第64話:渡りの風
港は、朝の潮の匂いに包まれていた。
帆が鳴る。
縄が軋む。
船員たちの怒鳴り声が飛び交う。
目の前には、アルケシアのある大陸行きの中型船。
俺は桟橋の端で足を止めた。
「……いいのか?」
四人を見る。
「アルケシアに向かうのは、俺の目的だ」
ガルドが鼻を鳴らす。
「いいんだよ。んな、クソみてぇな大陸、長居するもんじゃねぇ」
つづいてロアンが肩を回しながら笑う。
「たしかにな。空気悪すぎだ、このクソな場所」
「……クソ?」
俺が聞き返す。
そこで、フィアが少しだけ目を伏せた。
ほんのわずかに、ばつが悪そうに。
「……ここは中央の影響が強いの」
視線を港の向こうへ向ける。
「教会本部があるでしょ?」
ロアンが「そうそ」と短く頷く。
「だから人間至上主義が強いの」
フィアの声は静かだ。
怒ってはいない。
だが、淡々としすぎている。
「人間以外の種族に否定的な人は多いわ」
ユーリスが、珍しく声を荒げた。
「ほんと、ひどい人たちでした!」
拳を握る。
「フィアはすごく優しいから怒りませんでしたけど! 私は怒りました!」
ぶつぶつと続ける。
「耳のこととか、寿命のこととか、失礼なことばっかり……」
ロアンが苦笑する。
「止めるの大変だったな、あのとき」
ガルドが腕を組む。
「まぁ、そういうわけだ」
視線を俺に向ける。
「俺たちとしても、さっさと向こうに帰りたいわけ」
ロアンがにやりと笑う。
「向こうはまだマシだ。いろんな奴らもいるしな」
フィアが俺を見る。
「あなたの目的があるなら、ついでよ」
“ついで”と言いながら、その目は本気だ。
ユーリスが大きく頷く。
「はい! 渡りの風ですから!
それに私の師匠もアルケシアにいるので!
エアさんに会ってほしいです!」
一瞬、風が吹く。
帆が大きく鳴った。
俺は小さく息を吐く。
「……そうか」
船員が叫ぶ。
「乗るなら早くしろ!」
ロアンが先に歩き出す。
「ほら、新人。置いてくぞ?」
ガルドが続く。
ユーリスが駆け足で桟橋を渡る。
そしてフィアが振り返り、
俺に手を差し出した。
「ほら、エア。行くわよ?」
その指先は、まっすぐだ。
ロアンがひゅー、と口笛を吹くが、
すぐに隣のガルドを見る。
「げ……」
あちゃー、という顔。
ガルドは一瞬だけ俺を、いや……
繋がれた手を睨み、そのまま視線を逸らして先へ行く。
ユーリスがくるりと振り返り、
今度は俺の反対の手を掴んだ。
「早くです!」
両側から引かれる。
「待て待て。槍落としちまうって」
……まったく。
俺は小さく笑い、進みだす。
木の桟橋が軋む。
潮の匂い。
風の音。
帆の影。
アルケシアへ向かう船が、
ゆっくりと出航の準備を始めていた。
―――――
船は軋みながら港を離れ、
ゆっくりと沖へ向かっていた。
甲板に出ると、
潮風が強くなる。
白い飛沫。
遠ざかる港。
水平線の青。
その先端で、
フィアがひとり海を眺めていた。
長い髪が風に揺れる。
俺がそちらへ歩き出そうとしたとき。
「おい、新人」
低い声。
振り向くと、
ガルドが腕を組んで立っている。
その後ろで、
ロアンがやれやれという顔で肩をすくめていた。
「……なんだ」
少しだけ、圧。
ガルドがまっすぐに俺を見る。
「フィアをどう思う?」
直球だな。
ロアンが苦笑する。
「まぁ、聞くよな……」
俺は素直に答えた。
「かわいい子だと思うが?」
一瞬。
ガルドの目が細くなる。
「!?……それは好きってことか?」
守る側の顔。
俺は小さく息を吐く。
「違う」
視線を逸らさずに続ける。
「俺から見りゃ、孫みたいなもんだ」
ロアンが吹き出す。
「また孫かよ! まじでいくつだ?」
ガルドは数秒、
俺を見つめていた。
やがて、ふっと息を抜く。
「……ならいい」
差し出される手。
「妙な気起こしたら海に沈める」
「起こさん」
握る。
強く、短い握手。
分かりやすい契約だ。
ロアンがにやりと笑う。
「よし、じゃあ三人で行くか」
気づけば、
ガルドが先に歩き出し、
ロアンもついてくる。
そのまま三人で、
フィアのいる船首へ向かった。
フィアが振り返る。
「……なに?」
「いや、俺は別に」
ロアンが笑う。
そしてガルドは吹っ切れたように。
「俺は、新人の監視だ。フィアに変なことしないようにな」
「?……余計なお世話よ」
風が強い。
帆が鳴る。
そのとき――
背後から足音。
どたどたどたどた。
「ふぃ、フィアさんどいてどいてー!」
振り返った瞬間。
ユーリスが顔面蒼白で走ってくる。
「うっ――」
手すりに掴まり、
身を乗り出し、
「おろおろおろっ」
海へ。
ロアンが絶句する。
「……前より早ぇな」
ガルドが眉をひそめる。
「出航五分だぞ」
フィアが額に手を当てる。
「だから言ったでしょう。酔うって」
ユーリスが涙目で振り向く。
「だ、だってこんなに揺れるなんて聞いてませんでしたぁ……」
また海へ。
「うぇぇぇ……」
風が吹く。
俺は小さく笑った。
