バブル崩壊! 絶望の底での「究極の投資判断」
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その日、王都の空は朝から重苦しい鉛色の雲に覆われ、まるで街全体が巨大な墓標のようになっていた。
「魔力草」のバブル崩壊は、あまりにも唐突で、そして無慈悲だった。
発端は、王都の裏で糸を引いていた大口の投機家たちが、一斉に利益を確定させて売り抜けを図ったことだった。
実需という「土台」を持たない砂上の楼閣は、一度崩れ始めると止まらない。
昨日まで金貨数十枚で取引され、宝物のように扱われていた球根は、わずか半日のうちに大暴落を引き起こした。今や銅貨一枚の価値すらつかない、ただの「枯れ草」である。
王都の中央広場は、一夜にして地獄絵図と化した。
紙屑同然となった魔力草の山を前にして泣き叫ぶ商人。
借金の証文を握りしめ、虚ろな目で宙を見つめる貴族。
貸し剥がしに走る高利貸しの怒号と、破産者たちの絶望の悲鳴が、冷たい風に乗って街路に響き渡っている。
リリアーヌは、足元に散乱し、人々に踏みにじられて泥まみれになった魔力草を静かに見下ろしながら、薄暗い路地裏を歩いていた。
(……見事なまでのクラッシュ。歴史の教科書で見た、チューリップ・バブルの崩壊と寸分違わないわ)
彼女の心は、周囲の狂乱とは対照的に凪いでいた。
前世、日本という国で数々の相場と向き合い、バブルとその崩壊をモニター越しに見つめ続けてきた彼女にとって、この結末は火を見るよりも明らかだった。
価値の裏付けがない熱狂は、必ず最悪の形で収束する。
相場の世界において、無知と過剰な欲望は最大の罪なのだ。
だが、リリアーヌの足取りは、ただ冷酷に市場の終焉を傍観するためのものではなかった。
彼女は王都を縦断する、大きな石橋へと向かっていた。
相場が弾け、すべてが焼け野原になった今、領民の命運を背負い、昨日あの広場で全財産を投じようとしていた「あの青年」が向かう場所は、一つしかないと確信していたからだ。
橋の中央。
冷たい川風が吹き抜ける石造りの欄干に、一人の男が身を乗り出すようにして立っていた。
ライナス男爵だ。
数日前、不器用ながらも力強く、領民のために一攫千金を夢見ていた彼の面影は、もはやどこにもない。
仕立ての良かった騎士服は泥と埃に汚れ、その手には、全財産と引き換えに手に入れた土まみれの根っこが数本、力なく握られている。
(……見つけた。やっぱり、すべてを失って自分を責めているのね)
ライナスの広い背中は、痛ましいほど小刻みに震えていた。
彼が見つめる濁った川の底。その暗闇の中に、彼は自分を信じてくれた領民たちの顔を思い浮かべているのだろう。
代々受け継いできた領地、領民の笑顔、そして男爵としての誇り。
不作による困窮を救うためとはいえ、己の浅はかな判断でそのすべてを灰にしてしまったという自責の念が、彼を押し潰そうとしていた。
このまま一歩前に踏み出せば、重い負債と絶望を抱えたまま、彼は冷たい水の中へ消えてしまう。
「……冷たい川の水は、すべての痛みを忘れさせてくれるわけではありませんよ、男爵様」
鉛色の空の下、静寂を破るようにリリアーヌの澄んだ声が響いた。
ビクッと肩を震わせ、ライナスが振り返る。落ち窪み、生気を失った瞳には、見すぼらしいドレスを着た見知らぬ令嬢の姿が映っていた。
「あなたは……誰だ。私を、笑いに来たのか」
自嘲気味に笑うライナスの声は、ひどく掠れ、乾ききっていた。
「領民の命運を背負いながら、あんな得体の知れない草に踊らされ、すべてを失ったこの愚か者を……蔑みに来たのだろう!」
激しい感情の爆発と共に、ライナスが握りしめていた根っこを橋の床石に叩きつけようと腕を振り上げる。
その瞬間、リリアーヌはドレスの裾を翻して駆け寄り、彼の手首を両手で力強く掴んだ。
「――っ!?」
「投げ捨ててはいけません! それは、ゴミなんかじゃない。
あなたが領民を救うための、ただ一つの希望です」
驚きで目を丸くするライナス。
リリアーヌの細く白い手が、泥まみれのライナスの手を強く、ひたむきに握りしめている。
その瞳には、一抹の同情も、嘲笑もない。
ただ、燃えるような強い意志だけが宿っていた。
「私はリリアーヌ。没落した子爵家の娘です。あなたを笑いに来たのではありません。
