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予想のできない方へ!




 1




 今日は一日中そわそわしっぱなしだった。

 休み時間は無意味に長く感じたし、給食もいつもより早く胃の中に片付いてしまった。それなのに眠気のひとつも湧いてこないものだから、午睡にもってこいな午後の授業も、今日はただただ中身のない五十分でしかなかった。

 どうして祝日というのはこうも待ち遠しく感じるものなのだろう。それも土日とくっついて三連休になる位置じゃなくて、週の真ん中の水曜くらいにぽこっと現れる……そんな祝日。

 今年の創立記念日がまさにその通りなものだから、お日様に晒したふかふかの布団に頭から突っ込んでいるような、そんなほわほわした気分が朝からずっとずっと続いていた。


「――……ねぇ、一緒に行かない?」

 帰りのホームルームが終わり、クラスメイトたちが椅子を片付ける音がまだ鳴り止まない間から、そのような声が後ろからかけられた。

 誰かと思ったらゆかりんだった。優花里だからゆかりん。私が勝手にそう呼んでいる。なかなか話すきっかけがないけれど、仲を詰めるにはまず呼び方からってね。


「ごめんごめん、聞いてなかった……えっと なんの話?」

「今日ね、みんなでカラオケに行くんだけど、あなたも一緒にどうかなって」

「えっ、今から行くの? 隣町のバルーンまで?」

「そう。私も入れて今のところは、えっと、六人かな」

「ほほぉ…… それは大層そそるお誘いだね」


 勿論カラオケは好きだが、それに加えて平日の六時限目の後に隣町まで繰り出すなんていう、ちょっとした非日常感に私は興味を惹かれた。

 この片田舎にはまともな娯楽施設なんてものはない。時間を潰せるようなところと言えば、この中学から五、六分くらいの場所にぽつんと建っている寂れたデパートと、最寄りの駅にくっついているハンバーガー店くらいだろうか。

 一応海に面してはいるけれど、ビーチというよりもただの波打ち際だから海水浴という気分にすら浸れない。それに今は十月の末だ、時季外れもいいところである。

 だから、本腰を入れて遊ぼうとなれば内陸側の隣町まで電車で足を延ばす他にない。学生人気の高い、安値を売りにしている件のカラオケもその隣町にある。歩いても行けないことはないが、百四十円をケチる対価には少し見合わないくらいの距離だ。学校帰りについでにといった気軽さとはギリギリの線で向こう側と言える。


「受験前のこんな時期だけど、せっかくの機会だし一緒にどうかな」

「いいねぇ、それじゃあ混ぜてもらおっかな!」

「ほんと? だったら、るぅ子が日誌を書き終わったら一緒に……」

「よぉ。準備できたか?」

 ゆかりんの提案を誰かの催促が上書きした。

 目を向けると教室前方の入り口に男子生徒が一人。隣のクラスのヨッシーだ。鮮やかな

緑色のジャージの上下を身に着けたその姿は、本当にゲームのキャラの姿を思わせる。


 ……あぁ、しまった。そうだった。すっかり忘れてた。


「もう体育館にほとんど集まってるぜ。ってか……まだ着替えてないのか」

「ごめん! 完全に忘れてた!」

「マジかよ。今日はそんなにいないからカツカツなのに」

 急いでくれよなと言って、ヨッシーは返事も待たずに背を向けて体育館の方へと駆けて行った。気を利かせたつもりなのかもしれないけど、教室にはまだ他のクラスメイトもいるんだからここで服を着替えるつもりはないよ。

「その、今思い出したんだけど先約が入ってた」

「また男子たちとバスケ?」

「そうなの。これがなかなかに面白くってさ……いや、そうじゃなくて、だから……」

「うん、わかった。また次の機会にね」

 ゆかりんはそう言って他の誰かに声をかけに行った。


 ……せっかくのお誘いだったのに残念だ。

 ……だけど、こっちが先約だし仕方ない。


 後ろ手に鞄を手に持ち、未だ騒がしい教室をそそくさと後にして、体育館へと向かった。


 体育服に着替えて更衣室を出ると、今日参加するという面子が全員揃っていた。

 私を入れて十二人か。なるほど、確かに前回よりも集まりが悪い。

「お待たせ! 今日は何ルールでやるの?」

「今日はトグル式でやることになったぞ」

「おっ、久々だね。前はずぶずぶの泥仕合だったっけ」

 トグル式というのは、私たちが勝手に作ったバスケのルールだ。チームは初めに二点シュートを……次に三点シュートを……その次はまた二点シュートを……というように交互に決めなくてはならない。

