最下層
よろしくお願いします。
他人の「エラー」が、よく視える人生だった。
たとえば、クラスの絶対的カースト上位に君臨するサッカー部のエースが、自分より可愛い女子の前では、右の眉をわずかに3ミリ上げる癖があることや、「お前のために怒ってるんだ」と正論を吐く担任の教師が、実はネクタイの結び目を弄びながら、生徒ではなく自分の保身だけを考えて言葉を選んでいること。
俺には、それが見えてしまう。
スポーツができるわけでも、勉強がずば抜けているわけでもない。ただ、他人の顔色を窺い、呼吸の乱れを察知し、その人間が隠したがっている「脆弱性」を脳内でカウントする。それが、凡人である俺の唯一の防衛本能だった。
「おい五木、お前また俺のシュートコース塞ぎやがったな」
夕暮れの放課後、グラウンド。サッカー部の紅白戦で、俺はDFの数合わせとして駆り出され、エースの神谷に胸ぐらを掴まれていた。
神谷がシュートを打つ直前、彼の左膝の筋肉が不自然に外側へ流れる「悪癖」を、俺の目が捉えてしまった。だから、無意識に身体がそこへ動いた。結果として、神谷の自慢のシュートを「たまたま」ブロックしてしまったのだ。
「すいません、偶然です……」
「チッ、陰気なツラしてんじゃねえよ」
神谷は俺を突き飛ばし、吐き捨てた。
強者に逆らわず、目立たず、エラーを見つけても指摘せず、空気のように生きる。それが俺の日常だった。
その日の夜、すべてが変わるまでは。
塾からの帰り道、俺の視界が突然、激しいホワイトアウトに襲われた。
激しい耳鳴り。スプレーの甘い匂い。拉致された、と気づいたときには、すでに意識は深い闇に落ちていた。
「……くっ、ここは……?」
冷たい床の感触で目が覚めた。
俺が体を起こすと、そこは高校の体育館を十倍近く広げたような、不気味なほど白い巨大なドーム状の空間だった。
周囲を見渡して、息を呑む。
俺と同じ、10代後半から20代前半の若者が、ざっと100人は倒れていた。
全員が、見覚えのない服を着せられている。黒を基調とした、少しダボッとしたシルエットのテック系パーカーに、リブの引き締まったジョガーパンツ。最先端のストリート系スポーツウェアだ。
だが、決定的に異質な部分があった。そのパーカーの背中と、左胸のポケット部分に、まるでアパレルブランドのロゴのように「漆黒の液晶パネル」が埋め込まれているのだ。
「おい、ここどこだよ!」「スマホが繋がらねえ!」
次々と目覚めた若者たちが、パニックを起こして叫び始める。
俺は自分の胸元の液晶を見た。まだ何も表示されていない。
『――システム起動。おはよう、不完全なプログラム(プロトタイプ)たちよ』
天井から、感情の籠もらない合成音声が響き渡る。
それと同時に、正面の巨大な壁面が駆動し、巨大な電子スクリーンが姿を現した。
『ようこそ、隔離実験施設【サンドボックス】へ。これより、人類の身体能力の限界を書き換える、次世代1on1システム【ヘキサ・ストライク】の運用テストを開始する』
スクリーンに映し出されたのは、複雑な立体アリーナの映像と、一つの冷徹な規約だった。
『ルールはシンプル。中央のヘキサボールを奪い、敵のゴールへ叩き込む。勝利した個体は、敗者の最も優れた身体パラメータを吸い上げて自己を「アップデート」する』
画面が切り替わり、脳と記憶のデータマップが表示される。
『敗北した個体は――これまで培ってきたすべての「身体才能」を脳内から完全に消去する。その後、この施設に関する記憶だけを消去し、元の日常へと強制送還する』
死なない。だが、ここを去った瞬間、自分がなぜ自分の「才能」を失ったのかすら分からなくなる。
昨日まで走るのが世界一速かった男が、この施設を落選した瞬間、なぜか急に足が遅くなった凡人として、理由も分からぬまま元の生活に放り出されるのだ。天才たちにとって、これほど残酷な「飼い殺し」はなかった。
『本施設には、全国から選抜された500人の実験体が存在し、スペック順に100人ずつ「5つの棟」に完全隔離されている。……君たちがいるこの空間は、最下位の100人が集められた【第5棟】。パッチナンバー(順位)500位から401位までの底辺エリアだ』
500人。そのうちの最下位クラスが、この部屋にいる100人ということか。
ピピッ、と電子音がドーム全体に鳴り響く。
俺のウェアの胸と背中のパネルが、ネオンブルーの光を放って駆動を始めた。数字が激しくスロットのように回転し、やがて、一つの数字でピタリと止まる。
【500】
「……え?」
俺は呆然と呟いた。
500人の中の、文字通りの最底辺。
周囲を見渡すと、この第5棟の連中のウェアには【415】【452】【480】といった、400番台の数字がスタイリッシュに浮かび上がっている。
『その数字は君たちの絶対的な序列だ。効率的な淘汰を楽しんでほしい』
