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ヴィルディステの物語  作者: あるかな
【第三章】

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289/314

3‐1‐5 刺繡糸 2

 


 ナギサ達が賑やかにカウンター付近で話し込んでいると、扉が開く音がした。

 繁盛店ゆえに珍しいことではなく、また新しい客が来たのだろう——程度に思っていた、その時だ。


「こんにちは」


 その声には聞き覚えがあった。聞き覚えどころか、先日の騒動の記憶を鮮烈に蘇らせる声である。


「ニールさん!」


 だが、モリスにとっては、とても嬉しい人の声である。

 モリスを窺えば、零れるような笑みを浮かべている。

 そして、店の中を、他の客の間をするりと避けながら、あっという間に、ニールの横へと辿り着いていた。

 余程嬉しいのだろう。モリスはニールの腕を取ると、グイグイとナギサ達がいるカウンターまで引っ張ってくる。

 苦笑気味のニールだが、特に嫌がる風でもなくモリスに腕を引かれている。

 そんな二人を常連の客達は微笑ましく眺め、ゴリツィアは……若干引き気味かもしれない。


 ナギサの前を通り過ぎる時、何か言われるのではないかと身構えた。だが、ニールはナギサに視線を向けることもなく、そのまま通り過ぎていく。



「ニールさん、今日は素材を持ってきてくれたのかい? あんたの素材は評判がいいから、もう残り少なくてね」


「ありがたい言葉だね。少ないけど、薬草をいくつかね。って……それは?」


 店主婦人の言葉に答えながら荷物を置こうとしたニールの手が、ピタリと止まった。

 その琥珀色の眼差しは、カウンターに置かれた“透瑠璃色”の刺繍糸に釘付けになっている。

 目を見開き、軽く口を開けているその表情は、驚きを露わにしていた。やはり神といえども、愛する者の瞳の色には抗えないらしい。

 そんなニールを眺め、その人間臭い反応、ナギサは少しばかり可笑しく感じていた。


 ……けれど、その余裕は一瞬で消え去った。唐突に、視界がぐにゃりと歪んだのだ。





 ◇




「何が可笑しい」


 不貞腐れたような声が響く。

 歪んだ視界が元に戻る前に話しかけてくるとは。


 視界がはっきりすれば、そこは見慣れた白い世界——神の間だ。

 ニールにとって、ナギサはもう用がない相手のはず。今日このように呼び出されるとは、露ほども考えていなかった。

 余程、ナギサの先程の態度が気に入らなかったのだろうか。

 そんなことを考えながら顔をあげれば、案の定、腕を組み、半眼気味にナギサを見つめるニールがそこにいた。


「何も、可笑しくはないですよ。わたし、笑っているように見えましたか?」


「その、薄ら笑いはなんだ」


「んと、にやついてなんかいないですよ。恋って素敵だなぁって、思っていただけです」


 にっこりとニールに微笑みかけてみれば、ますます眉間に皺が寄り、苦虫を潰したような表情になっている。もう少し何か言ってみたい気もするが、もともとこの手の話題は苦手だ。これ以上、気の利いた言葉も浮かばない。

 それより、ここに何故ナギサを呼んだのか。


「んと、ニールさん。こんなことを言いたくて、わざわざわたしを呼んだのですか?」


 本当に、一体何の用があるのだろう。

 ニールにとってナギサが“ローニャの名前探しの障害”になることはもうない。“白光”の件も、ニールがナギサに無体なことをしなければ、何の問題もないはずだ。

 何より、今はナギサに構っている暇があったら、ローニャとの関係を築き上げることに時間を割くのが最優先なのではないだろうか。


「……った」


(何?)


 離れているのもあるが、声が小さすぎて聞こえない。

 ニールの視線もナギサに向けるわけでもなく、どこを見ているのか……。


「あの、ニールさん。何を……」


「だから! ……悪かったと言ったんだ。迷惑をかけた。それだけだ」


「!」


 まさかの謝罪!