 二点シュートはすぱすぱ決まっても三点シュートが決まらずに膠着するのが毎度の展開だ。だけど、チームに一人でも三点シュートの成功率が高いプレイヤーが混ざっていれば状況も戦術もがらりと変わる。

 私はその三点シュートに自信のある一人だ。だからこのルールだとかなりボールとチャンスが回ってくる。俄然やる気になってきた。

「チーム分けは慎重に決めた方がいいよ。なんたって私を入れた方が勝つんだからね」

「おいおい、すげぇやる気じゃあねぇか」

「今日は一日中元気をチャージしてたからね! いつもの私とは一味ちが……あれっ」

「どうした?」

 何かを忘れてるような気がした。なんだろう。

 体育服、は着てる。

 髪留め、はもとからつけてない。

 タオル、はベンチに置いた。

「あっ、水筒。教室に置きっぱなしだった」

「……それじゃあその間に適当にチーム分けしとくから」

 ヨッシーはそう言って、右手をぷらぷら振って出入り口を指した。

 普段はそこそこ良いはずの記憶力が今日は芳しくない。

 明日への期待にあてられているみたいだ。まぁ特に予定があるわけじゃあないけれど。

 話し合いをしている男子たちを背に、教室へと小走りで向かった。


 ――……にしてもバスケって。

 ――……仕方ないよ、あっちが先約みたいだし。

 ――……そうは言ったって中三になってバスケって。しかも男子と。

 ――……わかる~。一人だけ混ざるってのはちょっとキツいかも。

 ――……バスケ部だったのかな。

 ――……手芸部じゃなかった? そんなキャラじゃあないけど。

 ――……よく誘われてるよね。

 ――……だよね。運動神経良さそうだし。

 ――……マジ? ウチは逆に見えるけどなぁ。ほら胸とか。

 ――……じゃあドリブルしたらボール三つ持ってるじゃん。そりゃ強いわ。

 ――……あはは! たしかに。

 ――……るぅ子、もう終わった?

 ――……待って待って、所感だけだからあと少しだけ。

 ――……真面目だねぇ。私はいつも適当に埋めてるよ……――


「――……おっ、戻ってきた。水筒はあったか」

「ん? ん~、勘違いだったよ。そもそも今日は持ってきてなかった」

「なんだよそれ。まぁいいや、お前のチームが勝ったら一本くらいおごってやるよ」

「厄日だね、ヨッシー。自分から財布を落とす約束だなんてさぁ」

「言ってろ。よし……それじゃあみんな、始めようか!」




 2




 体育館の片付けを終えて帰路につくと、町並みは橙色の中にあった。

 日の傾きが明らかに早くなった様子を目の当たりにすると、今年も着実に暮れに近付いているんだなという実感が湧いてくる。半袖短パンの体育服でも肌寒さはさほどではないが、本格的に冷えを感じるようになるのもそう遠くはないことだろう。

 夕陽を遠目に眺めながら、ヨッシーから華麗に勝ち取った500mlのペットボトルに口を付けた。この薄い桃味のジュースが一番お気に入りだ。桃のジュースというよりも、桃の汁を垂らした水のような感じだけど、気付けばいつもこればかり選んで飲んでいる気がする。


「――……やぁ、ミィ。今日も触らせておくれ~」

 空になったペットボトルを鞄に放り込んだ。余計な荷物はほとんど入っていない。教科書とノートが数冊、軽い筆箱、ほとんど使っていない電子辞書、それに……水筒。

 内容物にペットボトルが跳ねて、思ったよりも大きな音がぼんっと辺りに響いた。

 ぴくっと耳を動かしたミィは私の方にのそっと顔を向けたかと思うと、また同じ速さで丸めた腕の中に顔を突っ込んだ。

 駄菓子屋のベンチの上でうとうとしているミィの正面でご機嫌をうかがうと、どうやら今日は触ってもよさそうな気配がした。ご厚意に甘えて、私はその隣に座った。

 ミィはこの町の地域猫だ。誰かの飼い猫でもなければ、誰からも見放された野良猫でもない。午前中は町をうろうろ散歩して、夕暮れになるとこのお気に入りのベンチの上で丸くなる。