その瞬間、俺のすぐ近くで、聞き覚えのある声が響いた。
「マジかよ、俺『412位』か。思ったより下だな……あ?」
声の主は、あのサッカー部のエース、神谷だった。学校では神格化されていた神谷ですら、この施設全体で見れば下から数えた方が早い412位。やはりここはバケモノの巣窟なのだ。
神谷はルーズなフードを被り直し、自分の数字に不満げな視線を落としていたが、地べたに座り込んでいる俺の数字に目を留めた瞬間、その顔が引きつった笑いに変わった。
「……おい、五木じゃねえか。お前【500】って……おい、全部の最下位かよ!」
神谷が指を差して鼻で笑う。
「おいおい500位、お前みたいなバグだらけのゴミが、なんでここに混ざってんだよ。最初の試合で誰かの養分になって、自分がなんでサッカー下手くそになったかも気づかねえまま、惨めに学校戻るんだな」
神谷の言葉は、残酷な現実として俺の胸に突き刺さる。
オールGランクの凡人である俺が【500位】なのは、あまりにも当然だった。
(やっぱり、僕みたいな奴は、ここでは生きていけないんだ……)
恐怖で奥歯がガタガタと震える。才能を奪われ、何も知らないまま社会に捨てられる絶望。
だが、その時だった。
スクリーンに新たな文字が浮かび上がる。
『第1段階:初期スクリーニングを開始する。各自のスペックに基づき、最初の対戦相手をマッチングした』
自動的に、俺の目の前の床が赤く発光した。光のラインがぐんぐんと伸びていき、ある一人の男の足元へと繋がる。
繋がった先にいたのは、神谷ではなかった。
少し離れた場所に立つ、鋭い三白眼の男。その胸に光る数字は――【432】。
【432位:佐伯】。
500位の俺から見れば、明確な「格上」だ。
佐伯は俺の胸の数字を見つめると、ストリートウェアのポケットに手を突っ込み、下卑た笑みを浮かべて歩み寄ってきた。
「ラッキー。最初の相手が最下位のボーナスステージかよ。悪いな、お前のその僅かなパラメータ、俺の数値を引き上げるためのデータにさせてもらうわ」
対戦の合図だろうか、俺と佐伯を囲むように、床から半透明のガラス壁がせり上がり、二人だけの小さな簡易アリーナが形成されていく。中央の天井から、1球の小さなゴムボールが静かに落ちてきた。
『ルール:制限時間3分。ボールをキープし続けた時間の長い者が勝者とする。敗者は即座に初期化。……ランタイム(実行)開始』
無慈悲な開始の合図。
「そこをどけ、最下位!」
佐伯が獰猛に地を蹴った。そのスピードは、俺よりも明らかに速い。一瞬でボールを奪われ、俺は肩を激しくぶつけられて床に転がった。
「あはは! 全然話になんねえ!」
ルーズなウェアの裾をなびかせ、軽快なステップを踏む佐伯。残り時間が電光掲示板でカウントダウンされていく。このまま時間が過ぎれば、俺の「敗北」が確定する。
床に伏せたまま、俺は絶望の淵で歯を食いしばった。
(まただ。またこうやって、僕は誰かの引き立て役になって、理不尽にすべてを奪われて終わるのか? ……いやだ。そんなの、絶対にいやだ!)
才能を奪われ、理由も分からず廃人のように戻される恐怖が、俺の胸の奥底にくすぶっていた「ドス黒い自己愛」の導火線に火をつけた。
いつも他人の顔色を窺い、小さくなって生きてきた。だが、裏を返せば、俺は誰よりも「他人を観察し、その醜い欠陥を見抜く」ことに異常な執着を持っていたのだ。
(僕のすべてを消されてたまるか……あいつを、引きずり下ろして、僕が生き残るんだ……!)
ドクン、と心臓が激しく波打った。
その瞬間、俺の視界から余計な光が消え去り、極限の集中状態へと突入した。
ボールを持って嘲笑っている佐伯の姿が、奇妙なほど鮮明に脳内に流れ込んでくる。
(432位……格上。だけど、あいつのフォーム、何だあれ。右膝が内側に入りすぎている。あいつ、さっき僕を突き飛ばした時、左足の踏み込みだけで加速した。つまり、右足の靭帯かどこかを、過去に怪我してる……!)
格上だと思っていた男の、隠された「エラー(弱点)」が、俺の瞳にハッキリと視線として焼き付いた。
佐伯は右足で踏み込む瞬間だけ、重心の移動が「0.2秒」遅れる。そこだけは、500位の俺のスピードでも十分に先回りができる、致命的な脆弱性だ。
俺はゆっくりと立ち上がった。ストリートウェアのフードを深く被り直す。恐怖はすでに消えていた。あるのは、獲物のバグを見つけたハッカーのような歓喜。
「おい、432位。お前の右足、それ、ただの飾りか?」
低く冷たい俺の声に、佐伯がピクリと眉を動かした。
「あぁ? 何言ってんだゴミが――」
佐伯が再び俺を抜き去ろうと、右足へ重心を移した、まさにその瞬間。
最底辺の少年は、その「バグの在処」へ向かって、弾かれたように地を這うように突進した。




