第8話:火の輪の中で、与えられたもの
拠点に戻ったのは、夜だった。
空は雲に覆われ、
月も星も見えない。
闇が、重い。
俺は焚き火を大きめに起こし、
薪を足して火力を保った。
そのとき――
ぞわり、と空気が揺れた。
「……やっぱり来やがった……」
見上げる。
黒い影。
一つ、二つ……三つ。
靄の塊みたいなそれが、
拠点の上空を円を描くように旋回している。
ッ――――ッ――――。
硝子を引っかくような、
耳障りな鳴き声。
だが――
焚き火の光の境界線を、
決して越えてこない。
距離を保ち、
苛立つように回るだけだ。
「……やっぱり火を怖がってるな……」
確信に変わる。
あいつらは、
闇の中では自由だが、
火の中には入れない。
分かりやすい弱点だ。
(……それにしても、うざったい)
俺は視線を下げた。
焚き火の少し奥。
岩肌に寄せて作った、新しい寝床。
角グマの毛皮を重ね、
風を遮るように組んだ囲い。
そこに――
今日、連れて帰ってきた小さな生き物がいる。
「……」
改めて考える。
子供……いや。
「……ゴブリン、か……」
口に出すと、
妙な感じがした。
俺の知っているゴブリンは、
歪で、醜くて、敵役で――
そういう存在だったはずだ。
だが、
あれは違う。
人間を、そのまま縮小して、
耳を尖らせ、
指先に爪を付け、
肌を緑にしただけ。
禍々しさは、ない。
むしろ――
脆そうだ。
「……言葉、通じるのか……?」
分からない。
敵かもしれない。
何も始まらないかもしれない。
助けたのは、
正直、考える暇がなかっただけだ。
今は、
毛皮の上で静かに眠っている。
胸は、上下していた。
(……そろそろ起きるか……)
そう考えながら、
俺は焚き火の前に腰を下ろした。
熊肉を串に刺し、
火にかける。
じゅ、と脂が落ち、
火が一瞬だけ強くなる。
匂いが立つ。
腹が、反応する。
そのとき――
視界の端。
囲いの影。
……動いた。
俺は、あえて動かない。
肉を返す。
火加減を見る。
焦げすぎないよう、
ゆっくり回す。
もう一度――
今度は、はっきり見えた。
寝床の隙間から、
小さな頭。
黄色い目が、
焚き火の光を反射して、
きらりと光る。
一瞬で、引っ込む。
(……起きたな……)
俺は肉を火から外し、
串を地面に立てた。
焼けた肉の匂いが、
夜に広がる。
「……腹、減ってるだろ」
低く、独り言みたいに呟く。
通じるとは思っていない。
上空では、
黒い影が、まだ旋回している。
苛立ちと、
諦めが混じった鳴き声。
だが、
火の輪の内側へは来ない。
俺は串を取り、視線を向けた。
「……食うか?」
声を、抑える。
敵意を見せないように。
今夜は――
火がある。
少なくとも、
闇よりは、味方だ。
ゴブリンは、出てこなかった。
小さな頭が一瞬覗き、
すぐに引っ込む。
「……シャイだな……」
俺は肩をすくめ、
先に自分で串にかぶりついた。
「……うめっ……」
噛む。
脂が弾ける。
腹に、熱が落ちていく。
その瞬間だった。
がつん――!
後頭部に、衝撃。
「――っ!?」
視界が一瞬、白く弾ける。
石――?
殴られた……?
よろめきながら視線を落とす。
焚き火の足元。
落ちた熊肉。
それを掴み、
必死に走り出す――小さな影。
「……っ、コラ……!」
逃げる先は、
焚き火の光の外。
闇だ。
まずい。
その瞬間――
上空の影が、動いた。
一直線。
「――あぶねぇ!!!」
ふらつきながら立ち上がり、
俺はゴブリンの手を掴んだ。
引き戻す。
ぎりぎりだった。
黒い影が、
焚き火の縁をかすめ、
そのまま上空へ引き返していく。
「……ふぅ……」
息を吐いた、次の瞬間。
「いってぇ!?」
噛まれた。
思いきり、
手に歯が食い込んでいる。
「……おい……」
手を離す。
ゴブリンは再び逃げようとするが、
目の前を影が横切り――
びくりと止まり、
尻餅をついた。
「……ったく……」
俺は歩み寄り、
首根っこを掴んで持ち上げた。
軽い。
そのまま焚き火の前に連行し、
俺は座る。
膝の上に座らせ、
逃げられないように拘束。
また噛もうとする。
「……あッ?」
低く、声を落とす。
通じたのか。
ゴブリンはぴたりと動きを止め、
おとなしく座った。
俺は落とした串の代わりに、
新しい串を取る。
熊肉を刺し、
差し出した。
ゴブリンは、
俺と串を交互に見て――
恐る恐る。
そして、一気にかぶりついた。
焚き火が、ぱちりと鳴る。
闇の中で、
二つの影が、
同じ火を囲んでいた。
「……おまえ、名前は?」
問いかけてみる。
膝の上で肉をかじる小さな身体は、
きょとんとした顔で俺を見上げるだけだった。
「……仲間は?……どこから来た?」
返事は、ない。
いや――
そもそも、意味が分かっていない。
耳がぴくりと動くだけで、
言葉そのものが届いていない感じだ。
「……やっぱ、通じないか……」