 ミィは大変な気まぐれ屋で、初対面の相手にはまず撫でさせてはくれない。顔見知りになったとしても、黒色と銀色のマーブル模様に手を重ねるにはミィのご機嫌が良くなければ叶わない。それらの条件が揃ったとしても、撫で方が下手だったりするとこの子はさっとその場を離れてしまう。私の最長記録は四分半だ。


「おばあちゃん、こんにちは」

「あら、いらっしゃい。ミィを撫でにきてくれたの」

「ちょっと近くを通ったからね」

「そうかい。お茶でも飲んでいくかい」

「う~ん。そうしよっかな」


 ミィを目当てにこの駄菓子屋に立ち寄る客はそこそこいる。私もその中の一人だが、ミィが現れるよりずっと前からここの常連だったこともあって、ウメおばあちゃんは時々こうしたもてなしをしてくれることがある。お茶なら家で飲んでもいいけれど、他の子には内緒だと添えられて、実際そうらしいと知れば、わざわざ遠回りしてでも学校帰りに足を運びたくなってしまう。

 ウメおばあちゃんが居間の奥でごそごそしている間、ミィの背中を堪能することにした。

 呼吸に合わせて緩やかに上がったり下がったりする膨らみに手のひらを乗せると、あぁ生き物だなという存在感というか、生命力のようなものを感じる。

 いや、やっぱり訂正。

 そんな大層なものを感じ取りたいわけじゃなくて、単にこのさらさらの毛並みに触りたかっただけ。秘められた脈動に感心ができるほど私の洞察力が優れているとも、高尚だとも、思っていない。

「……キャラじゃない、ってさ」


 ……どういう意味だったんだろう。


 いや、なんとなく分かっている。あれが良い流れで出てきた言葉ではないことに。

 だからあの時、教室の扉を開けられなかったんだ。

 気になるのなら彼女たちに直接聞けばよくて、できたにもかかわらず、そうしなかった。


 とんでもなく大きな溜息が飛び出て、それが聞こえたのかミィの背中が小さく跳ねた。

 もう少しばかり、誘いの上手い断り方があったんじゃないかと、つなぎを入れてないハンバーグのタネみたいなまとまりのない考えが頭の中でぐるぐると駆け巡ってもやもやが治まらない。

 とは言ってもどうしようもない状況だっただろう。隣町と体育館、物理的に離れた二か所に同時に向かうことはできない。私の身体は二つもないのだ。

 そういえば、理科の教科書に載っていたけれど、プラナリアという生き物はナイフで細切れにしても、それぞれが再生して同じ数のプラナリアに分裂するらしい。私にもそんな能力があれば、こう、頭からすぱっと両断してそれぞれに顔を出せたのに……なんて、そんな無茶苦茶なアイデアが頭に浮かんでは消えた。


「はい。熱いから気を付けてね」

「ありがとう」

 お盆に乗った湯飲みを受け取るとウメおばあちゃんが両手を揃えて差し出してきた。

 なんだろう。冷え込む日本経済只中、ついに料金制になったのだろうか。

「……あぁ。これもいいの?」

「ついでだからいいのよ」

「わざわざごめんね」

 ファスナーが開いたままの鞄からペットボトルを取り出して手渡すと、ウメおばあちゃんは居間のゴミ箱にそれを捨てに行った。

 逆の立場であったなら気付かなかっただろう。これくらいの気遣いがさらっとできるほど私が人間性に優れていれば、今日も余計な波風を立てずに済んだかもしれない。

「どうかしたの。何かあったのかしら」

「ううん。特に何も」

「まぁ、言いたくないことなら言わなくていいからね」

「ん? 何かあった前提でお話してない?」

「昔から嘘が下手だもの」

 そう言いながらウメおばあちゃんが隣に座って、それを横目で見たミィは私の手のひらからするりと抜け出して新たな膝の上へと移った。今日の撫で時間は五分半。新記録だった。

「おばあちゃんにはかないませんなぁ」

「それで、お話したい? それともしない方がいいかしら」

「そうだなぁ。それじゃあ、つまらないお話を少し聞いてもらおうかな……――」




 3




 十分か十五分ほど話してウメおばあちゃんとミィに別れを告げた時には、夕陽の半分近くが水平線の際に沈み込んでいた。夕焼けの濃さの頂点を過ぎて辺りは影が目立ち始め、昼の温かさよりも夜の寒さが前に出る、そんな頃合いだった。

