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苺と猫と、ときどき暗雲。




 1




「これが豆腐で、醤油をかけて食べるやつね。これもダメ?」

「…………」

「じゃあこっちはどうかな。油揚げのおひたし。おじぃの傑作なんだけど」

「…………」

「ダメかぁ。ならこれ! モヤシの炒め物! 私が唯一できる料理!」

「…………」

「……ひょっとして大豆アレルギー?」

「…………?」


 お休みの日の朝ほど清々しいものはそうそうない。借りようとしていた新作のDVDが一本だけ残っていたときのような晴れやかな気分だ。

 真っ白な雲の散らばる青空がその気分を更に高みへと押し上げてくれる。その勢いに任せて普段はおじぃに任せっぱなしの台所で珍しくフライパンを振るったが、どうやらこのお客さんには大豆の良さがいまいち伝わらなかったらしい。

 おじぃが早々に畑に向かって二人きりになった家でちゃぶ台を挟みながら、先のようなやり取りをずっと続けている。

 もしかしたら、とてつもない偏食かつ少食なのかもしれない。というのも、昨夜も食べていないのだ。コップに注いだ水だけはぺろぺろと唇を湿らせる程度舐めたが、それ以外の何もかもについては眺めるばかりで一向に手をつけなかったのである。

 しかし、これからオっさんが当番をしている交番に顔を出して、その後すんなりと事が解決するかは未知数なのだから、エネルギーはちゃんと摂取しておかなければなるまい。

 そんな思いもむなしく、目の前の少女はやはり不思議そうな目で食卓をきょろきょろとするばかりで、どれも口に運ぼうとはしなかった。


 ルナシーと出会った私は、その日は家に来ないかと彼女を誘った。

 もちろん、私だって考えなしに決めて実行に移したわけじゃない。この選択が傍から見て、ともすれば犯罪めいたように映るのではないかという危惧は当然あった。最も妥当な選択肢は、最寄りの交番へと速やかにルナシーを送り届けることだということも理解はしていた。だけど、それはそれでまた面倒とは結びつかないとも言い切れない。

 あの後、念のために周囲をさらっと探してはみたものの、やはりルナシーの家族らしき人影も、着ていたであろう服の抜け殻もさっぱり見当たらなかった。そんな状態でルナシーの手をとって交番へ直行するとどうなるか。

 海辺に素っ裸の迷子がいたのでとりあえず私の制服を着せて連れてきました、なんて申告を鵜呑みにしてくれるとは到底思えない。下手を打つと、私が知りもしない見当はずれのことを神妙な面持ちで延々と問いただされることになりかねない。そうなれば私が面倒な状況下に置かれることもそうだが、ルナシーが家族のもとに戻るまでの空白が意味もなく広がってしまう。

 だから、私にはもう少し工夫を凝らす必要があった。

 どうあれ裸族である状況がまずい。なんならこれが最も面倒な事実だと言い切っていい。何でもいいからルナシーに合う服を探すことが先決だった。

 だけど、私の制服では都合が悪い。これがないと――替えはあるけれども――学校にいけないというのは現実的な問題だが、それじゃあ何でこの子が君の制服を着ているんだという話になって、懸念していた事項には結局対処しきれない。

 それに、対応してくれる人選も重要だ。誰でもいいからパスすればそれで穏便に済むという保証はない。できれば私の素性を少なからず理解している相手が望ましい。

 この二つを満たすために、私はルナシーを一晩預かることを決めたのだ。

 おじぃはいつか役に立つかもしれないと口癖のように呟いては、もう使いそうにないものもかなり長い間保管している。私が幼稚園児だった頃の服も未だに二階のタンスの奥に寝かせていることも知っていた。服の問題はこの肥やしが解決してくれるだろうと期待した。

 それに、曜日の都合上、交番の明日の当番がオっさん一人だということも大きかった。オっさんとは何度も面識があるし、意味もなく顔を出してはくだらないちょっかいをかけることもある、そんな仲だ。オっさんならきっと私の言い分を――まぁ多少は訝しむかもしれないが――聞いてくれるだろうという期待があった。


「年取ってからならいいと思うけど、若いうちは朝昼晩食べた方がいいんじゃないかなぁ」

「…………?」

「あっ、それじゃあこれは? これも私が作ったんだよ! もはや料理じゃないけど」

「……………………」

「んんん、卵もダメならあとは……」


 食卓塩を振りかけたゆで卵を自分の口へと入れながら冷蔵庫を物色した。

 あの様子じゃおそらく納豆もお気に召さないだろうし、めかぶも厳しいか。

 やっぱり洋食の方がいいのかもしれないけれど、洒落たものを作る材料も腕もない。おじぃならもしかしたら適当なものを作れるかもしれないけれど、そのためにはまず買い物に行かなければならない。