「……賑やかだな」
フィアが肩をすくめる。
「まぁね」
風が強く吹き抜ける。
帆が鳴り、
船体が軋む。
ユーリスの「うぇぇぇ……」が
背景音のように続いている。
俺はその喧騒を背に、
フィアを見た。
潮風に髪が揺れる。
「……聞きたいことがある」
フィアが横目でこちらを見る。
「なに?」
少しだけ真面目な声。
俺は視線を外さない。
「なんでだ?」
ロアンとガルドが、
わずかにこちらへ意識を向ける。
「なんで、俺にそこまでよくしてくれた?」
波が砕ける。
「見てる限り、お前らは俺の力を利用するつもりで動いてる連中じゃねぇ」
ガルドの顔つきが変わる。
さっきまでの軽さが消える。
ロアンも腕を組む。
「確かに、それは俺も思ってた」
俺は続ける。
「俺は素性もわからねぇ、怪しい火を使う、新入りだ」
一瞬、間。
「それでも、船まで……その上、旅まで一緒に……」
風が吹く。
「……なぜそこまでしてくれる?」
静かになる。
ユーリスのうめき声すら、
遠く感じる。
フィアは少しだけ目を伏せた。
そして、素直に言う。
「……直感よ」
ロアンが小さく笑う。
「出たな」
ガルドは何も言わない。
フィアは続ける。
「あなたを見たとき、何とかしてあげなきゃって思ったの」
その言葉に、ガルドの顔が険しくなり、
ロアンが眉を上げる。
フィアは視線を海に向けたまま。
「強いのに……どこか迷子みたいだった」
風が髪をさらう。
「それに……」
一瞬だけ、俺を見る。
「どこか懐かしかった……」
声がわずかに柔らぐ。
「家族に似た感じがしたの……」
ロアンが「へぇ」と小さく言う。
ガルドは腕を組んだまま、
目を細めて俺を見る。
ユーリスがふらつきながら近づいてくる。
「ふぃ、フィアさん……水ぅ……」
誰も反応しない。
フィアは俺から目を逸らさない。
「理屈じゃないわ」
波が光る。
「だから助けた。それだけ」
静寂が生まれる。
ロアンがぽつりと呟く。
「まぁ、フィアがそう言うなら、それが理由だ」
ガルドも低く言う。
「俺はフィアが決めたからついてきただけだ」
ユーリスがゆらゆらとフィアの腰から水をとり、かすれ声で。
「わ、渡りの風、ですから……」
そしてフィアが、
一歩近づく。
「ねぇ、エア」
まっすぐな目。
「あなた、何者?」
風が強く吹き抜ける。
帆が鳴り、
船体が軋む。
フィアの視線はまっすぐだった。
ロアンも、
ガルドも、
ユーリスでさえ、
吐き気をこらえながらこちらを見ている。
俺は、少しだけ空を見上げた。
「……言っても、信じねぇぞ?」
ロアンが眉をひそめる。
「何だよ、それ」
ガルドは腕を組んだまま。
「言え」
短い。
俺は視線を戻す。
「お前らは……俺のことをエンラって呼んでるらしい……」
空気が止まる。
ロアンの顔から軽さが消える。
ユーリスの瞳が揺れる。
「……始まりの神」
ガルドの声は低い。
「おい、冗談でも軽々しく出すな。死ぬぞ?」
フィアだけが、静かに問う。
「どういう意味で、今それを言ったの?」
俺は息を吐く。
「事実さ……。だが俺は神じゃない」
だが目は逸らさない。
ロアンが、額を押さえた。
「……とんでもねぇの拾っちまったな」
半分呆れ、
半分本気。
ガルドは腕を組んだまま、
じっと俺を見ている。
数秒。
そして鼻を鳴らした。
「神だろうが何だろうが、今は新人だ」
短い。
「船で暴れりゃ海に沈める。それだけだ」
ロアンが吹き出す。
「基準そこかよ」
フィアは、少しだけ眉を寄せた。
怒ってはいない。
ただ、静かに言う。
「……そういうの、あんまり軽く言わないほうがいいわよ?」
視線は俺から外さない。
「本気で信じる人もいるし、本気で怒る人もいる……中央なんて特にね」
風が強く吹く。
帆が鳴る。
ユーリスが、手すりにしがみついたまま顔を上げる。
青白い。
涙目。
それでも、こちらを見ている。
「うぇ……でも……」
ごくりと喉を鳴らす。
「エアさん、火……」
また一瞬、こみ上げる。
震える声。
「私、見ましたから……」
海へ。
「おろろろろ……」
ロアンがため息をつく。
「説得力ゼロだな」
だがユーリスは顔を上げる。
涙と潮風でぐしゃぐしゃの顔で。
「でも……っ」
「私は……ちょっとだけ……信じてます……」
フィアが小さく息を吐く。
「ほら、こうなる」
俺を見る。
「だから、あんまり言わないほうがいいわね」
ガルドは短く言う。
「エンラは神話だ」
視線は鋭い。
「だが、お前はここにいる」
一歩近づく。
「だったら俺は、目の前の“お前”を見る」
ロアンが肩をすくめる。
「そういうこと……まぁ、正体が何でもいいさ」
にやりと笑う。
「渡りの風に乗ったなら、それだけで仲間だ」
フィアが小さく頷く。
「……ええ」
風が吹き抜ける。
ユーリスの「うぇぇぇ……」がまた響く。
俺は、ほんの少しだけ目を細めた。
「……だから言ったろ?信じねぇって」
ユーリスの音を背景に、少し笑い合っていた。




