけが部屋に流れている。
その合間に、何度もテーブルの上の御朱印帳へ視線が向いてしまう。
缶を置き、下着を身につける。
神様の前で、裸のままでいるのは、なんとなく落ち着かなかった。
それを済ませてから、御朱印帳を手に取る。
最後のページを開く。
『満願』
やはりそこには、頂いた覚えのない御朱印があった。