 これも私の期待半分ではあるが、ルナシーは不信のために何も口にしないというわけではないと、今のところは考えている。

 昨日は古着をタンスから引きずり出してはルナシーに試しに着させて、慣れない手つきでお風呂に入れて、来客用の布団を自室まで運び込んで隣に敷いた。嫌がる素振りのひとつでも見せてくれれば対応も変えられたのだが、一向にその様子が感じられなかったので、なあなあのままこの場まできてしまった。

 特設の寝床に座り込んだルナシーは手近な画用紙とクレヨンを使ってよくわからない絵を描いて私に見せてくれたり、明日の早起きのために消灯してしばらくしてから私の布団の方に潜り込んできたことから、おそらく警戒はされていないはず……おそらく。


 ……もしかすると昨日の選択は私の首を絞めただけかも。


 これがただの家出だったりすると、もはや面倒には収まりきらない事態に巻き込まれることになってしまう。

 服の件だってそうだ。仮に何か聞かれても、ルナシーがもとから着ていた服だと素知らぬ顔で答えておけば気にもされないだろうと考えていたが、捜索の手がかりだなんだと言われてDNA調査なんかにかけられたならば私の服だということが一発で白日の下に晒される。そうなると今度はどうして嘘をついたのかと致命の一撃にまで派生してしまうだろう。

 考えれば考えるほどに、やらかしたのではないかという思いが強まってきた。

 だけど、昨日あのまま連れて行ったとしてもすんなり片付いたとは考えにくいし……

 とすれば、自分の選んだ方向が正しいと信じるしかない。

 赤い粒のひとつを口に放り込むと、甘酸っぱさがきゅっと広がって思考を引き締めた。


「…………」

「ん? あぁ、ごめんね。考え事してて……ルナシーも食べてみる?」

「…………?」

「これは苺だよ。形が悪いやつばかりだけど味は一緒」


 背後の視線を感じて振り返ると、ルナシーは私が手にしていた苺のパックを物珍し気に見つめていた。

 たしかに、おじぃの栽培する苺は少し癖がある。一般的に思い浮かぶ真っ赤な状態ではなく、薄桃色程度まで染まったらもう完熟していて収穫の頃合いなのだから。


「苺には言い伝えがあってね。葉を浸した水には目を良くする効果があるんだってさ。まぁ、これは果実だけど」

「……………………」

「それで花言葉が『先見の明』になったんだって。全部おじぃからの受け売りだけどね」


 パックに無造作に詰められたワケありのひとつをルナシーの手に乗せた。これもやはり拒むだろうかと考えたが、先の話に興味を惹かれるところがあったか、それとも遂に空腹の方が勝ったのか。そのあたりは定かではないものの、ルナシーは苺を掲げて色々な角度から眺めた後、そろそろと口に近付けて先端を少しかじった。


「――……!」

「おっ、苺が好きなの。おじぃも喜ぶよ。ここにいたらだけど」

「…………!」

「間引き品だからたくさんあるよ。ほら、どんどんお食べ」


 理由はどうあれ気に入ってくれたのならそれは良いことだ。この機を逃す手はない。

 気付けばルナシーは大粒の苺を八つ胃に収めて、余程のこと気に入ったのかそのヘタのひとつを大事そうに両手で包んだ。

 おじぃが見たら感涙ものかもしれないがヘタにまで愛情を注ぐというのはいかがなものか。本人がそうしたいのなら止めはしないけど。

 私にもそれくらいピュアな時期があったとは思うけど、毎年のように苺を浴びるように食べる時期があっては感慨深さも薄れるばかりで仕方あるまい。これが苺農家に生まれた宿命か。せめて将来は違う職業に就くことにしようか。

 台所からティッシュを一枚引き抜いてきてルナシーの口元を拭った。

 気が済んだのか、いつの間にかルナシーの手からはヘタが消えていたので、ついでに両手に付いた汁も拭き取ってから食卓を片付けることにした。


 ……さて、いよいよ覚悟の決め時か。一体どうなることやら。




 2




「よぉしよし。どうしてお前はこんなに触り心地が良いんだい」

「……………………」

「ルナシーも触ってみる? お腹だけはダメだよ。確実にお怒りになるからね」

「…………」

「おっ、おお? 手練れだね、ルナシー。もしかして無類の猫好きだったりして」

「…………?」


 散歩日和という言葉がこれほどしっくりくる日は久しぶりだった。

 太陽を直接見ているわけでもないのに空は眩しく、照らされた頭頂部を中心に身体全体がじわりじわりと温まっていく。その熱が煩わしくなる寸前になると微風が吹いて環境をリセットし、どこまでもずんずんと歩いていけそうな気がした。