 いつもとは違う帰路を選んだこともあって、その流れに任せて海岸沿いにも立ち寄ることに決めた。

 海岸沿いといってもパラソルを差してビニールシートを広げるような小洒落た場所ではない。岩と岩の間に挟まれた幅100mもないくらいの、コの字に窪んだ大地の一区画だ。その窪みを埋めるように申し訳程度の砂浜が橋渡ししていて、緩い波が水際を定期的に湿らせては引いていく。

 ここに立ち寄ろうとしたのはただの気まぐれだった。

 ぽっかりと空いた明日の二十四時間の使い道を、波の音でも聞きながら考えようかと思っていたからだ。これも自室で考えればよさそうなものだけれど、まだ家に帰るには早いというか、なんとなくもったいないような、根拠のない心のざわめきに身を任せた結果、私はこの小規模な海岸沿いに差し掛かった。


 そこには天使が座っていた。

 膝を抱えて遠くの夕焼けのそのまた向こうを眺めているような、そんな天使が。


 人生で一度も使いそうにない比喩が思わずよぎり、息を呑む調子を一度逃すくらいに、その先客は周囲の日常から浮いていて、私の目を惹きつけて離さなかった。

 遠目でははっきりとはわからないが、きっと外国人だろう。きらきらと輝く銀色、いやよく見ると黒っぽくもある、腰まで伸びた長い髪が異質な華やかさを振り撒いている。

 そう、異質だった。

 この地には、少なくとも私の今まで過ごしてきた日常とは、明らかに遠く離れたところからぽっと飛び込んで混ざりこんだ、そんな異質さだ。風景の写真にキャラクターのシールを貼ったかのような。あるいはその逆のような。

 ぱっ、と、私の目の前に二つの選択肢が浮かび上がった。


 ▶① 何も見なかったことにして家に帰って明日の予定に思慮をめぐらせる。

  ② この未確認非日常物体に声をかける。


 普段の私なら迷うことなく①を選ぶだろうし、ご丁寧なことにカーソルも①をデフォルトで指していた。後は決定ボタンを押すだけであらゆる面倒から距離を置けるという、絶対的な安牌が既に用意されていた。

 だけど、今日の私はここでコントローラから一旦手を放した。

 それは明日ではなく明後日の憂鬱からきた躊躇いだった。

 知らないままだったなら気にすることもなかったのに、偶然にも教室の様子を見聞きしてしまったがために、気にせざるを得ない状態になってしまった。

 変えられない過去と、避けられない未来から少しでも目を逸らせるだけの言い訳が欲しかった。

 だから、私は再度手にしたコントローラの決定ボタンを押す前に、十字キーに一度触れた。


「この砂浜、良いよね」

「……………………」

「なんだろう、ミニチュアというか、ジオラマみたいな感じだよね」

「……………………」

「一人で遊んでたの? それとも誰か待ってるのかな?」

「……………………」

「えっ、と……この辺りに住んでるの? 小さい町だからご近所さんはよく知ってるつもりだったんだけどなぁ」

「……………………」


 目や耳が悪いわけではないらしい。声をかけると大きな丸い目でじっと見つめ返してきたのだから、少なくとも私の存在くらいは認識してくれているようだ。

 となると、やはり言語か。

 まいったな。私が話せるのは高校受験用の英語が少しと、日本語化した単語が幾つか。

 後は挨拶の定型文くらい。グーテンモルゲンとか、謝謝とか。


「ウェ、ウェアアーユーフロム?」

「……………………」

「アーユーツーリスト?」

「……………………」

「ウェアイズユアファミ……Oooh、Damm……」

 もうひとつ重大な事に気付いてしまった。

 この子は服を着ていない。長い髪が背中側をすっかり隠していたので、隣に並んで腰かけるまでその事に全く気が付かなかった。

 思わず周囲を見渡したけれど、筋骨隆々の州知事顔も、液体金属の偽警官も、タイムトラベルの副産物として生成された焼け焦げたクレーターも見当たらない。この子は未来からやってきた殺人マシーンというわけではなさそうではある、が。


