バグ。
「お前の右足、それ、ただの飾りか?」
俺が放った言葉に、432位の佐伯の顔が、怒りで一瞬にして引きつった。
「あぁ? 何言ってんだゴミが――」
佐伯が俺を嘲笑い、再び左方向へ抜き去ろうと、右足へ全重心を乗せた。
――まさに、その瞬間だ。
世界が超スローモーションに反転する。
俺の脳は、佐伯の肉体から発せられるわずかな『バグ』を、ミリ単位のズレとして正確に感知していた。
過去の負傷ゆえに、右足を踏み込む瞬間だけ、彼の骨格の連動が「0.2秒」遅れる。
格上のスピードを誇る佐伯が、唯一、無防備な肉体の人形と化す一瞬の空白。
(そこだ……!)
俺は、自分自身の非力な身体スペックのことなど、完全に思考から消していた。
ただ、見えた『バグの在処』に向かって、弾かれたように地を這うような低さで突進する。
「なっ――!?」
佐伯の目が、驚愕に大きく見開かれた。
彼が次の動作に移るよりも早く、俺の肩が、佐伯の右膝の外側――最もバランスの脆い一点へと泥臭く衝突した。
ドンッ!!!
鈍い衝撃音がアリーナに響く。
「がはっ……!? の、脳波が、追いつか――」
佐伯の口から、掠れた悲鳴が漏れた。
完璧なタイミングで弱点を突かれた彼は、自らの超高速の推進力を制御できず、自爆するように頭から金属の床へ突っ込み、激しく転倒した。
その腕から離れ、放物線を描いて転がるヘキサボール。
俺は膝を擦りむきながらも、迷わず床を這い、その球体を両腕でガッチリと抱え込んだ。
『五木レン、ボールキープ開始』
無機質なシステム音声が鳴り響き、電光掲示板の俺のカウントアップが始まる。
残り時間は、あと1分30秒。
「……てめえええええ!!!」
床に倒れていた佐伯が、顔を真っ赤にして跳ね起きた。
学校なら絶対に交わることのなかった「強者」のプライドが、最底辺の500位に転がされたことで、完全に崩壊したのだろう。
佐伯は獣のような声を上げ、なりふり構わず俺に掴みかかろうと突っ込んでくる。
だが、頭に血が上った人間の動きほど、システム上のエラー(脆弱性)を量産するものはない。
(右肩が上がってる。大振り。足元がガラ空きだ)
俺の目には、佐伯が焦れば焦るほど、その肉体に走る「赤い点滅」のラインが太くなっていくのが見えた。
いつも教室の隅で、他人の顔色を窺って、怯えて生きてきた。その陰気な観察眼が、この白い地獄では、敵の命綱を正確に切り刻む最悪のメスになる。
「死ねッ! 500位ぃ!!」
佐伯の鋭い爪先が、俺の顔面めがけて繰り出される。
だが、その軌道は、踏み込む前から完全に視えていた。
俺は最小限のステップで体を低く沈め、佐伯のインサイドをすり抜ける。闘牛士のように、彼の突進の力をそのまま利用して、背後へと回り込んだ。
「嘘だろ……なんで当たらねえ……!?」
佐伯が振り返る。その顔には、先ほどまでの余裕は微塵もなく、ただ冷たい戦慄が張り付いていた。
チクタクと、頭上のデジタルタイマーが非情にゼロへ向かって刻まれていく。
俺がボールをキープした時間は、すでに佐伯のそれを上回っていた。
「残り時間、10、9、8……」
「戻せ! そのボールを俺に戻せ! じゃないと、俺は、俺のサッカーは――!」
佐伯が狂ったように両手を伸ばしてくる。
彼の脳裏には、敗北した瞬間に「才能」を奪われ、昨日までの自分を失ってしまう恐怖がフラッシュバックしているのだろう。
だけど、知ったことか。
お前らが俺をゴミだと笑ったように、俺だって、自分のために、お前をここで踏み台にする。
「タイムアップ。ランタイム(実行)終了」
ピ―――ッ!!!
無慈悲なブザーがドームに鳴り響いた。
『勝者:パッチナンバー500位・五木レン。キープ時間により、佐伯の勝利条件を破棄』
「あ……ああ……」
佐伯がその場にへたり込み、自分の両手を見つめて震えだした。
次の瞬間、佐伯の着ているテックウェアの胸の液晶パネルが、激しく赤く明滅し始めた。
『敗北個体のデリートを開始します。対象の最高身体スペック【速(SPD)】を、勝者へトランスファー(譲渡)します』
「やめろ……やめてくれ! 俺から、俺の足を奪うな!!!」
佐伯が頭を抱えて絶叫する。
だが、ウェアから伸びた微細な発光ラインが、佐伯の頭部と全身を包み込む。彼の瞳から、急速に「色」が失われていくのが見えた。
昨日まで彼が積み上げてきた努力、走る歓喜、その才能のすべてが、デジタルなデータとして吸い上げられていく。
そして――。
ドクンッ!!!
俺の全身の細胞が、沸騰するような熱量とともに激しく脈打った。
心臓が破裂しそうなほどの衝撃。足の筋肉が、神経の伝達速度が、爆発的なスピードで再構築されていく感覚。
(これが……アップデート……!)
脳を直接揺さぶるような圧倒的な快感。自分が「バケモノ」へと作り変えられていく全能感に、俺は身体を震わせた。
佐伯は、白目を剥いてその場にパタリと倒れ込んだ。死んではいない。だが、彼はもう、自分がなぜここにいたのかも、なぜ自分が走れなくなったのかも分からないまま、社会の底辺へと強制送還されるのだ。
アリーナのガラス壁がプツンと消える。
静まり返った第5棟のラウンジに、俺のアナウンスが流れた。
『五木レンのアップデート完了。新たな数値を反映し、パッチナンバーを再計算します』
俺の胸と背中の液晶パネルが、激しい音を立ててカウントアップを始める。
500……480……450……420……
ピピピッ。
【410】
第5棟の最下位から、一気に410位へ。
神谷の「412位」を、わずかに2つ上回る数字。
俺はゆっくりとフードを深く被り直し、驚愕の表情でこちらを見つめている神谷の視線を受け止めた。神谷は小刻みに唇を震わせ、言葉を失っている。
俺の胸の奥で、今まで飼い慣らしていたドス黒いエゴが、獰慢な牙を剥いて笑った。
「なるほど……面白いじゃん、この世界」
パッチナンバー410位。
バグを暴く俺の「システムハッキング」は、ここから始まる。