 簡単な身支度を済ませた私はルナシーの手を取って外へと繰り出した。世間からすれば平日の、出勤時間帯を過ぎた頃合いだということもあり、通りは朝の慌ただしさが過ぎた後の落ち着きで満たされていた。

 目当ての交番は中学や駄菓子屋とは逆の方向に歩いて十五分程度のところにある。だけど、道端のあらゆるもの――名前が付いているのかも曖昧な花だったり石だったり――に興味を示すルナシーに合わせてゆっくりと歩みを進めていたので、目的地にたどり着く頃にはいつもの倍の時間はかかったように思える。

 交番はひっそりとしていたが朝から誰もいないわけではないらしい。鍵のかかった引き戸には「しばらくしたら戻ります」という一言が掛けられていて、歩道に面していない側面の壁にはオっさんのものと思われる自転車が雑に立てかけられていた。

 絶好の天気に誘われたのか、その自転車のサドルの上には目を細めて箱状になったミィが座っていた。そうして近々戻ってくるであろうオっさんを待つ間、黒と銀の毛玉を愛でていたわけだが、ルナシーはなかなかのテクニシャンらしい。背中を撫でる手つきはどこかぎこちないが、あの気難しいミィが逃げ出さないあたり、何か不思議な心地よさのようなものがあるのかもしれない。


「朝っぱらから何してんだ」

 突然のハスキーボイスに思わず両肩が跳ね上がった。

「んあっ! ビックリさせないでよ!」

「こんな時間にお前の顔を見たことに驚いてるよ」

 振り返るとズボンに片手を突っ込んだオっさんがすぐ真後ろに立っていて、私の文句を聞き流しながらポケットに入っている扉の鍵をまさぐっていた。

「先週、俺の自転車のベルにカメムシを仕込んだのはお前か」

「まさか。そういうのはもう卒業したの。このミィと一緒で自然の成り行きだよ」

「寝呆けてるのか? 毛の色合いだけは似てなくもないが」

 カチリと音を立てて鍵が解けて、オっさんが引き戸を粗雑に開いた。建付けの調子が良くないのか、がらがらと大きな音が扉の動きに合わせて響く。

 なんのことかと視線を自転車に向けなおすと、いつの間にかサドルの上には誰もいなかった。ミィは歩道に降りてまた何処への散歩に赴いていて、遠くで揺れ動くその尻尾に向けて手を振るルナシーだけが私の後ろにしゃがんでいた。

「いつの間に妹ができたんだ」

「違うちがう。迷子だよ。お巡りさんにお仕事を持ってきてあげたの」

「あぁ……はいはい。どうもコンニチワ、お嬢さん。お話聞かせてくれるかな」

「あれっ、私に向けた態度と違くない? 昔のことだから記憶違いかな」

「長い年月でお巡りさんらしさが出たんだよ」

 普段より気持ち高めの声音でルナシーに挨拶したオっさんは私の疑問を適当にはぐらかした。そうして、親指を立てた後ろ手に交番の中を指し示して、私たちに中に入るよう促しながら、壁のスイッチを弾いて室内の蛍光灯を点けた。


 オっさんとは私が幼稚園の頃からの顔見知りだ。自前で切りそろえた短めの前髪と、上手く届かないからといって手付かずの長い後ろ髪は、十年前から全然変わらない。

 当時、初めての買い物に勇んだものの案の定迷子になり、泣きじゃくっていた私をおじぃの家まで送り届けたのが、この交番に赴任して間もないオっさんだった。漢字の読めなかった私は胸のネームプレートに書かれた奥村という苗字の読みを尋ねて、それにさん付けしてオクムラさんと呼んだ。帰る道中には長くて呼びにくかったので略してオクさん。たどり着いた時にはオっさん。それ以来、ずっとオっさんと呼んでいる。

 オっさんはお世辞にも人当たりの良い性格とは言えず、誰かに紹介するときは無愛想との一言で説明できる。そのような態度に加えて、彫りの濃い顔やいつも浅黒く日焼けした外見から来る威圧感のために、子どもたちからはよく距離を置かれている。動物にも好かれないと言っていたけど、ミィがしれっと立ち去ったのはきっとそれが原因だろう。