 ……さて、今ならまだ引き返せるが、どうしたものか。


 この子にかかわると大なり小なり面倒ごとに巻き込まれるだろうということに関して、もはや疑うところはない。

 この夕暮れの海辺に、素っ裸な上に口の利けない子が一人佇んでいるなんて状況は、もう日常というよりも超常というか、なんなら事件と括って差し支えないだろう。


「と、とりあえず服を着た方がいいかなぁ。どこに置いてあるの?」

「…………?」

「えぇ……それじゃあ体育服、は今着てるし、制服でいいかな……」


 聞いたことが伝わっているのかは定かではないが、彼女はただ首をかしげるばかりでそれ以上の情報を提供してくれなかった。

 私の服ではサイズが明らかに合わないだろうが、何も着ないよりは幾分マシだろう。そう考えて彼女の手を取ってその場に立たせた。


 間近で見るほど変わった子だった。

 肌は理科の実験で使ったカバーガラスを思い出させるほどに、なんというか、ふとした拍子に割れてしまいそうな繊細さに支えられていた。触ることを躊躇わせながらも、それでいて一度触れると二度と手放したくなくなるかのような、そんなよく分からない気持ちにさせられた。

 それに、夕陽の色で見逃していたが、この子の髪は根元が黒色で先端が銀色だ。染めた後に髪が伸びてプリンみたいな二層になる人はよくいるらしいけれど、目の前の髪は滑らかなグラデーションを伴って黒と銀の二色を自然に取り込んでいる。これが染髪だとはどうにも思えなかった。

 砂遊びでもしていたのだろうか、彼女の芸術品のような肌や髪の所々には砂粒がくっ付いていて、どうしてもそれを払わずにはいられなくなった。


「上だけですっぽりいけたからスカートは要らないね」

「…………」

「それとも着てみる? でもスケバンみたいになっちゃうかも」

「…………?」

「……何やってんだろ、ダメだって……」


 幸か不幸か、周りに人はいなかった。

 だから、私が取れる道は未だに二つ残されていた。

 この子に着せた服を今すぐに――それも雨やみを待っていた下人のように速やかに――剥ぎ取って夜が訪れる前にこの場を去るか、あるいは同情を着せるか。

 ここで羅生門の妖気に呑まれた下人のように居直ることは造作もないことだった。他人の着物ではなく、自分の服をまた鞄にしまうだけなのだから。プラスマイナスゼロってところだ。正義にもとることをするわけではない。

 だからといって、ここで見て見ぬふりをすることが真の正義かと問われると、それもまた違うような気がした。

 道徳か何かの授業で習ったところでは、怪我人や遺体を見かけた場合は然るべきところに通報しないといけない義務があったような気がする。だけど、目の前のこの子は怪我をしているようにも、動く屍のようにも見えない。

 私は、私の意思でどちらかを選ぶことができる立場にいる、ハズだ。


 ……そういえばおじぃがよく言ってるな。「迷ったら先が予想できない方を選べ」って。


 ここで退くというのはその先が予想できる選択だ。そうすれば何の変哲もない祝日を迎えることになって、先月改装した隣町の大型デパートにできた映画館でもぶらぶらしてそこそこ有意義な一日を過ごせることだろう。

 だけど、ここで違う道を選んだなら、その先には何が待っているのだろうか。

 どうなるのか全く想像がつかない。

 ここで舵をきってしまえばこの後に何が起きるかを知る術は、今後一生訪れないだろう。

 

 ……ハンドルから手を離して、風の赴くままに任せるのも有りかもね。


「よし! 私があなたを送り届けてあげる!」

「…………!」

「ここで放っておくほど野暮にはなれないからね」

「…………!」

「ところで、あなたの名前は?」

 目の前の少女はその場にしゃがみこんで砂に指先を付けた。

 彼女は何か文字のようなものを連ねたが、案の定それは日本語ではなかった。

「なんだろう、英語じゃないよね。ドイツ語かロシア語……でもないかぁ」

「……………………」

「でも、アルファベットっぽいね。これは……Lかな。ならこれはUでいいのかな」

 角度を表す記号のようなLや、集合のために使うU型の記号を思い浮かべながら、彼女が砂浜に刻む七文字をひとつ、ひとつと、なぞっていった。

「ル、ナ、シィ…… ルナシー、でいいのかな」

「…………!」

「合ってる? 良かった。私には通訳のセンスがあるかもね」

 「月の海」でルナシーか。本当に月から落ちてきた輝夜姫だったりしてね。

 もしそうだったらオっさんも大変だ。この子の戸籍を探すために警官を一旦辞めて宇宙飛行士にならなきゃならないんだから。

「あっ、そうだ。自己紹介もしなきゃね」

 この子に名前を聞いておいて、自分が名無しじゃあサマにならない。

 たとえルナシーが話せないにしても、信頼関係のためにも名乗っておかなくちゃ。


「私は白鞘竜姫! りゅーちゃんって呼んでくれると嬉しいな!」

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