……『取引』をしに来たのです」
「取引……? 冗談を言わないでくれ。私にはもう、何も残っていない。
名誉も、金も。この手にあるのは、何の価値もない枯れ草だけだ……っ!」
「市場は死にました。熱狂は去り、人々はそれをただの枯れ草だと見捨てている。
でも、だからこそ……これの『本当の価値』は、ここから始まるのです」
リリアーヌの言葉は、昨日まで広場に響いていた投機家たちの薄っぺらなそれとは全く違っていた。
「男爵様。あなたは、この魔力草がなぜ高いのか、その理由を知って買いましたか?」
「それは……七色の花が咲き、貴族たちの間でステータスになっているから……」
「そう、皆『飾るための花』にしか価値を見出していなかった。
でも、本当に価値があるのは、あなたが今握りしめている、見栄えのしないその『根っこ』の方なのです」
リリアーヌは、かつて自分がどん底に落ちた日々の記憶を静かに語り始めた。
実家が没落し、住み込みの働き口すら見つからず、明日のパンすら買えなかった日々。
飢えと寒さで身を震わせていた彼女は、市場の裏通りに「観賞用の基準を満たさない」として無造作に捨てられていた魔力草の根っこを拾い集めた。
毒があるかもしれないという恐怖よりも、生き延びたいという本能が勝っていた。
「泥を落とし、何度も茹でこぼしてアクを抜き、じっくりと煮込みました。
……それは、驚くほど美味しかったのです。
まるで上質な栗か、高級な芋のようにホクホクとしていて、滋味深い旨味と優しい甘さが、冷え切って強張っていた身体の隅々にまで染み渡りました」
(前世で食べた、極上のゆり根にそっくりだったわ……)
リリアーヌの言葉は、まるで目の前に湯気を立てる温かいスープがあるかのように、鮮明で生々しかった。
「それだけではありません。その根を煮込んだとろみのある汁に触れていた私の手は、数日のうちに驚くほど滑らかになり、栄養失調でガサガサに荒れ果てていた頬までもが、まるで生まれ変わったように内側から艶を取り戻したのです」
その言葉の証拠を示すように、リリアーヌは自身の白い頬をそっと指差した。
見すぼらしい身なりとは不釣り合いなほど、彼女の肌は透き通るように美しく、生命力に満ちていた。
「市場は欺けても、自ら泥水をすすって得た実体験と、私の胃袋と肌は騙されません。
この根っこには、人々を癒やし、美しくする『確かな実用性』がある。
皆が絶望して投げ売りしている今こそ、底値なのです。
ここで拾い上げることができれば、必ず莫大な利益を生むことができます」
冷たい風の中、リリアーヌの瞳だけが確かな炎のように燃えていた。
その揺るぎない自信と、泥臭いまでの生存本能に裏打ちされた説得力。
そして、力強く握られた手の温もりに、ライナスの凍りついていた心がわずかに溶け始める。
「男爵様。あなたの手元に、まだ少しでも硬貨が残っているなら……街中に捨てられているこの『枯れた根っこ』を、すべて買い集めてください」
「買い集める……? 私に、もう一度投資をしろと言うのか……」
「いいえ。これは一攫千金の博打ではなく、確かな『事業』への投資です。
私を信じて。あなたの領地を、私が必ず立て直してみせます」
ライナスは、目の前に立つ小柄な令嬢を真っ直ぐに見つめ返した。
すべてを失い、死を覚悟した自分に差し伸べられた、細く、しかし誰よりも力強い手。
「……なぜ、あなたはそこまで言い切れる?
没落したというあなたが、なぜ見ず知らずの私を助けるんだ」
戸惑うライナスに、リリアーヌはふわりと微笑んだ。
それは、数々の修羅場をくぐり抜けてきた投資家としての顔と、すべてを失った人間の痛みに寄り添う慈愛が入り混じった、美しい笑顔だった。
「……私も、どん底を知っているからです。
それに、領民のために必死になっていたあなたのその不器用な誠実さを、このまま終わらせてしまうのは、あまりにも惜しい相場ですから。
さあ、立って。顔を上げてください、男爵様。
私たちの本当の反撃は、ここからです」
長い沈黙の後。
ライナスは、差し出されたリリアーヌのその手を、今度は自分からしっかりと握り返した。
橋の下を流れる川の音は、もはや死を誘う子守唄ではなく、新たな始まりを告げる産声のように響いていた。
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