 だけど、常に気怠そうな雰囲気を隠そうともしないオっさんが、いついかなる時もおざなりに職務にあたっているわけではないということを、少なくとも私は分かっているつもりだ。今だって、ズボンの裾に土の褐色が数滴はねているのだから、大方誰かの畑の力仕事でも手伝ってきたのだろう。

 道に迷い、途方に暮れていた私をさっと水際から引き揚げたのは、いつも口元をへの字に曲げているこのオっさんだった。マスクで常に顔を隠した超人戦隊ではなく、素顔を隠すことすら面倒臭がるようなただの一般人。私の中のヒーロー像はいつも後者だ。いい歳になった今でもそれは変わらない。

 誰だってヒーローに面倒を見てもらいたい。そうじゃないかな。

 私はルナシーの手を取って、所々が剥げて年季の入ったアルミサッシを跨いだ。


「それで、その子の名前は」

「ルナシー。十中八九そう、じゃないかな?」

「なんで疑問形なんだ」

「話せないみたいなんだよ。外国生まれかもね」

「まぁいい。近場で検索するからフルネームを聞いてくれ」

「オっさんが聞かなくていいの」

「それでもいいが、泣かれても責任は負わないからな」


 そんな情けない保険をかけるヒーローは古今東西いないだろうよ。

 前に言っていた自転車の安全運転講習の場で、目が合っただけの小学生にガン泣きされたことが余程のこと堪えたらしい。

 つい呆れて灰色の天井を仰いでしまった。


「町のお巡りさんがそんなんでいいのかねぇ」

「多少距離を置かれるくらいで丁度良いんだよ、こういうのは」

「私が頻繁に顔を出してるから麻痺してるのかもだけど、多少ってレベルじゃないよ」

「逆に近寄りすぎなんだよお前は。いいからさっさと聞け」

 まぁ、自分でもそう思うところは少しある。たかだか一度助けた程度の相手に度々ちょっかいを入れられていては、警官の身はその内持たなくなることだろう。

 だけど私は義理深いのだ。受けた恩は忘れない。たとえ相手が忘れようとも、私だけでも覚えていられればそれでいい。そういう純粋かつ、重い女であり続けたいわけだ。

 机の上のボールペンを一本手に取って、同じく備え付けられたメモ紙の一番上に試し書きをした。インクが出ることを確認した私はルナシーに声をかけてそのボールペンを渡そうとしたが、彼女は受け取らずに何やらもぞもぞと身体を揺すり始めた。


「……………………」

「ん? どうしたの? もしかしてトイレかな」

「勘弁してくれよ。まぁ漏らされるよりはマシだから奥のやつを使え」

「えっ!? ついにあの謎の部屋を直接拝める日が!」

「お前は行かなくても……いや、面倒だからやっぱり連れていけ」


 こんな形で宿直室を見ることができるとは思ってもいなかった。何度もこの交番には顔を出してはいるものの、未だに奥の部屋はのぞいたことがない。別にどうしても見たいわけではないけれど、すぐそばにあるのに一度も全貌を確かめられない状況とあっては好奇心がうずく。

 これ幸いと早速ルナシーの手を取ろうとしたが、目を離していた間に彼女は打って変わった様子ですとんと落ち着いていた。手遅れだったかとその足元に視線を落としたが粗相をしでかしたわけではなさそうだ。

 代わりに、さっきまで何も持っていなかったはずのルナシーの右手には、大きな白い羽が一本握られていた。


「トイレはいいの? 我慢しなくていいんだよ。いや、ほんとに」

「本人が落ち着いてるんだからそっとしてやれよ……」

「…………」

「こんなの拾ってたの。鳩の羽かな。でもこの辺に真っ白な鳩なんていたかなぁ」

「…………」

「何が付いてるか知れたもんじゃないし、ばっちぃから捨ててこようよ」

「!!!」

「わかった、わかった! 捨てないから! オっさん、インクってある……?」


 苺のヘタもそうだったが、ルナシーのセンスにはどうにも難しいところがある。

 この羽についてもどこか気に入るところがあったのだろうか。取り上げる素振りを見せるや否やルナシーは血相を変えて――いや、表情や見た目にはほとんど変化はなかったものの――身をよじってそれを拒んだ。

 短い付き合いとは言え嫌われないに越したことはない。私はどこの何者の一部とも知れない羽を捨てさせることを諦めて、代わりにオっさんから受け取った補充用インクの瓶の蓋を開けてルナシーに渡した。

