第9話:戻れない場所
その夜、
俺とルゥは一緒に眠った。
焚き火を弱め、
角グマの毛皮を重ねた寝床。
その中で――
ルゥは、俺の腕の内側に丸まるようにしていた。
小さい。
軽い。
それでも、
確かに「誰かが隣にいる」重さがある。
……温かい。
体温が、じわじわと伝わってくる。
森の夜は冷えるはずなのに、
その部分だけ、妙に安心できた。
だが――
ほとんど眠れなかった。
目を閉じても、
すぐに意識が浮かぶ。
上空を回る黒い影のせいじゃない。
焚き火は、ちゃんとある。
原因は、はっきりしていた。
記憶だ。
正確には――
記憶が「ない」と、はっきり自覚してしまったこと。
昨日まで、
生きることに必死で考えなかった。
食う。
守る。
殺されない。
それだけで、頭がいっぱいだった。
だが、
名前を聞かれて、
答えられなかったあの瞬間。
初めて、理解してしまった。
俺には――
帰る場所が、ないんじゃないか?
もし、
どこかに戻れるとして。
そこに、
待っている人はいるのか?
名前を呼んでくれる誰かが。
……いない気がした。
そうだとしたら――
今こうして森で生きているのと、
何が違う?
結局、
一人じゃないか。
ルゥは隣で、
小さく寝息を立てている。
その温もりに、
無意識に腕を回しても、
胸の奥の不安は、消えなかった。
同じ考えが、
頭の中をぐるぐる回る。
答えは出ない。
出しようがない。
――気づけば、
空が少しずつ白んでいた。
朝だ。
結局、
一睡もした気がしなかった。
―――――
朝メシは、
昨日ルゥを捕まえていたツタと、
熊肉の即席サラダ。
刻んだ葉と、
焼いた肉を混ぜただけ。
「……たまには葉っぱも食わねぇとな」
独り言。
ルゥは、
皿代わりの平たい石を見て、
露骨に不満そうな顔をした。
耳が、ぺたっと下がる。
「……なんだ、その顔」
言葉は通じないが、
不満なのは一目で分かる。
「お残しは……許しまへんでぇ〜」
自分で言って、何を言ってるんだと思う…。
ルゥは首を傾げたまま、
しぶしぶ口に運び――
もそもそと食べた。
全部。
……ちゃんと。
えらい。
朝メシが終わった、そのときだった。
「――キャッ!!」
突然、
甲高い悲鳴。
ルゥが尻餅をついた。
目の前――
熊の骨で作った、
俺の防具。
腕当て。
脛当て。
骨が、
関節の位置で並び、
人の形に近いシルエットを作っている。
ルゥは、
それを指さし――
次に、俺を見た。
目を見開いたまま、
声が出ない。
怯えている。
だが――
獣に怯える時とは、違う。
ルゥは、
角グマの死体を見ている。
血。
解体。
肉。
骨。
死を、知っている。
だからこそ――
「……」
骨が、
“ここにある”。
しかも、
人の形に組まれている。
それが、
何を意味するか。
ルゥは分かってしまった。
俺は気づいて、
防具を外し、地面に置いた。
「……大丈夫だ」
通じないと分かっていても、
そう言ってしまう。
ルゥは、
俺の顔と、
骨の防具を、
何度も見比べる。
怖い。
でも、
逃げない。
それが、
余計に胸にくる。
ルゥは、
震える指で防具を指さし、
それから――
俺を指さした。
「……エア」
その呼び方に、
胸の奥が、少しだけ揺れた。
俺は、
防具を指さし、
自分の腕を軽く叩く。
「……これ。守る、戦う、守る、だ」
意味は、
伝わらない。
だが、
声の調子と、
動きで――
「危なくない、襲わない」
それだけは、
伝えたかった。
ルゥはしばらく黙り、
やがて――
小さく、頷いた。
完全に理解したわけじゃない。
それでも、
“受け入れた”という反応だった。
……不思議だ。
不安は消えていない。
記憶も戻らない。
それでも――
今ここには、
俺を呼ぶ声がある。
その声が、
骨を怖がっても、
俺から離れなかった。
その事実が、朝の森の中で、
やけにたしかな現実味を持っていた。
俺は、
焚き火に薪を足す。
ぱち、と音がする。
ルゥは、
少し距離を取りながらも、
火のそばに戻ってきた。
――戻れない場所があるとしても。
今俺がいる場所は、
確かに、ここだった。
ーーーーー
俺は、少し離れて腰を下ろした。
焚き火の音。
森の朝の気配。
ルゥは、
まだ骨の防具を気にしているのか、
時折ちらりと視線を向けては、
すぐに逸らす。
……言葉を教えるには、
時間がかかる。
身振り。
音。
繰り返し。
今は、
最低限の意思疎通ができるだけだ。
だが――
それで、十分じゃない。
この森には、
俺たち以外にも「生きている者」がいる。
それは、
もう分かっている。
なら――
その場所へ行く必要がある。
俺一人なら、
このまま森で生きる選択もあった。
だが、
ルゥを連れている以上、
それは現実的じゃない。
「……」
俺は、
