2‐27‐10 想い 3
——《女神》様、すごい......。ニールさんの毒気がすっかり抜けている。リュークも落ち着いたのかな?
「ニール、ナギサとアダマースのことは、また別だからな」
リュークの声は低く静かで、金の瞳がニールを射抜くように見つめている。
——うわぁ、リュークはまだお怒りモードだ。でも、ニールさんもリュークも神威が消えているから、とりあえずは落ち着いたと思えばいいのかな。
「兄さま、もう、今日はここまでよ。ほら、ナギサが心配しているわ」
《女神》はそっとリュークの頬を撫でると、そのままその手をナギサの頬へと添えた。
「ありがとう、ナギサ。すべてあなたのおかげね」
「そんな! お二人を止めたのは《女神》様のお言葉です。わたしはどちらかといえば、ニールさんを煽っただけですし......」
「うふ、でも、おかげでわたしはなんだかスッキリしたわ。ニヒルムが何を考えていたか、少しわかった気がするもの」
ナギサが《女神》と話し込んでいると、ナギサの耳元で深く静かな溜息が聞こえた。
「はぁ......」
「んと、リューク、どうしたんですか?」
「兄さま、どうされたの?」
「君達二人、すごく似た者同士だよね。君達には降参だよ。それよりも。名前を取り戻そう」
「!」
そうである。
ニールが現れたことで、後回しになっているが、名前の封印先が見つかったのだ。
《女神》が今ここに無理を押して立っている理由——名前を取り戻さなければ意味がない。
リュークに抱えられたまま、ナギサが視線を湖に浮かぶ小島に目を向ければ、透瑠璃色のアルタ・ルブラが風に静かに揺れていた。
リュークがナギサを改めてしっかりと抱きかかえ直しながら、《女神》へ声をかけた。
「じゃぁ、小島まで行こうか」
「えっ? リューク、わたしは関係ないので、《女神》様とリューク、お二方で行ってください」
「ナギサ。そんな寂しいことを言わないで。あなたがいなければ、ここまで来られなかったわ。だから、わたしが名前を取り戻す時、あなたにも一緒にいて欲しいの。ね、お願い」
《女神》は両手をナギサの頬へ添え、その透瑠璃色の瞳でナギサの紅い瞳をじっと見つめた。
◇
《女神》の言葉にナギサは戸惑いを覚えていた。名を取り戻すような大切な場に、部外者である自分、しかも異世界の者がいてもよいのだろうかと。
だが、その戸惑いの気持ちを《女神》へ伝える余裕もなく、視界がぶれた。
が、視界はすぐに元に戻った。ナギサは依然としてリュークの腕の中、《女神》もナギサの頬に両手を添えたままの姿勢である。
ただ、視界に映る景色は違った。
周りは光り輝く静かな湖面。そして目の前にあるのは、透瑠璃色のアルタ・ルブラだ。
「この場所を、この花を見つけたのは、ナギサ、君だよ。僕は君が一緒にいてくれると嬉しいよ」
「うふっ、兄さまは相変わらず強引ね。ナギサが驚いているわよ」
耳元で囁かれた優しい声と、目の前から響く優しい声。
二柱の神はこの上ない笑顔をナギサへ向けてくれている。
「この状態で、わたしだけ『向こうへ戻してください』って言えないです......。ずるいです、リューク」
口を少し尖らせて文句を言ってみたのだが、二人とも笑顔で聞いているだけだ。
「ナギサ、あなたにはどれだけ感謝をすればよいのか。あなたを万象の狭間から連れ出して、まだ一年経つかどうかというのに。あなたは名前だけでなく、わたしの望み以上のものをもたらしてくれたわ」
「そんな、《女神》様、わたしは大したことはしていないです。運が良かったというか、偶然が重なっただけです。それに、白光の力もリュークがいなければ、わたし一人では扱うことはできなかったものです」
そう答えながら、ナギサは不思議に思った。名前以外に何かを自分は成し遂げたのだろうかと。
「もう、あなたは......。ヴィアも言っていたでしょ? 『自信を持ちなさい』って。この結果はあなたの行動がもたらしたものよ」
《女神》はナギサの額に軽く唇を落とすと、両頬から手を外した。そして、一歩下がると、アルタ・ルブラの前に跪いた。
◇
湖の岸辺では、小島の様子を皆が息を潜めて見守っていた。
湖に浮かぶ小島は、ここからほど近い。
だが、歩いて渡るには深く、リューク達のように転移する必要がある。
声が届く距離のはずなのに、小島にいる三人の会話は聞こえてこない。
リュークが遮音の結界を張っているためだ。何を話しているのか。
ここに残る皆は気になっているのだが、柔らかな笑顔をナギサに向けている二柱の神を見れば、おおよそ察しがついた。
《女神》がナギサの額に唇を落としたかと思うと、件の花の前へと膝を折る。
こちらからはただ、その背中しか見えない。
今、彼女がどんな表情をしているのか。
今まさに、その花へ手を伸ばそうとしているのか。
湖畔からは伺い知ることはできないのだった。
ニールは困惑していた。
己の物語はすべて狂ってしまった。
だがそれは、最初から間違っていたのだ。
リュークから彼女を奪う必要など、最初からなかった。
彼女は今、名を取り戻す。
名が戻った後、己はどうすればよいのか。
彼女に何を語ればよいのか。
何と声を掛ければよいのだろうか......。
ナギサは未だリュークに抱きかかえられた姿勢のまま。
その姿勢では、アルタ・ルブラの前へと膝を折る《女神》のつむじと、風に揺れるアルタ・ルブラしか見えない。
リュークの様子を窺えば、何故かナギサを包み込むようにして、再び神威を身に纏っている。
そしてその表情は、わずかに緊張した面持ちで、優しくも心配気な金の瞳は《女神》へと向けられていた。
だが、ナギサの視線に気づいたのか、金の瞳は温かく、柔らかな笑みをナギサへと返してくれた。