 思った通り、ルナシーはこの羽を使いたかったらしい。その根元の先をインクに少し浸しては、ぐりぐりとメモ紙に線を引き始めた。

 ルナシーが羽ペンを知っていることには関心したが、当然のことながら作業は捗らなかった。

 私も羽ペンには詳しくないけれど、せめて先端部に切り欠きくらいは作らないとまともにインクを保持できないのではないのだろうか。実際、さっきから線を一本引くより先に黒色がかすれてしまい、一文字仕上げるのにどれだけ紙と瓶を往復すればいいのか数える気も起きなかった。

「なぁ、トランプでも開けるか。それともしりとりでもするか」

「も、もうちょっと待ってて……」

「俺もずっと暇できれば一番いいんだがな」

 そう言ってオっさんは書類の一枚を手繰り寄せ、ルナシーに渡そうとして宙に浮いたままだった私の手からボールペンを取り上げて、別の作業に着手した。

 ちらりとメモ紙を見ると「ルナ」まで書かれている。


 ……しまったな、下の名前だけでいいって先に言っておけばよかった。


 だけど、懸命に羽ペンを動かしては文字を綴るルナシーを眺めていると、今更そんなことを口にする気にはなれなかった。

 パイプ椅子の背にぐっともたれてもう一度天井を仰いだ。

 いつ来ても簡素な交番だ。スチール製の机が一つと、パイプ椅子が幾つか。後は書類やファイルが詰められた棚が壁に揃えられていて、そこに収まりきらない紙類がそこら中に雑に平積みされているばかり。床も壁も天井も、所々に張られた壁紙や啓蒙ポスターなどの面積よりも、コンクリートの無味乾燥な灰色の方がどれだけか目立っている。

 今回ものぞく機会を逸した宿直室からオっさんが運んできた来客用のお茶をすすりながら、私はルナシーのフルネームが明らかになるのを気長に待った。


 ルナシー・ウインドミル。

 それが彼女のフルネームだと明らかになるまで五分以上かかったが、なんにせよこれでようやく一歩前に進むことができるようになった。

 そう思っていたのだが、年季の入ったパソコンを前に座っていたオっさんの頭が横に傾くのを見て、私は認識を改めることになった。

 オっさんが調べた範囲では、この町にそのような名前の住民はおらず、行方不明者の捜索願も出ていないとのことだった。念のために隣町を範疇に入れても結果が変わらずとあってはオっさんもこれ以上突っ込みにくいらしく、次に打つ手を考えざるを得なくなった。


「変わった苗字だからすぐに引っかかると思ったんだがな」

「本当に捜索願も出てなかったの?」

「あぁ、間違いない」


 羽の根元に付いたインクをティッシュで熱心に拭き取っているルナシーを背に、席を立って机へと寄りかかりながらオっさんに尋ねた。

 他県の子かもしれないのだから住民登録の件は保留にしても、全国で共有されるはずの捜索願の方が出ていないというのは引っかかった。高齢者や子どものような自立のできない行方不明者に関しては特に優先して捜索対象になるはずなのに。


「そもそもどこで見つかったんだ、そのルナシーは」

「海岸沿いに一人でいたんだよ。ほら、コの字型のあそこ」

「こんな時期に朝から海辺に行ったのか」

「んっ、まぁ……そうだよ」


 ふぅん、と呟いたオっさんはまたパソコンに視線を落とした。

 かたかたと鳴るキーボードの音がやけに大きく聞こえて、乾いた胸の奥に粉がふいたような感じがした。蛍光灯のじりじりと響く音が季節外れの蝉の声を思い出させる。

 一度気になると他の音も煩わしくなってくる。裏手の木々がざわめく音も、遠くで鳥が騒ぎ立てる声も、自分の呼吸と鼓動すらも。

 背筋を意味もなく正したりして、私の気を散らかす雑音から耳を庇った。

 もっとすんなり解決すると思っていたのに雲行きが濁ってきて、正直に言うなら今しかないという焦燥感が満ちてきた。

 情報は正確であることに意味がある。だけど、私が持っている正確な情報を伝えなおしたところで何か進展するようにも思えないし、むしろ状況をよりややこしくするだろう。しかし、もし本当に何かしらの事件や事故の結果でルナシーがここにいるとするならば、ありのままを説明せずに一部だけ切り取って真実とするのはそれこそ道理に反するし……

