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第7話:川を遡る者


朝の空気は、冷たかった。


焼け跡に残った灰を踏みしめながら、

俺は装備を整える。


角グマの毛皮。

肩に掛けると、ずしりと重い。


だが――

冷気を遮る感触が、はっきり分かる。


頭には、削った頭蓋。

内側はまだ荒いが、

被ると視界が安定した。


骨の防具を腕と脛に当て、

ツタで締める。


きし、と音がする。


……動ける。


重さはある。

だが、邪魔じゃない。


最後に、武器。


予備としてツノウサギの投げ槍を背に。

ヘビ頭の牙杭を腰に差す。


弓矢は、矢を作るのが面倒で三発しかないので、置いていく。


そして――


槍。


いつもの位置に、

いつもの重さで握る。


「……よし」


声に出すと、

森が一瞬だけ静まった気がした。


拠点は、もうない。

寝床も、屋根もない。


だが――

丸腰じゃない。


それだけで、

一歩を踏み出せる。


―――――


向かうのは森の奥、もう一つの川。


あの日、偶然見つけた流れだ。


あの薬草は、

水と湿り気のある場所に生える。


最初に見つけた場所が、そうだった。


なら――

向こうの上流にも、あるかもしれない。


距離は分からない。

何がいるかも分からない。


だが、

動かなきゃ、いざって時に死ぬ。


俺は川沿いへ向かった。


―――――


水音が、近づく。


ざあ……ざあ……


一定のリズム。

それが、逆に周囲の音を殺す。


足元は滑る。

石に苔が張り付き、

一歩ごとに気を遣う。


湿った匂い。

冷たい空気。


……あった。


岩陰。

川に近い斜面。


見覚えのある葉。


「……やっぱりな……」


噛めば、

あの清涼感が来るやつだ。


数は少ない。

根こそぎは、できない。


俺は慎重に数枚だけ摘み、

作った袋にしまった。


これだけじゃ、足りない。


視線を上げる。


川は、

さらに奥へ続いている。


木々が近く、

光が遮られ、

視界が狭い。


「……上か……」


戻るなら、今だ。

だが――


俺は、進んだ。


上流に向かうにつれ、

空気が変わる。


湿り気が増し、

匂いが濃くなる。


獣の気配は、ない。


そのときだった。


ざあ……ざあ……


その中に――


違う音。


「……?」


足を止める。


耳を澄ます。


水音。

風。

葉擦れ。


……ちがう。


かすかに、

喉を震わせる音。


「……っ」


声だ。


途切れ途切れ。


言葉までは聞こえない。


だが――


獣じゃない。


吠え声でも、

鳴き声でもない。


意味を持つ音。


そう理解した瞬間、

身体が勝手に反応した。


槍を握る。


指に力が入る。

骨の防具が、軋む。


木の影へ身を寄せ、

息を殺す。


心臓が、早い。


獣よりも――

厄介かもしれない存在。


声は、

川の上流から。


悲鳴だ。


間違いない。


短く、掠れて、

喉を潰すような――助けを求める声。


考える前に、身体が動いていた。


俺は川沿いの茂みを飛び出し、

音のする方へ走る。


枝が顔を打つ。

足元の石が滑る。


だが、止まらない。


――見えた。


人影。


小さい。


俺より、明らかに小柄だ。


だが――


その腕が、

何かに引っ張られている。


木の根元。


いや――

木じゃない。


巨大な食虫植物みたいなもの。


地面に根を張り、

上部に口のような器官がある。

その奥は暗く、湿っている。


そこから、

太いツタが何本も伸びていた。


その一本が、

人影の腕に絡みつき、

ずるずると引き寄せている。


「……っ!!」


俺は迷わなかった。


走り込み、

槍を短く持ち、刃の部分を使えるように持つ。


ツタに向かって、

一気に踏み込む。


ざくっ。


湿った感触。


切れた。


さらにもう一本。


ざくっ。


切断されたツタが、

地面に落ちて跳ねる。


植物が――


ぐぎゃぁ、と

喉の奥を鳴らすような音を立てた。


だが構わない。


俺は人影を引き寄せ、

植物から距離を取る。


「大丈夫か……!」


声をかけた、その瞬間――


腕を掴んだ感触が、

“人間”と違った。


子供? いや、ちがう……。


軽い。

骨が細い。


そして――


見た。


肌は、緑。


生きた色だ。


目は、黄色。

暗い森の中でも、はっきり分かる。


耳が――尖っている。


指先は細く、

爪みたいに先が尖っていた。


「……な!?」「ッ!?」


一瞬、

互いに固まる。


俺が。

相手が。


次の瞬間――


その生き物は、

目を見開き、

高い声を上げた。


っ――!