深く、溜息をつく。
言葉は通じない。
少なくとも、今は。
そう思った、そのときだった。
ゴブリンは、
再び、自分の持っていた串と、
俺の顔を交互に見て――
そっと、
串を差し出してきた。
「……ん?」
受け取る。
「あぁ……ありがとう、ってことか?」
正解かどうかは分からない。
だが――
悪意じゃないのは、分かる。
「あい、あお?」
ゴブリンが、
俺の声を真似た。
音を、なぞるみたいに。
「……?」
思わず、目を細める。
真似ている。
意味じゃなく、
“音”を。
「……言葉、教えりゃ……通じるのか?」
そんな考えが、
頭をよぎった瞬間。
ゴブリンが、
焚き火にかけてある肉へ、
直接、手を伸ばした。
「――あぶない!!」
声を張り上げる。
「キャッ!?」
驚いたゴブリンが、
反射で立ち上がろうとする。
だが――
俺の腕が、まだ腰を押さえている。
逃げられない。
「……ったく」
小さな手が、
火に近すぎる。
そのまま触れたら、
確実に火傷だ。
「おまえ……そんなとこに手、突っ込んだら……」
言いかけて、止める。
……言っても、分からない。
俺は串を地面に置き、
左手を、
ゴブリンの小さな手に重ねた。
爪のある、軽い手。
ゆっくりと、
焚き火に近づける。
「……ほら」
火の手前で、
止める。
「あったかい、だろ」
「……ぉお……」
目を丸くしている。
驚きと、
興味。
それが、はっきり伝わる。
次に、
俺はゴブリンの手を離し、
自分の手だけを、
さらに火に近づけた。
じわりと、
熱が増す。
……熱い。
さらに近づける。
「……っ、あちっ」
ぱっと、手を引く。
それを見て――
ゴブリンも、同じ距離に手を伸ばした。
同じように。
そして――
同じタイミングで、
手を引いた。
「……な?」
そう言って、
苦笑する。
「……あぶねぇだろ」
「……あぅええ!」
声を上げて、
ゴブリンは勢いよく頷いた。
分かっている。
“熱い”
“危ない”
言葉じゃなく、
体験で。
「……理解力は、あるみたいだな……」
焚き火が、ぱちりと鳴る。
闇の向こうでは、
黒い影がまだ旋回している。
だが――
火の輪の中。
俺と、
名前も知らない小さなゴブリンは、
同じ場所で、
同じ熱を感じていた。
俺は、焚き火を指さした。
「……これは、火……なまえ」
ルゥは、炎と俺の指を交互に見ている。
「ひぃい…」
惜しい……。
次に、足元の石を拾う。
「……石。……それも、なまえ」
「……なま……?」
短く首を傾げる。
俺は頷き、もう一度、ゆっくり繰り返した。
「……そう。なまえだ」
今度は、串に刺さった肉を指す。
「……肉。……これも、なまえ」
ルゥは、
石、火、肉を順番に見て、
しばらく黙り込んだあと――
「……なまえ……」
小さく、呟いた。
「……そうだ、呼び名がないと不便だし…」
胸の奥で、
何かが、かちりと噛み合う音がした。
「……おまえも、なまえがある」
「……?」
「う〜ん?ゴブ子?…いや、ダサいな…」
「うぅ〜?」
「…」
黄色い目が、まっすぐ俺を見る。
「……ルゥ…でどうだ?」
「……るぅ」
「そう、おまえのなまえ。ルゥだ」
今度は、迷いがない。
理解している。
それが“自分を呼ぶ音”だと。
ルゥは、少し誇らしそうに、
胸を軽く叩いた。
「……まえ!……ルゥ!」
――そこで終わるはずだった。
だが。
ルゥは、今度は俺を指さした。
焚き火の向こう側。
俺の顔を、じっと見て。
「……なまえ?」
……え?
一瞬、頭が止まった。
なまえ?
俺の……?
答えようとして、
口を開いて――
何も、出てこない。
「……え……?」
喉が、ひっかかる。
「……あ……あれ?」
胸の奥が、
すっと冷える。
――名前?
考えようとして、
気づく。
思い出そうとして、
気づく。
……ない。
思い出そうとする“前提”が、
最初から、どこにもない。
「……俺……」
声が、震えた。
「……俺……なんで……」
その瞬間、
初めて理解した。
名前だけじゃない。
過去も、
出自も、
ここに来る前の自分も――
丸ごと、
何も、ない。
生きることに必死で、
疑問にすらしなかった。
考える余裕がなかった。
だから――
今まで、気づかなかった。
「……は……?」
自分で、
自分に驚く。
頭の中が、
一瞬、真っ白になる。
ルゥは、
そんな俺の口元をじっと見て――
「……えあ?」
音を拾った。
「……え?」
「……エア!」
はっきり、
そう呼んだ。
……違う。
誤解だ。
俺が言おうとした言葉じゃない。
でも――
今は、
それでいい気がした。
否定する気が、
起きなかった。
「……あぁ」
小さく、息を吐く。
「……エア、だ」
焚き火が、ぱちりと鳴る。
ルゥは、もう一度だけ、
俺を見て言った。
「……エア」
その呼び方が、
胸の奥に、妙に残った。
名前を持たなかった俺は、
この夜、ルゥに名前をもらった。