 昨日から何度目か分からない葛藤が頭の中に蜘蛛の巣を張った。あっちを払ってもこっちを払っても、別のどこかしらに糸が張り付いて完全には拭えない。


 私が取るべき一番の道は……


「どうかしたか」

「いや、なんでもないよ。それで、この後はどうなるの」

「身分証もなければ保証人の居所もわからない。身元に見当も付かないとくれば、上に回して保護施設で親が迎えに来るのを待つことになるだろうな」

「県の保護施設に?」

「そうなるな。まぁ、最近は昔ほど扱いは悪くないと聞くぞ。いろいろ口うるさくなったってのもあるだろうが」


 まぁそうだ。誰が考えても最も妥当な道だろう。

 同時に、昨夜のことが頭をよぎった。

 夜も更ける頃、ルナシーは私の腕に抱きついて眠った。

 どういう心境で至ったのかは分からない。布団が冷たかっただけなのか、人肌が恋しかったのか。漠然とした主観でしかないが、なんとなく後者のように感じた。私の提案を受けて家についてきてくれたことにもきっと影響しているんだと思う。

 縁のない地にぽつんと一人取り残されて、それでいて捜索の依頼も出されずの身。

 それがどれほどまでに寂しい状況と言えようか。


 決めた。

 私が取るべき一番の道は、ルナシーをもとの居場所へ一刻も早く帰すことだ。

 それが今、決意としてはっきりと固まった。

 だからこそ、ありのままを明かさなければならない。


「オっさん、その、ひとついいかな」

「なんだ。他にも何かあるのか」

「その、さっき話したことだけど。実はルナシーと出会ったのは今日じゃなくて……」

「……おい、ちょっと待て」


 伏せていた目線を上にずらした。

 まだ情報の訂正すらしていないのに、いくらなんでも叱責が早過ぎる。

 私の懺悔を遮ったオっさんを正面に捉えると、そのオっさんもまた真顔で正面を捉えていた。ただ、その視線の先は私の目ではなく、それよりもっと後ろに注目している。

 視線の先を追って振り返ると、無人のパイプ椅子だけが残されていた。




 3




 幸いにもルナシーはそう時間をかけることもなく見つかった。

 入れ違いになってはまずいのでオっさんを残して私が近辺を探し回ったが、ルナシーの背中には交番から100mも離れていないところで追いついた。

 ただ、この辺りは高いコンクリート塀が入り組んだ細い通路の連なりだ。もし今の比較的見晴らしの良い十字路でその背中を見逃していれば、次にすれ違うまでにどれほどの時間がかかることになったかは考えたくもない。


「一言声かけてから外に出てよ…… あぁ、いや、話せないのかもしれないけど、せめて背中を二、三回つつくとかさ」

「……………………」

「さぁ、交番に戻ろう。私もオっさんに包み隠さず説明しなくちゃならないしね」

「……………………」


 ルナシーは路地の片隅で膝を抱えて屈んでいた。集中しているのか、その背中に呼びかけても反応がない。

 横に並んでしゃがみ込むと、足元のアスファルトには小指の先にも満たないほどの小さな黒い染みがぽつりぽつりと置かれていることに気付いた。

 ルナシーの手をとって両面を確認した。次に肘と膝も。どうやら転倒したわけではないらしく、怪我をしているようには見えなかった。安堵の息で自分の前髪が揺れた。

 そうこうしているとルナシーはすっと立ち上がって路地の先へと歩き出した。そして十数歩ほど進んだかと思うとまた同じように屈んで足元を見つめている。その視線の先にはまたも黒い染みが浮かんでいた。


 私はルナシーの後についていくことにした。

 勢いに任せて全てを白状しようとしていた気概が急に断ち切られてなかなか結び直せないのはそうだが、ゼンマイ仕掛けの玩具のように歩いては立ち止まるルナシーが何を追っているのか、個人的に興味が湧いたというのもある。割合でいえばそれらが半々といったところだろうか。

 歩みを進めるたびに路地は細く、薄暗くなっていき、その内に舗装もされていない土の地面へと変わり、最終的には二件の空き民家の壁がほぼ隣接してできた隙間によって袋小路となった。

 ルナシーはその袋小路の先で歩みを止めて、極細の隙間の奥をじっと見つめた。瓦礫や物干し竿の残骸などが散らかったその奥に一匹の影がうかがえる。


 ミィだ。あの黒と銀の毛並みは間違いない。

 だけど、どうしてこんなところに。


 その答えは暗がりの奥で鈍く輝く片側だけの目が訴えていた。

 ミィの右目は潰れていた。

 抉れていると表現した方が近いかもしれない。それが球体だった頃の原型は辛うじて残しているものの、中央の黒目にあたる部分がごっそり削れている。まるで、道に積もった新雪の表面をスコップで取り除いたかのように。