 驚きのあまりナギサが瞳を見開いて固まると、ニールは余程ばつが悪いのか、ぷいと横を向いてしまった。


(ニールさん……案外、可愛いところがあるのかも)


 その子供じみた態度に、ナギサは軽く吹き出してしまう。

 と、やはり神様相手にあまりにも失礼だったのか、じとりと睨まれたかと思うと、再び視界が歪むのだった。



 ◇



 瞬きを一つ。

 次に目を開けた時には、視界はすでに白い世界から、色鮮やかな小物屋の光景へと完璧に切り替わっていた。


「ニールさん、どうしたの? 刺繍糸なんて珍しくもないでしょ?」


 モリスの声が、中断されることなく鼓膜に届く。

 ナギサの主観では数分のやり取りがあったはずだが、この場においては一拍の静寂さえ生じていない。先ほどまで耳元に残っていたニールの不貞腐れた声も、瞬時に現実の喧騒にかき消された。


(……慣れていても、やっぱり戸惑うかも)


 神の間で過ぎた時間は、現実ではゼロ。理屈では分かっていても、感情の残滓ざんしが追いつくのに少しだけ時間がかかる。


 動きが止まったニールに、モリスが不思議そうな顔をする。

 店主婦人も「ほんとに、どうしたんだい?」と驚き、常連客達も「誰かに刺繍でもしてもらったのかい?」と笑っている。

 対するニールは「あっ、いや、別に……」と妙に歯切れが悪い。


 ——なんだか不思議な感じだ。

 ついさっきまで“神の間”で話していた相手とは別人のようだ。店主婦人やモリス、他の常連客から揶揄われるかのように囃されて、ちょっと困ったように帽子の上から頭を軽くかいている。人が良い男性が、女子達にいじられているようにしか見えない光景である。


 ——ちょっと可哀想かも。

 ニールもご婦人達からの揶揄いは苦手のようで、ナギサに見せるような厳しい態度は取れず、困った様子である。


 ナギサは申し訳なさそうに、その賑やかな場に声を差し挟んだ。


「あのぉ……」


「おや、なんだい?」店主婦人がすかさず身を乗り出す。


「刺繍用のお道具って、ありますか?」


「えっ、ナギって刺繍できるの?」


 モリスが驚いたように、ナギサの顔を見つめてくる。ゴリツィアも言葉こそ出していないが、その表情はモリスと同じように「無理しなくていいんだよ?」とでも言いたげな、心配そうな表情をしている。


「んと、この服の袖口にあるようなものだよね? やったことないけど、モリスのその綺麗な刺繍糸を見ていたら、自分でもやってみたくなったの」


「刺繍針や、もう少しお手頃な刺繍糸ならあっちの棚にあるよ。だけど……なんだい、ナギサちゃん。お母さんから習った時に、一通り揃えてもらわなかったのかい?」


 店主婦人がモリスの言葉や、ナギサが改めて針が欲しいと言い出したことに、不思議そうな表情で尋ねてきた。

 ナギサ自身、彼女が不思議がるのは理解できる。

 この一年余りでこの世界でのおおまかな習慣は理解した。モリスやゴリツィアぐらいの生活レベルの民であれば、母親から一通りの家事は仕込まれている。刺繍は家事というには若干贅沢な部類に入るが、古着を仕立て直す時に付け加えたり、リネン類への飾りへと、彩りのある暮らしに欠かせない“たしなみ”の一つ。

 それを友人達にできるのかと心配され、刺繍道具すら持っていないような口ぶりなのだから。


「ん、お恥ずかしい話ですけど、わたし、記憶がなくて。それで、習ったことがあるかもわからないんです。両親も既に亡くなっていますし……」


 どう説明したものかと悩み、記憶がないことでとりあえず濁しておこうと、ナギサはいつものセリフで誤魔化してみた。


「!」


 ——失敗だった。


 ナギサの言葉に、その場にいたご婦人方は急に黙り込み、キョトンとした表情をした。そして、ほんの二呼吸ほどの静寂の後、一斉に「なんて可哀想なことを聞いてしまったんだ」という悲痛な顔になり、凄まじい勢いでナギサを構い始めた。


「これもお使い、これも持っていきなさい」

「いいかい、練習用にはこの無地のハンカチがいいわよ。ほら、これもサービスさ!」


 刺繍針は新品をひと揃え、刺繍糸も基本の色を何色か。さらには練習用のハンカチ数枚。挙句の果てには、モリスが持参したあの高価な“女神の瞳”色の糸までも、少量分けてもらうことになってしまった。


 モリスとゴリツィアもご婦人方のこの対応に驚き、ただ茫然と眺めるだけ。ナギサもどう反応してよいのかわからず、ただ目の前に積み上げられていく包みを唖然として眺めていた——。と、視線を感じて振り向くと、ニールがやはり驚いた表情でナギサを見つめていた。ナギサが話をそらしたことで、ご婦人方から解放されたニールである。


 ——ああ、そうか。ニールさんはわたしが何者か知らないし、この世界での立ち位置も知らなかったんだ。


 珍しく感情を見せる琥珀色の瞳に、ナギサは紅い瞳を合わせると、悪戯っぽく、けれど柔らかく微笑むのだった。




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