チャーチル・ノート/017 ダンケルク撤退戦
用兵において、攻撃よりも撤退のほうが高度な技術を要するという。
大戦中、チャーチルの腹心となった人物に、アランブルックという将官がいた。
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一九四〇年五月十日、フランス東部国境の大要塞マジノ線を迂回したドイツ軍がオランダ、ベルギーを降してフランスに侵攻すると、英仏を主とした連合国軍四十万将兵はフランス北東部の港町ダンケルクに追い詰められ、ドイツ軍八十万将兵に包囲された。
友軍救出作戦計画は、英国ラムゼイ海軍中将によってなされ、海軍指揮所があったイングランド島南東の町ドーバーにある同名の城の地下室にやってきた、チャーチルに説明された。地下室には発電機があった。発電機は英語でダイナモという。ゆえに作戦名は「ダイナモ」となった。
現地で指揮を執っていたのが英国陸軍のアランブルック大将だ。
一八八三年、フランスに生まれ、第一時世界大戦では、フランス方式の移動弾幕射撃の名手となった。その後、陸軍大学、国防大学教官となって多くの将校を指導。第二次世界大戦が始まると英国大陸派遣軍の軍団長となりフランスに駐在していた
ダンケルクは明るい色をした港町で、連合国側は、町を囲んで有刺鉄線や地雷原を設け、路地の随所に土嚢を積んで堡塁としていた。野砲やら機関銃の砲座もあちこちに配備してある。
麾下のモントゴメリ将軍が、総司令官であるアランブルック将軍の幕舎を訪れ噛みついた。
「当初の計画では、一日二万五千名の撤収だったのだが、ドイツ軍の妨害があったとはいえ、二十六日初日は、将兵七千名を回収にとどまった。二十七日の撤収では、十隻の駆逐艦が増援されたときくが、けっきょく将兵一万八千名に過ぎない」
「まあそう噛みつくな」
穏やかな総司令官がなだめるようにいった。
ドイツ軍のダンケルク包囲網が狭まる。
二十九日、ドイツ空軍の重爆撃を受けつつも、英国軍将兵四万七千名将兵を回収。
三十日、ここでようやくフランス軍将兵は迎えの船に乗れ、英国兵をあわせて五万四千名が回収された。
作戦開始となる五月二十六日から末日に至るまで、フランスの将軍ダルランの命令もあって、撤退は英国軍が優先されるべきだと命じたため、フランス軍がドイツ軍の盾になる格好となった。
最前線・フランス将兵たちは、「やってらんねえよ!」と息巻いた。
三十一日、飛行機でパリに飛んできたチャーチルが、フランス首脳と会談して、
「苦しいときの仲たがいは敵の思うつぼだ。各部隊の撤収は英仏軍交互に行い、英国軍がしんがりを担うように指示しておきましょう」
と調整した。
三十一日、フランス軍六万八千および英国軍指揮官が救助される。
月が改まった。
六月一日、撤退を妨害するドイツ空軍の爆撃が激しさを増す。
同日、連合軍兵士六万四千を回収。
二日夜、英国軍後衛六万を回収。
三日夜、二万六千名のフランス兵を回収。
同時に、ぶーぶー文句をたれながら、なんだかんだと友軍撤退を援護するためドイツ軍進撃を最後まで食い止めてくれていた、フランス軍二個師団がついに力尽きて投降した。
『ラ・マルセイェーズ』の歌声が響く。
四日、英国側しんがり部隊を指揮していたハロルド・アレクサンダー少将は、早朝、モーターボートでダンケルクの海岸を視察して、フランスしんがり二個師団を回収しようとしたが、すでに敵に投降していることを確認。作戦は終了した。
撤退戦期間、民間船を合わせて八百六十隻が動員され、英国兵十九万強、フランス兵十三万強、三十三万が救出された。英国中から集められた貨物船、漁船、遊覧船、救命艇といった民間小型船舶が、砂浜から沖合に停泊する駆逐艦を往復して兵士たちを運んだ。
連合国戦禍は、捕虜三万、戦死者が一万。英国駆逐艦六隻、フランス駆逐艦三隻、その他大型船九隻が沈没。十九隻の駆逐艦ほか二百隻の艦船が、ドイツ・Uボート、航空機の攻撃を受けて損傷。撤退戦を支援した航空機は四百七十四機が撃墜された。
対するドイツ側は死傷者一万、航空機百三十二機を消耗した。
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最初、作戦のつまづきばかりをきかされていたチャーチルは、
「失敗の可能性が高い」
と下院に告げたが、予想に反して、ダンケルクから連合軍の大部分が撤退したという最終報告を受け狂喜した。
そのことが報道機関に伝わると、「ダンケルクの奇跡」と大きく報じられた。
六月四日、チャーチルの下院での演説。
「我々はこの救出が勝利を示すものではないということに注意しなくてはなりません。撤退が上手くいったからといっても戦争そのものに勝てるというものではないのです」
と浮かれる下院議員たちを制したのだが、この撤退作戦が英国国民の戦意を高揚させ、和平論者を黙らせる結果となった。