 ミィの頬やひげには乾いて膠のようになった黒い血がこびり付いていて、道端に零れていた染みの源流がその眼孔だということを語らずも伝えていた。

 正面の有様をしばらく受け止められなかったけれど、時間の流れに合わせて思考が形を成し始め、直後に冷たい感情が背中を駆け抜けて、身体をぞっと震わせた。


「ミィ……どうしたの、それ……」

「……………………」

「どっ、どうしよう。病院とか、に、連れて行けば……」

「……………………」


 それが手遅れだろうということは素人目にもなんとなく想像はついた。だけど、このまま放っておくという選択肢は最初から存在せず、何かをしなければならないという情動だけが先行した。

 隙間の正面に立って身体を横に向け、ぐっと一歩前に出る。

 肩は入ったが、かなりきつい。風化してざらざらとした壁にあちこちが擦れて痛いが、ゆっくりと前進すればなんとかなる、かもしれない。

 ところが、次の一歩を踏み出そうと左足を持ち上げたところで、今までに聞いたことのない悲痛な唸り声が奥から響いて動きを阻まれた。

 改めてミィを観察すると、無残な右目の衝撃で気付かなかったが、今朝は滑らかに整っていたはずの毛並みはかなり荒れていて、薄くなっている箇所も幾つかあった。ミィはその逆立った毛を尻尾の先まで更に膨らませて周囲の全てを威嚇している。

 気迫に押されて、私はただ隙間の外へと押し返されるしかなかった。


 ……鳥にやられたんだ。


 交番で聞こえたような気がした喧騒は私の勘違いじゃあなかったんだ。カラスか何かと争って、襲われた末がこの姿なのだろう。

 いや、原因はこの際どうでもいい。怪我はどうしようもないにしても、あれほどの深手を負った状態で放置しておけば失うものは目だけとは限らない。細菌なんかに晒されればあっという間に病気の温床となって、手足や尻尾を、最悪の場合は命すらも、腐り落とすかもしれない。

 飼い主がいれば連絡のしようもあったが、ミィはウメおばあちゃんが寝床を黙認している関係の地域猫だ。状況を説明すれば、ウメおばあちゃんの性格からして進んで世話を引き受けてくれるとは思うけど、問題の全てを投げっぱなしにするのは筋が違う。

 動物病院に助けを求めればいいのだろうか。だけど私もまた飼い主ではない。そもそも地域猫を助けてくれる道理が向こうにあるのかどうかも分からない。


「交番に戻ろう! 向こうについたらオっさんの言う通りにしてるんだよ!」

「……………………」

「で、他の担当に……あぁもう、なんで今日は一人だけしか……!」

「…………」


 交番というものは普通は複数人が詰めるものだ。それで、一人がパトロールに向かったり、その間に訪れた人に他の一人が対応したりする。

 だけど、田舎で人手が慢性的に不足していることもあり、今日の当番は夜の遅くまでオっさんだけだということを、私は通い詰めた経験上知っていた。オっさんにミィの救出を頼めばルナシーは一人きりになってしまう。かといってオっさんにルナシーを任せれば結局私一人しか残らない。

 空き交番になりがちなあの箱を心底恨んだが、それでも場に出せる一番強いカードであることに変わりはない。地域猫の救出に追加の人員を割いてくれるかはわからないが、それは公務員の人情の残量次第だ。

 それに、そもそもはルナシーを交番にまで連れ戻すことが目的でここまできたのだ。第一目標を達成するためにも、これが最善の一手で間違いない。


 ところが、通ってきた道を振り返ろうとした私の隣を銀の影が横切った。

 後ろにいたルナシーは私の前に出たかと思うと隙間の奥へと歩いて向かった。私の制止も聞かずにそのまま進み続けて、あっという間に手の届かない深みまで潜っていく。

 ミィは気まぐれではあるが気質は静かな猫だ。大声で鳴いて催促することもなければ、機嫌が悪いからといって噛んだり引っ掻いたりすることもない。だから、ウメおばあちゃんをはじめとした多くの住民に受け入れられている。

 だけど、今のミィは生涯最大級の大怪我で気が立っているのが明らかだ。ルナシーが何かしたいとしても近寄ることがそもそも危険だし、止めるべきだった。


 そんな心配とは裏腹にルナシーはどんどん歩を進めて行く。

 彼女の背中で奥の様子は遮られているが、ミィの唸り声が暗がりからぐるぐると低く響いた。その威嚇はルナシーが歩を進めるにつれて小さくなって、ミィの目の前に彼女が屈み込んだ時には聞こえなくなった。

