第234話:七年前の道
俺は、
手の中の腕輪を見る。
淡い青い光。
まるで、
水そのものが閉じ込められているようだった。
腕輪を左腕へ通す。
―――カチッ。
小さな音を立てて留まった。
次の瞬間。
腕輪の青い光が、
一度だけ強く脈打つ。
「……」
身体に違和感はない。
重くもない。
「私達もですね」
ユーリス達もそれぞれ腕輪を受け取り、
静かに身に着けていく。
ミリカが自分の腕を眺めた。
「何も変わらないにゃ?」
「水へ入れば分かる」
アーダは静かに言った。
そして。
セレネリアの方へ歩み寄る。
マリスの手は、
まだ強く握られたままだった。
「セレネリア」
アーダが優しく呼ぶ。
「少しだけ……、
この子を借りる」
セレネリアは答えない。
ただ、
俯いたままマリスの手を握り続けている。
やがて。
ゆっくりと。
その手が離れた。
「……お願い」
震える声だった。
「必ず……返して」
「あぁ」
アーダは短く頷く。
マリスは少し困ったように笑った。
「……」
小さく頭を下げると、
俺達の方へやって来る。
アーダは先頭に立ち、
部屋を出た。
扉の向こうは海だ。
青く澄んだ水。
そこへ踏み出すと、
アーダの二本の脚が滑らかに形を変え、
一本の尾になる。
「案内したい場所がある」
俺も一歩踏み出した。
腕輪が淡く光る。
水へ入った瞬間。
息苦しさはなかった。
水が口や鼻へ入り込んでくる感覚もない。
身体は確かに海の中にあるのに、
息をする感覚だけは空気の中と変わらなかった。
「すごい魔道具ですね……」
ユーリスが小さく呟く。
「本当に息ができます……」
ミリカも腕輪を見て、
耳をぴくりと動かした。
「これ、溺れないし濡れなくて便利にゃ……」
その背後で。
「……っ」
マリスが、
セレスに支えられながらもがいていた。
最初のように、
苦しんでいるわけではない。
だがアーダのように、
水へ入っただけで自然に尾を扱えるわけではないらしい。
「……あ、ありがとう」
「その身体。
便利なようで不便だな」
セレスが淡々と言う。
アーダが振り返り、
そんなマリスを見て僅かに口元を緩めた。
「こちらだ」
俺達は、
海底の回廊を進み始める。
腕輪のおかげなのか、
足をばたつかせなくても身体が水に押されるように進んだ。
アーダの速度にも、
それほど苦労せず合わせられる。
「本当に便利だ……」
「……エ、エア!」
後ろから声がした。
振り返ると、
マリスが必死にこちらへ追い付こうとしている。
しかし、急ごうとするほど重心を失い倒れかける。
俺は手を伸ばした。
反対側から、
セレスも手を差し出す。
「……ごめん」
「謝る必要はない」
セレスがそう言って、マリスの手を取る。
俺も反対側の手を掴んだ。
「……」
二人に引かれるマリスを見ていると、
ふと気付いた。
「お前ら、
いつの間にか仲良くなったな?」
「……なんだ?」
セレスは一瞬きょとんとしてから、
マリスと繋いでいる手を見る。
そして、
僅かに顔を逸らした。
「……い、行くぞ」
そのまま、
少しだけ先へ進む。
それからしばらく。
マリスは俺とセレスに引かれながら、
尾を揺らして進んでいた。
だが、
少しずつ動かし方が分かってきたらしい。
最初は横へ流されていた身体も、
今ではほとんど俺達と並んで進めるようになっていた。
「……」
口元が、
ほんの少し緩んでいる。
泳ぐこと自体は、
嫌いじゃないのかもしれない。
城から少し離れると、
景色が変わり始めた。
建物は減り。
代わりに、
岩場が増えていく。
「ここは……」
ユーリスの声に、
アーダが静かに答えた。
「七年前まで使われていた監視路だ」
俺も周囲を見る。
争った跡はない。
壊された武器も。
何かが起きたと分かるものは見当たらない。
水の中だからなのか…。
ただ…静かすぎる。
「……」
胸の奥が、
僅かにざわついた。
理由は分からない。
七年も前の場所だ。
何か残っている方がおかしい。
それでも。
ここにはまだ、
拾えていない何かがある。
…そんな気がした。
「ここから先だ」
アーダが、
ゆっくりと進み始める。
崩れた監視路。
倒れた石柱。
海藻に覆われた見張り台。
七年という時間だけが、
この場所を静かに包んでいた。
「当時、この辺りには見張りが常駐していた」
アーダは周囲を見回す。
「王族が地上へ向かう際にも、
使われていた道だ」
俺は、
崩れた石壁へ目を向けた。
「マリエルは、この先へ?」
「あぁ。おそらく」
アーダは短く頷く。
「最後に姿を確認されたのは、
この監視路だ」
ユーリスが、
壁へそっと触れる。
「七年……。
さすがに、
何も残ってはいませんね」
「物はな」
その時だった。
遠くから、
慌ただしい声が響いた。
「お待ちください!」
「女王陛下!」「危険です!」
俺達は、
一斉に振り返る。
青い海の向こう。
こちらへ真っ直ぐ泳いでくる影が見えた。
