別離(1)
指先が冷たい。首がかくんと傾いて、その衝撃でぼやけた意識が覚醒しはじめる。身体全体の感覚と視界で、誰かにおぶさっているのだと分かった。
いったい誰だろう。男の人だ。そもそも、私は何をしていたんだっけ。
顔をあげて確認するついでに、起きたことを知らせる。その人もこちらを少し振り返って、顔は見えなくとも漏れた小さな声で誰だかはわかった。
「洋介。……ごめん、私寝てたみたいで……」
私が寝ていて掴まれないのを補うためか、両手首は細いタオルでかるく括られていた。高校生を一人背負うのは、いくら運動部の人でも大変だったはずだ。ましてや、背負われる側が寝ていると重く感じると聞いたことがある。
……なぜ寝ていたんだろう。今日が休みの日だというのは、なんとなくわかっていた。洋介の肩を借りて、二の腕で体を起こす。
「寝てたっていうか、急に倒れたんだよお前」
洋介が、顔を前に戻してそう教えてくれた。寝起きのせいか、いまいち直近の記憶が夢と混じってあやふやだ。
「えっと、どこで倒れたんだっけ?」
「は? そこから? ……一緒に山の上行ったろ」
山の上で、鬼二十と手を繋いだのを思い出す。綺麗な景色の中で、デートみたいな雰囲気を味わって……夢だと思っていた。
いいことばかりが記憶に残って夢だなんて思ってしまったけれど、たしかに具合が悪くなって、デートどころではなくなった。あのまま寝てしまったらしい。そしてそんな私を背負ってくれているのは、今日の恩人と言うべき相手だ。
「……ううん、本当にごめんね。ついて来てもらって、こんなことまで」
ありがとうと続けて降りようとすると、意図が伝わらなかったようで、洋介はずれた腿を抱え直す。
「あいつも心配してたよ。……道路も歩くから、俺がおんぶすることになったんだけど」
鬼二十。そう、彼は私の体調をずいぶん気にしてくれていた。心配そうな顔を思い出して、胸が苦しくなる。
鬼二十は力なんて使っていないみたいに私を持ち上げられるので、彼が背負えればその方が良かっただろう。でも、鬼二十は近所を歩くわけにはいかない。人目を避けなくちゃいけないから。
こうして歩く間も道に人の気配はなく、誰かとすれ違うこともない。それでも気をつけなくちゃならないなんて、なんだか指名手配犯みたいだと思った。
洋介がもう一度私を抱え直す。普通くらいの体型だし、軽いはずはないのだ。
「重いでしょ。起きたから、自分で歩けると思う。おろして平気だよ」
本当に平気? と念を押す洋介に、もうすぐ着くからと付け加える。
ここから家まではずっと下り坂だ。その途中で降ろしてもらうと、なるほど足元が覚束ないような、ひざが沈みすぎるような感覚だった。血も足りていない感じがする。
「……つかまってていいから」
こちらを見ていた洋介が、私を肘でつつく。彼のジャージを一応握って、ゆっくりと歩くことにした。
この間ずっと、私たちはお互い口を開かなかった。坂を上ったときと同じ日だとは思えないくらい、話題にできることが何も無い。
せっかく洋介の計らいで叶ったデートは、私の体調管理のせいで失敗。彼だって気まずいし、私が謝り続けては彼の気疲れが増しそうだった。
家が見えてきたので、隣の洋介を盗み見る。私を気遣ってか、彼はこちらを見ていた。視線がかち合って、反射的に目を逸らす。今日は本当に、悪いことをした。
家のスロープの前であらためて体を洋介に向け、今日のお礼を言う。
「あの、休みの日に付き合ってくれて、ありがとう。相談したこと、気にしてくれてありがとう」
さっき話したんだけど、鬼二十もちゃんと洋介に感謝してたよ。そう付け加えると、洋介の表情が少し変わったようだった。あの無愛想なわりに余計な一言は言うタイプの鬼二十が、素直に感謝したというのだから、それは気になって当然だろう。少しの間があった。