 背中しか見えないので何をしているのかはよく分からないが、ルナシーはミィの顔に手を添えているらしい。血を拭っているのかもしれない。一瞬見えた彼女の指先は水に濡れたようにきらりと光を弾いていた。とめどなく溢れるほどの出血は既にミィからはなかったような気はするが……


 暫くそうしていたかと思うと、ルナシーはミィをぐっと抱きかかえて引き返してきた。

 あの威嚇はなんだったのかと思うくらいに、ミィは驚くほど静かで落ち着いていた。

 どうなるかとハラハラしたがルナシーが無事なら何よりだ。

 それに、ミィを隙間の奥から連れ出してきたのもお手柄だと言える。

 ミィが冷静になっている今のうちに交番まで戻ることができれば……そこまで考えたところで目の前の変化に気付き、自分に見えているものを疑った。


 ミィの右目は今朝と同じ形状を取り戻していた。問題など何もなかったかのように。

 思わず屈んでミィの瞼を指でなぞった。まん丸の眼球が確かにそこに収まっている。どう見てもさっきまで怪我をしていたようには思えない。

 抱きかかえられたミィはルナシーの腕の中でじっとしていたが、その内ふるふると身体をくねらせて路地へと着地した。そして、私の顔とルナシーの顔を交互にじっと見つめた後、私の足に頭突きを一発かましてから、またどこかへと歩いて行ってしまった。四つの足でしっかと地面を捉えた、ふらつきのない足取りだった。


「いったい、何が……えぇ……」

「…………」

「ルナシーも見たよね、ミィの目。怪我してた、よね?」

「…………」

「狐につままれた気分だよ。いや、猫だけどさ……」


 時間にして五分か十分か。それくらいの中で起きた怒涛の出来事のそれぞれに理解が追いついておらず、一連の全てが蜃気楼だったかのように思えた。

 だけど、ルナシーの上着には抜け落ちたミィの毛の数本が引っかかっていて、さっきまでのあらゆる物事が現実に起きたことだという証左となっていた。

 一本、二本と、ルナシーの前に屈んで抜け毛をつまんで捨てた。意図を汲んでくれたのか、ルナシーは後ろに手を組み、ぐっと胸を前に反らせた。四本、五本……

 なんだかどっと疲れが湧いたが、とにかく今はやれることをこなすだけだ。


「さぁ、戻ろう。ミィは……まぁ、大丈夫なんじゃないかな」

「……………………」

「オっさんも置いてきちゃったしね。もたもたしてると日が暮れちゃうよ」


 九時過ぎには家を出たはずなのに、気付けばもう正午に差し掛かる頃合いだった。

 半日かけたのに事態は一向に進展していない。いや、今後の見通しがついたという意味では進展はしたものの具体的に何かをやったわけではない。細かい手続きうんぬんはオっさんが上手いこと手引きするだろうから、私はとにかくルナシーをまずは交番まで送り届けなければならない。

 だけどルナシーは、交番に戻ると聞いた途端にその場にしゃがみ込んで不動の意思を見せた。そんなにオっさんの顔付きが怖かったのだろうか。

 ルナシーは砂浜のときと同じように、地面の土に指をつけて何かを描き始めた。

 描かれた図形には既視感があった。


 どこで見たんだっけ……


 思い出した。昨日の夜、私の部屋で見せてくれた落書きと同じだ。ギザギザのヒビが入っている楕円の図形。てっきりこれが食べたいのかと思って今朝はゆで卵を用意したのに、結局私が食べることになってしまった。

 ルナシーはその横に続けて何か書き始めた。

 今度は文字だ。また翻訳しなくちゃならないのは面倒だけどそうも言ってられない。


「S、H、E、L、L、だから……シェル?」

「…………!」

「お母さんの名前はシェル・ウインドミル、ってことかな」


 少しの沈黙の後、ルナシーは首を横に振った。

 なんだ違うのか。今のは良い線いったと思ったのに。

 とはいえ、この図形と文字列が何かしらの手がかりであることは間違いないはずだ。

 楕円の物体に、SHELL……英語なら「殻」とか「貝」って意味だけど……

 ぱっと閃光が走って通り抜けた。ひょっとして、ひょっとすると……


「ひとつだけ心当たりがある、かも」

「…………!」

「でも、オっさんが待ってるし、その方が確実にどうにかしてくれると思うよ」

「……………………」

「……わかったよ。でも、間違えてても恨まないでね」

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