俺の手を振りほどき、

そのまま走り出す。


森の奥へ。


「……待て!」


反射で声が出た。


だが――


止まらない。


枝の隙間を縫い、

根を跳び越え、

あっという間に距離が開く。


途中、

一度だけ――


振り返った。


こちらを見る目。


怯え。

警戒。

混乱。


それだけを残して、

森に溶けるように消えた。


俺は、

その場に立ち尽くした。


植物の唸り声。

川の音。

自分の、荒い呼吸。


「……人……?」


口に出してみる。


だが、

今見たものは――


俺の知っている“人”じゃない。


獣でもない。

化物とも、違う。


助けたはずなのに、

逃げられた。


胸の奥が、

妙にざわつく。


――この森には、

俺以外にも、

“生きている者”がいる。


その事実が、

頭の中で形になる前だった。


……ぎち。


何かが、腕に触れた。


次の瞬間――


首が、締まる。


「――っ!?」


息が詰まる。


反射で槍を振ろうとして、

間に合わないと悟る。


ツタだ。


いつの間にか、

腕と、首に――絡みついている。


しまった――!


そう思った、次の瞬間。


……違和感。


確かに、苦しい。

首を締められて、空気が足りない。


だが――


引きが、弱い。


抵抗できない力じゃない。


明らかに――弱い。


「……?」


俺は、

絡みつくツタを逆に掴んだ。


腕に巻き付いた部分を、

手繰り寄せ――


力を込める。


ぶち。


「……は?」


音を立てて、

ツタが千切れた。


驚く暇もない。


もう片方の腕。

首元。


掴んで、引く。


ぶち。

ぶち。


あっさりだ。


切られたツタは、

まるで怯えるみたいに

ずるずると地面を這い、

元の植物へ引っ込んでいった。


俺は数歩、距離を取る。


息を整える。


「……おい……」


植物は、動かない。


いや――

完全に、止まったわけじゃない。


口の上。


そこに――


丸いものが、あった。


フットボールほどの大きさ。


袋状。

表面はぬめっていて、

脈打つように、わずかに動いている。


……種?

……果実?


嫌な予感が、

背中を這い上がる。


俺は槍を構え、

慎重に一歩、近づいた。


穂先で、

袋の表面を――つつく。


ぴくり。


ひるむような動き方じゃない……。


中で、

何かが動いた……。


「……」


さっきの――


緑の肌。

黄色い目。

尖った耳。


脳裏に、

あの姿がよぎる。


「……まさか……」


俺は、

躊躇しなかった。


袋の縁に手をかけ、

力を込める。


べりっ。


裂けた。


次の瞬間――


甘酸っぱい匂いが、

一気に広がる。


粘ついた液体が、

びしゃっと飛び散った。


中から――


落ちてきた。


小さな身体。


緑の肌。

細い手足。


……子供?


さっき助けた個体と、

よく似ている。


「……おい!」


俺は慌てて抱え上げる。


意識は――ない。


だが、

胸はかすかに上下している。


息は、ある。


「……生きてる……」


考える暇はなかった。


俺は川へ走り、

その身体を水に浸す。


液体を洗い流す。


皮膚は――溶けていない。


火傷のような跡も、

今のところは、ない。


「……間に合った、か……」


小さくうめき声を上げ、

そのまま意識を失った。


俺は周囲を見回す。


森。

川。

植物。


……他に、気配はない。


仲間は――いなさそうだ。


気づけば、

空が赤くなり始めている。


日が、傾いていた。


「……くそ……」


探す時間は、ない。


ここに置いていけば、

また、何かに襲われる。


俺は一度、迷って――


抱え直した。


軽い。


驚くほど、軽い。


「……連れて帰るしか……ねぇか……」


誰の子か。

何者か。

敵か、味方か。


そんなことは、

今はどうでもいい。


俺は槍を拾い、

森を背にして歩き出した。


腕の中の、

小さな重みを確かめながら。


――この森で、

俺はもう、

一人じゃないのかもしれない。


そんな考えを、

振り払うようにして。

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