「病院行けよ」
そう言い残して、洋介は自宅に戻っていった。
部屋に戻るなり、私は疲れてベッドに深く腰掛けた。いつも通り二階への階段をあがっただけなのに、それすらなんだか気だるい。
最近はずっと、軽めの風邪っぽさを感じていた。それくらいなら、夜更かししないようにしたり、そこそこに気をつければ治るものではなかっただろうか。今年の風邪は、しぶといのかもしれない。
日曜の夕方では、病院に行くのも難しい。平日にまた具合が悪いようだったら、洋介の言うとおり病院にも行こうと思った。
とりあえず栄養ドリンクでも飲もうかなぁ。考えてうつむくと、いつの間にか鬼二十が現れている。学習机の横に寄りかかって、私をじっと見つめていた。
日がかなり傾いて、部屋を暗い赤に染めている。感傷的な風景に呑まれて、鬼二十の姿がとても切なく感じた。表情からはそうと読めないのに、彼が悲しんでいるように見える。
私は彼の前で具合が悪くなって、そのまま昏倒してしまったんだ。風邪だって「早く直せ」と心配されていたのに、咳どころか貧血で気絶してしまった。
「倒れてごめんね」と口に出すと、鬼二十は目を細める。そしてゆっくり左右に首を振った。
真摯に向き合ってくれる人に心配ばかりかけて、自分が空回りしているのを感じる。
焦ったってデートは逃げないし、何がどうなるわけでもないのに。私がもっと冷静だったなら、今回のことは防げたんだろうか。
反省する気持ちもあるが、私だって、そんなに具合が悪いとは思わなかったのだ。デートに行きたかった。
ため息をつかないように、口を結んで押し殺す。少なくとも、目の前の彼にこれ以上気を揉ませたくない。
「また今度、風邪治したら行こう」
洋介の予定もあるし、結構先のことになるかもしれないけど。心の中でそう続けたが、鬼二十には微笑みを向ける。彼が小さく「治したらな」と答えるのを聞いて、私の気持ちも少し落ち着いた。
普段から使っている鞄がいつもより重い。それに肩を引かれて、中に大事なものを入れっぱなしだったことを思い出す。
「そうだ、これ。鬼二十のお面。返しておくね」
「ああ」
鬼二十が僅かに差し出した手のひらに、面を置いた。そのはずだった。
コッ、と乾いた音がして、目の前に立っていた鬼二十が影もなく消える。
足元には、ふたつの物が落ちていた。鬼の面と、その片方の角――。
私はそれを見つめている。顔も動かないし、声もなくしたみたいに立っていた。
「うそ」
背中いっぱいに冷たいものが駆け上がったような気がする。面の裏側に塗られた塗料が赤々とつやめいて、今はなんだかグロテスクに思えた。鬼の面は、畳に顔を伏せていやな傾き方をしている。そのすぐ側に、角がひとつ、転がっていた。つばを飲む。
見間違いでなければ、手渡したはずの面は、彼の手をすり抜けた。面を持っていた私の手だけが、鬼二十の掌へ引っかかる。
鬼二十の驚いたような表情が、今頃になって目の奥に残っている。
そうして不安な手ごたえを残して面は私の手から離れ、落ちた。畳であんなに硬い音はしないだろうから、きっと机かなにかに当たったのだ。
嫌な感覚が、胸から手足を凍りつかせていく。ぎこちなく面を拾い上げるが、少しも気は休まらない。
「鬼二十、聞こえる? 大丈夫?」
返事はない。拾った角を、接ぐように合わせてぎゅっと握る。手を離すと、少しして角はぽろりと机に落ちた。
この角が一つ折れただけで、まさかそんな、私が想像するような最悪の事態にはならないよね。
問いかけようにも、ここには誰も答えてくれる人はいなかった。