チャーチル・ノート/015 ジョージ六世「国王のスピーチ」
英国において形骸化しているとはいってもやはり王室の影響力は大きい。ここで英国王室史の概略に触れておきたい。
大英帝国最盛期の君主・ビクトリア女王の跡目を継いだのは息子のジョージ五世だ。王妃メアリとの間にできた王子は四人いる。上から王太子・ウェルズ公エドワード、ヨーク公アルバート、グロスター公ヘンリー、ケント公ジョージ。王女ではハーウッド伯爵夫人メアリーがいる。
ジョージ五世が崩御すると、長兄で王太子のエドワードが即位してエドワード八世になった。しかし、この人は、アメリカ人の一市民で、離婚歴がありつつさらに夫がいるウォリス・シンプソンと不倫関係になり、妻にしようとしたところ、英国国教会の長たる王室の規範に違反するとして、下院議会及び当時の首相から退位するか、アメリカ女性との結婚を諦めるかの二者択一を迫られた。英国国民の誰もが不倫を断念するだろうと予想したのだが、結局のところ王位を破棄して恋を選ぶ。
エドワード八世には反体制的といえばきこえはいいが、ひねくれものだった。王制に否定的な発言、ファシズム国家だったドイツのヒトラーや、イタリアのムッソリーニへの親近感を示す発言は、当時の挙国一致内閣や、王制の存続そのものを揺るがしかねないほどの物議をかもしだした。
とはいえ、第一次大戦中は、最前線に可能な限り何度も足を運んだことから、退役将兵から絶大な人気があった。一兵卒、一市民とも気さくに話す人柄は国民に愛された。
陸軍中佐として最前線で従軍していたチャーチルは、そこに親近感を感じたらしい。エドワード八世の境遇に対し同情的な立場を示し、なんとか、王位にとどまれるように奔走し結果、かえって首相ボールドウィンを怒らせ、退位を迫られることになる。この点ではチャーチルよりもボールドウィンのほうが正しかった。
一九三七年十二月十日、エドワード八世は在位一年弱で退位し、弟のヨーク公が即位。十二日、追放同然でポーツマス軍港から出航し、人目をはばかってオーストリア共和国首都・ウィーンに隠棲。それからフランスに渡り、夫と離婚してきた例のアメリカ女性を迎えて夫人にした。そして「王冠を捨てた」元国王はウィンザー公になった。この夫人の評判はよくない。社交的な分、スキャンダラスな女性で、ウィンザー公との交際中も二股三股をかけていたのだという。
素行不良で身分違いの恋をやらかしたウィンザー公は、王室から絶縁され、亡命先のフランスからの帰国を許されなかった。
失意のウィンザー公に接近してきたのがナチス・ドイツだ。一九三七年、ドイツに招待されたウィンザー公はヒトラーの山荘に滞在した。もちろん、ヒトラーはこれを利用・宣伝。見捨てたイギリス王室・政府は慌てふためくことになる。
一九三九年九月三日、英仏両国がドイツに宣戦布告すると、フランスにいた夫妻は強制帰国させられ、ウィンザー公は陸軍少将としてマジノ要塞に従軍。しかし翌一九四〇年五月にフランスが降伏すると、六月にスペインに脱出、さらに七月にポルトガルに逃亡。
ロンドン・首相公邸。
公用車が押し寄せてきて閣僚たちが執務室に駆け込んできた。
閣僚の一人がいった。
「チャーチル閣下、ロイド・ジョージ元首相ら和平派が親ドイツ派の英国王族であらせられる元国王を担ぎ上げようとしています。――ウィンザー公は国民に人気があります。厭戦気運をだしかねません」
また別の閣僚がいった。
「ナチス・ドイツは、英国を降伏させた後、ウィンザー公を国王に復位させるべく、ポルトガル首都リスボンにいた公を誘拐しようとしているとの情報もあります」
チャーチルが天を仰いだ。
「いまや友は敵だ。ウィンザー公ご夫妻をロンドンに連れ戻せ。バハマ植民地は本土や戦場から離れている。総督兼司令官として派遣する」
英領バハマは、アメリカ・フロリダ沖のカリブ海に浮かぶ島々だ。実質的な流刑処分だ。
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兄の不始末の尻拭いで、望まぬ王位に就いたのが、次弟・ヨーク公アルバート。それがジョージ六世だ。
生まれつき病弱で、X脚、吃音という障害があった。「すぐに怯えだして、泣き出す子供」だった彼は、幼少期からあった障害を左利きとともに矯正していった。
一九〇九年に王立オズボーン海軍兵学校に入学。卒業後も軍務にとどまり、第一次世界大戦におけるドイツを相手にした艦隊戦・ユトランド沖海戦にも参加した。その後、空軍が発足するとそこに移籍。パイロットの資格をとって、フランスのナンシーに置かれた、イギリス空軍独立戦略爆撃隊司令部参謀となった。戦後、空軍参謀となって、フランスにとどまり、二か月後に帰国。
やがてケンブリッジ大学に入学し一年間学んだ。
一九二三年、伯爵令嬢エリザベスとウェストミンスター寺院で結婚し公妃に迎えた。
一九二五年、大英帝国博覧会の閉会式で、吃音がもとで、スピーチに失敗しトラウマになった。このためオーストラリア人セラピストのライオネル・ローグの治療を受け始めた。
一九二七年に公式外遊先のオーストラリアのキャンベラで開催された連邦議会の開会スピーチで成功し自信を回復した。
そして一九三六年、父王ジョージ五世が死去し、兄のエドワード八世が即位。しかしエドワード八世は翌三七年、王位を捨ててアメリカ女性と結婚。
そのためヨーク公アルバートは、繰り上げで、新国王ジョージ五世になった。
一九三九年、国王夫妻はアメリカに渡ってルーズベルト大統領と個人的な友誼をもった。この信頼関係が、第二次世界大戦の同盟維持につながった。
兄を王座から降りさせ追放したボールドウィン首相は、ヒトラーのナチス・ドイツとうまくやろうとしたが、その後を継いだチェンバレン首相はさらに親密になろうと「ミュンヘン協定」を締結。しかし協定を破って、ドイツが、オーストリア、チェコ・スロバキアへと侵攻、さらにポーランドにソ連とともに侵攻・分割。
一九三九年九月、英仏両国は、ついに宣戦を布告する羽目になった。有名な、「国王のスピーチ」がここでなされる。
一九四〇年、大戦の初動を誤ったチェンバレン内閣は総辞職。
国王は、外務・英連邦大臣となったハリファックス子爵エドワード・ウッドを望んだが、子爵は下院ではなく貴族院にいる自分に大戦遂行の指導力はないと、首相の席を辞退。下院は、大臣のなかでかねてからナチス・ドイツの台頭を予言し、どう対処すべきかを論じてきたウィストン・チャーチルを、首相に指名した。そのため国王は、五月十日、しぶしぶチャーチルを首相に任命した。
しかし国王はチャーチルと友誼を深め、週一度、昼食をともにしながら、戦争について語り合った。
ジョージ六世とその家族はドイツによる空爆が始まってからも、ロンドンにとどまり、一般国民同様の配給で食事をまかなった。さらに国王は、爆撃を受けた英国国内各所を訪問、外国の前線にいる各部隊を慰問して士気を鼓舞した。
チャーチルにとって国民の士気を維持するためには欠かせない盟友となった。