ふと思いついて、
ルゥを手招きした。
「……こい」
音だけで呼ぶ。
ルゥは一瞬迷い、
それから、ちょこちょこと近づいてくる。
俺は、
焚き火から少し離れた地面にしゃがみ込み、
小枝を拾った。
そして――
地面に、絵を描く。
丸。
小さな丸を、いくつも。
それを、
大きな丸のそばに並べる。
次に、
小さな人型のような形。
尖った耳を、
分かりやすく付け足す。
……雑だが、
意図はある。
俺は、
その絵を指さし、
次に――
ルゥを見る。
「……仲間」
言葉は、
まだ通じない。
だから、
身振りだ。
ルゥ自身を指さし、
それから、地面の小さな丸を指す。
ルゥは、
じっと絵を見ていた。
真剣な顔で。
少し首を傾げ、
指先で、絵をなぞる。
……分かっている。
意味は、
伝わっている。
そして――
ルゥは、
ゆっくりと首を横に振った。
一度。
二度。
はっきりと。
「……」
胸の奥が、
わずかに沈む。
いない。
もしくは――
行けない。
俺は、
もう一度だけ、
絵を指した。
問い返すように。
ルゥは、
同じように首を横に振り、
それから、
少し困った顔をした。
……だめか。
「……まぁ……しかたねぇか」
独り言。
焦っても、
どうにもならない。
ルゥは、
俺の声色を聞いて、
小さく頷いた。
励ますように。
それとも、
諦めを共有しただけか。
どちらでもいい。
今は――
生きている。
火がある。
食べ物がある。
隣に、
呼べば来る存在がいる。
俺は、
地面の絵を消し、
小枝を放った。
「……今日は、ここまでだ」
言葉の意味は、
きっと分からない。
それでも、
区切りは必要だった。
ルゥは、
俺の動きを見て、
真似るように小枝を拾い、
地面をちょいちょいと突いた。
意味のない線。
だが、
それを見て、
少しだけ――
気持ちが、軽くなった。
答えは、出ていない。
人の場所も、
帰る場所も。
それでも――
今日は、
ここでいい。
俺は立ち上がり、
焚き火の様子を確認する。
ルゥは、
少し遅れて、
俺のそばに来た。
その距離が、
昨日より、
ほんの少しだけ近かった。
ーーーーー
熊肉は、残りが少なかった。
干した分もあるが、
すぐ尽きる。
葉とツタだけで生きるには、
まだ体が慣れていない。
……狩りに出るしかない。
俺は、
骨の防具を身につけ、
槍を手に取った。
その動きを見て、
ルゥの耳が、ぴくりと動く。
表情が、
わずかに強張った。
……怖い、か。
武器も、
防具も、
ルゥにとっては
「死」に近い記号なんだろう。
「……すぐ戻る」
意味は通じないと分かっているが、
一応、そう言った。
俺は拠点を出ようとして――
後ろを、
きゅっと引かれた。
「……ん?」
振り返る。
ルゥが、
俺の腰の毛皮を掴んでいる。
指に、
力が入っている。
「……ぅ〜……」
声にならない声。
不安。
拒否。
離れたくない。
色々混じった、
分かりやすい感情。
俺は一度、
立ち止まった。
しゃがみ込み、
寝床を指さす。
それから、
自分を指して、
森の方を示す。
「……ここ。……待つ」
次に、
槍を指して、
外。
「……行く」
通じるかどうかは、
分からない。
ルゥは、
じっと俺を見て――
……離さなかった。
首を横に振り、
さらに強く掴む。
「……はぁ……」
小さく、息を吐く。
仕方ない。
俺は、
使っていなかった弓を取り出した。
簡素なものだが、
矢は数本ある。
それから、
石で削った小さなナイフ。
切れ味は悪い。
だが、ないよりはマシだ。
俺は、
弓をルゥに持たせ、
手を添える。
矢を番え、
引く。
「……こう」
力を込めると、
弦が張る。
離す。
矢は、
近くの木に、かすって刺さった。
「……」
ルゥは、
目を丸くした。
次に、
ナイフを渡す。
刃の部分に触れないよう、
持ち方を示す。
「……危ない」
言葉より、
動きで。
ルゥは、
真剣な顔で、
何度も頷いた。
理解は、
している。
完璧じゃないが、
生き延びるための最低限は。
「……離れるな」
そう言って、
俺は立ち上がった。
ルゥは、
少し遅れて、
俺の背後に回る。
距離は、
腕一本分。
それ以上、
離れない。
森へ入る。
木々の影が濃くなり、
足元の匂いが変わる。
獣の痕跡。
踏み荒らされた草。
狩りの時間だ。
……森は怖がってないな。やっぱ、ここで生まれたのか?
俺は足音を殺し、槍を構えた。
ルゥはぎこちなく弓を抱え、それでも必死に付いてくる。
一人じゃない。
その事実に、少しだけ救われる。
――だからこそ怖い。
ここで間違えたら、
死ぬのは俺だけじゃない。
(……守れるか?)
答えは出ない。
森の奥で、
枝が、ぱき、と鳴った。
俺は反射で槍を上げた。
ルゥの息が止まる。
狩りの時間だ。