「……セレネリア?」
アーダの表情が変わる。
先頭を泳いでいたのは、
セレネリアだった。
その後ろを、
リリシア。
さらにカイル。
そして何人もの近衛達が、
必死に追い掛けている。
「母上!」「お母様!」
だが。
セレネリアは止まらない。
真っ直ぐ、
マリスだけを見ていた。
「セレネリア!」
アーダが迎えに出る。
「どうして来た!」
「ごめんなさい……」
セレネリアは、
小さく首を横に振った。
「でも……
無理だったの……」
視線は、
マリスから離れない。
「あの子をまた一人にするなんて……
できない……」
マリスは何も言えず、
その場で動きを止めていた。
リリシアも追い付き、
困ったように母の肩へ手を添える。
「お母様……」
カイルも近衛達と共に追い付き、
大きく息を吐いた。
「急に飛び出されてしまって……」
近衛達も頭を下げる。
「申し訳ございません……」
「全力でお止めしたのですが……」
アーダは額へ手を当て、
小さく息を吐いた。
「……」
このままじゃ、
まともに調べられないな。
俺は少し考え、
マリスを見る。
「マリス」
「……なに?」
視線だけが向く。
「頼みがある」
「……頼み?」
「女王から話を聞いてきてくれ」
マリスの目が、
僅かに動く。
「マリエルが、
どんな子だったのか。
俺達がここを調べている間に」
「……」
マリスは少しだけ、
セレネリアを見る。
それから。
「……うん」
小さく頷いた。
マリスは、
ゆっくりとセレネリアの方へ泳いでいく。
その姿を見た瞬間だった。
「あぁ……!」
セレネリアは堪えきれないように、
すぐさまマリスへ近付いた。
「よかった……!」
そのまま、
強く抱き寄せる。
「無事で……
本当によかった……」
震える声だった。
何度も肩へ触れ。
髪を撫でる。
「……あの」
マリスが、
小さく口を開いた。
セレネリアはマリスを抱き締めたままだったが、
少しだけ腕を緩める。
そして、
その顔を覗き込んだ。
「……少し、話を聞かせてください」
マリスが、
ゆっくりと言う。
「マリエルの……昔のこと」
その一言で。
セレネリアの瞳が揺れた。
「ここだと……みんなの邪魔になるから」
マリスが、
俺達の方を見た。
「……二人で、
話せる場所がいいです」
セレネリアは、
少しだけ目を見開いた。
やがて。
ふっと、
柔らかく微笑む。
「……ええ」
頬を伝う涙を拭い、
小さく頷いた。
「聞いてほしいことが、たくさんあるの…」
もう一度。
マリスの手を、
そっと握る。
「行きましょう」
「……うん」
マリスは、
小さく頷いた。
アーダは二人を見て、
静かに息を吐く。
「…エア」
俺は振り返る。
「あっちは、
マリスに任せてくれ」
「……確かに。
それしかなさそうだ」
セレネリアは、
一度だけこちらを振り返った。
そして、
小さく頭を下げる。
そのままマリスと並び、
リリシア、カイル、近衛達と共に城の方へ泳いでいった。
その背中が、
少しずつ遠ざかっていく。
「さて……」
俺はもう一度、
崩れた監視路へ目を向けた。
「調べるか」
俺達は、
それぞれ散開した。
ーーーーー
私は、
セレネリアに手を引かれながら泳いでいた。
握られた手は、
まだ少し震えている。
「……」
前を泳ぐセレネリアの横顔は、
先ほどより少しだけ穏やかになっていた。
あれほど張り詰めていた表情も、
今は薄れている。
それでも。
何度も。
何度も。
私の方を振り返る。
そのたびに。
ちゃんと私がいることを確かめるように、
小さく微笑んだ。
「……」
少し、
不思議だった。
こんなふうに。
誰かに手を繋がれたことは、
ほとんどない。
強く引かれているわけでもない。
逃がさないように、
痛いほど握られているわけでもない。
ただ。
私が隣にいることを確かめるように、
手を繋いでいる。
「もう少しだから」
セレネリアが、
優しく言った。
「静かに話せる場所があるの」
私は小さく頷く。
後ろでは、
リリシア達も少し距離を空けて付いて来ている。
誰も話さない。
まるで。
私達だけの時間を、
作ってくれているようだった。
やがて、
王城が近付いてくる。
青い珊瑚。
白い石壁。
さっきまでいた場所なのに、
少しだけ違って見えた。
「こっちよ」
セレネリアは、
私の手を引いたまま城の奥へと泳いでいく。
静かな回廊を抜ける。
人の姿は少ない。
すれ違う者はいても、
誰も私達を呼び止めなかった。
しばらく進むと。
小さな扉の前で、
セレネリアが動きを止めた。
「……」
ゆっくりと、
扉へ手を伸ばす。
それから、
私の方を見た。
優しく微笑む。
「ここなら……
誰にも邪魔されないわ」
静かな声だった。
扉が、
ゆっくりと開く。
中から。
柔らかな光が漏れた。
「入りましょう」
私は小さく頷く。
「……うん」
セレネリアに手を引かれ。
私は、
その部屋の中へ入った。




